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第42話
天月 1289年 10月 5日
白鷺城 に、久方ぶりの静穏が戻りつつあった。迅 が暑さに中(あた)り倒れた騒動からひと月。未だ本調子とはいかぬまでも、城内を歩けるまでには回復していた。
その日、城門に一騎の使者が駆け込んだ。都、煌稜京 よりの急使であると告げ、神凪耀 への謁見 を求めた。
評定の間。玉座に座す暁斗 の前に、旅装束ながらも気品を漂わせる使者が恭しく跪く。石動 、朱鷺田 、長谷部 、朝倉 、そして末席には迅も控えていた。
「天瑞煌国 、黄昏 の宮におわす斎王 様より、神凪耀 御耀(みかが)に神託にございます」
使者が厳かに巻物 を広げ、朗々と読み上げる。 その声は、場の空気を震わせた。
「東夷 たる朽木 の禍 いを退けし、神凪の若き耀 。その身に宿すは、まこと天元日月大神 より連なる清浄なる神氣 。今、斎王の神託をもて、汝を煌帝 の継承権を有 する煌胤 と認めるものなり――」
(……きらめきのおおきみ? ひかりのすえ?)
迅は眉を寄せた。言葉の意味は分からない。だが、場の空気が一変したことは肌で感じた。 石動や朝倉ら譜代 の家臣たちは、驚愕 と、そして抑えきれない歓喜 に顔を上気 させている。長谷部もまた、固い表情ながら目に力が宿っていた。
(なんだってんだ…? そんなにすげえことなのか?)
ちらり、と朱鷺田を盗み見る。
朱鷺田は、いつもと変わらぬ涼しい顔で控えていたが、その瞳の奥には、確かな興奮と計算の色が浮かんでいた。 彼は知っているのだ。この神託が、どれほどの価値を持つのかを。
使者は続ける。
「天つ神の血を引き、神氣をその身に宿す神子 のみが、煌胤たる資格を持つ。神凪耀 の功績 と血筋 、神氣の強さは、疑いなくその資格を満たすものである、と。斎王様は高く評価されておられます」
畳の上に独り、神凪 (かんなぎ)暁斗 は座している。
齢十六の若き君主の姿は、幾重にも連なる衣に包まれ、その厳かな美しさが、むしろ孤独を際立たせていた。
神官たちが古 の詞 を唱え終え、沈黙が訪れた一瞬。
頭上から、地の底から湧き上がるような、深く、澄んだ響きが、殿内を満たした。それは音ではない。全身の細胞に直接語りかける、神氣 の震動。
―――「ひかりのすえ」
ただ六つ。その、神聖で絶対的な響きが、暁斗の脳裏に焼き付く。
暁斗は、玉座の上で、ただ静かにその言葉を聞いていた。表情は変わらない。だが、その紫 の瞳の奥に、確かな光が灯ったのを、迅は見逃さなかった。
(……あいつが、欲しがってたモンか)
神託の儀 (ぎ)が終わり、使者が退出すると、評定 の間は祝着 の言葉で満ちた。
「まこと、神子 、煌胤 を賜る。天 つ富寿 の国を統べる、次の煌帝 の、御器 なり!」
筆頭家老である石動 玄頼 の、震えるほどの歓喜の声が響き渡った。
しかし、暁斗の表情は、一絲 も揺るがない。神託は、彼にとって、自らの血に刻まれた宿命を、公 に確認されたに過ぎない。その宿命こそが、彼から情 を奪い、理 で生きることを強いる、冷たい鎖なのだ。
彼は、ただ、膝の上で固く握りしめた自らの掌を見つめていた。その手の内に、一年前から共に生きる、一人の男のぬくもりを、永遠に閉じ込めてしまいたいという、激しい、狂気に近い愛が、神氣の静謐な光の中で、冷たく燃え上がっていた。
暁斗はどこか上の空でそれを受け流すと、早々に家臣たちを下がらせ、朱鷺田 と迅 だけを残した。その紫 の玻璃 の瞳は、神託の内容を反芻 するかのように、静かに揺れていた。
「次は蛇だ。蛇がくる」
「蛇?」
「うむ。朱鷺田。迅に天瑞煌国岐神領について説明してやってくれ」
暁斗はそれだけ言うと、紅典を伴って、使者たちと山頂の神宮へと祈りを捧げに行くのだった。
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神託の儀式を終えた朱鷺田清十郎は、日月宮古の長い廊下を、静かに歩いていた。外は夜。彼の青石 のような瞳は、闇の中で冷たい光を放っている。
(この一年、私は何をしていたか)
朱鷺田は、己の内に湧き上がる、抑え難い熱を自覚していた。その熱は、彼が常に自らに課してきた「理性」という名の鎖を、今、音もなく溶かそうとしている。
一年と少し前。神凪 暁斗 が、火事の焼け跡から瀕死の重傷を負った神月 迅 という男を連れて戻り、隣に置いた時、朱鷺田は迅を「稀有な検体 」と見定めた。暁斗の強い神氣 を整えて庭木の狂い咲きを止め、神氣そのものを直接その身に受けても狂気に落ちぬ、天然の浄化能力。
それは、朱鷺田の「神の血筋」への研究心を満たす、最高の対象だった。
―――あなたは人よりも激しい方なので、制御は懸念の一つでした。才はあるように思います。ご自分に情緒的な波があると理解しているのであれば、その波を、私の論理によって乗りこなす術を、自ら会得できるやもしれません。
かつて、彼は迅にそう告げた。その時の彼は、あくまで観察者であり、優越者であった。迅を「道具」と呼び、その能力を「最大限に活かすこと」を、自らの課題としていた。
だが、朱鷺田の理性は、その琥珀 の瞳を持つ男の、あまりに孤独で、あまりに受け入れの早い「受容の美しさ」に、徐々に喰い破られていった。
(その孤独は、御耀 の孤独と、どこか酷似しておる。だが、迅殿は、それを拒まぬ。ただ、すべてを、静かに、そして美しく受け入れる)
初めて、観察 ることが渇望 することへと変貌した瞬間を、朱鷺田は鮮明に覚えていた。 それは、月影 が差し込む夜、迅が、神凪の古い書物を前に、黙って座していた時のこと。月光のような銀髪が、その華やかな顔立ちを影で縁取り、琥珀の瞳は、ただ虚空を見つめている。彼の隣には、誰もいない。
(あの孤独を、誰にも与えたくない。誰にも触れさせたくない)
それは、国を想う理性ではない。純粋な、一対一の独占欲だった。 この一年、朱鷺田は常に、冷静な論理と指南という名目で迅に接してきたが、その裏では、彼の言葉一つ、視線一つに、自らの「私 」たる独占の熱を混ぜ込んでいた。
=====
迅は、朱鷺田の論理を常態 として受け入れてきた。
(この一年で、朱鷺田は、俺を「道具」から「宝物」に変えた)
(あいつの視線は今や暁斗と同じ熱を孕んでる)
(だが、俺に伽(とろい)を求めないし、役に立つ)
(俺は国の理を知らぬ。暁斗の邪魔にならぬよう、あいつの首輪が役に立つのだ)
迅の心境は、いつも静かだった。
朱鷺田の青石の視線が、自らの全身を、ねっとりと、獲物を定める毒蛇のように這い回るのを、彼は知っていた。しかし、それはもはや、恐怖ではない。
「神月 」として、「煌帝の半身」として生きる上で、避けることのできない「愛 という名の呪い」の一種として、受け流す術を会得していた。
迅は近しくしたものが自分に惹かれ始めるのが常だった。だから特段、朱鷺田がそうなったからといって驚きはなかった。ああ、こいつもかという諦観があるだけだ。 迅が、朱鷺田からの支配的な視線と、それに付随する執拗な指南を受け入れるのは、全てが「暁斗の傍にいるため」という、ただ一点に集約している。
(この男は、利用できる)
(この男が、俺にかけた縄は、同時に、俺をこの宮古に繋ぎ止める鎖となる)
(俺が暁斗の傍にいられるように、俺を繋ぐ鎖。それが狐。お前の役目だ)
朱鷺田の瞳が、ついに、一室で待つ迅を捉えた。その眼差しは、もう観察者のものではない。熱情と野心と狂気を煮詰めた、支配者のそれだった。
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神託の儀より数刻 後。
日月宮古の一室にて、軍師である朱鷺田 清十郎 が、迅 の前に膝をついていた。朱鷺田は、常に理知的で感情を露わにしない男だが、この時ばかりは、その青石 のような瞳に、熱い感情の炎を宿していた。
「神月 迅 殿。改めて、申し上げます」
朱鷺田の落ち着いた声が、室内に響く。迅は、長椅子に座り、月光のような銀の髪を背に流し、その琥珀 の瞳で、どこか遠い目をして、彼の言葉を聞いている。
「先ほど、我が君、神凪 暁斗 様は、天 つ神の御意 を受け、次の煌帝 となるべき煌胤 として、正式に認められました」
迅は、僅かに息を呑んだ。それは、暁斗の即位が、彼自身の運命の転換を意味するからだ。
「煌帝の位。それは、この国で最も神聖な、絶対の頂です。そして、その御位 は、「半身 」と呼ばれる存在を、必ず伴います」
朱鷺田は、一歩、迅に近付いた。その視線は、熱く、ねっとりとした油のように、迅の全身を撫で回す。
「我が君は、あなたを、その半身、すなわち、『神月 』の名と共に、最も近き臣鬼 として、既に傍らに置かれている」
「……それが、どういう意味ですか、朱鷺田殿」
迅の問いに、朱鷺田は、静かに、そして、獰猛な笑みを浮かべた。その笑みは、まるで、獲物を追い詰めた獣のようだった。
「良いですか、迅。煌帝とは、国の理 そのもの。その理に、唯一、情 をもって寄り添い、狂気に落ちぬよう支えるのが、神月(みかげ)の役割。つまり、あなたは、『煌帝の玉座の、唯一の愛 』として、公 に認められたのです」
朱鷺田は、一瞬、声を落とし、囁くような声になった。
「そして、私は、その愛の証しを、誰よりも近くで、見届けたい。……我が君の、煌帝への道。それは、あなたという玉 を、この私から永遠に遠ざける道だ。故に、私は、この位の継承を、誰よりも理解し、そして、誰よりも憎んでいる」
朱鷺田は、迅の冷たい頬に、熱い指先を這わせた。
「しかし、ご安心を。この私めが、あなたを、その煌帝の孤独の愛 として、最高の場所に押し上げましょう。……その後で、あなたをどう扱うか。それが、私にとっての、『愛 』の優先です」
朱鷺田の言葉の奥に、事の善悪など微塵もない、ただ愛と支配の狂気が渦巻いているのを、迅は、銀の髪から覗く琥珀の瞳で、静かに受け止めていた。
迅は、長椅子に座ったまま、僅かに首を傾げるようにして、朱鷺田の指先から顔を離した。その動きは緩やかで、一切の焦りを欠いている。
「……つまり、暁斗が次の煌帝となるのが、公 に認められた、ということだな」 彼の声は、凪いだ湖面のように静かだった。
「そして、俺は、神月 という名を与えられた通り、煌帝の半身という役目が定まった」
朱鷺田は、その理知的な確認に、満足げに頷いた。
「然り(しかり)」
「その神月の役目と、煌帝の玉座の愛 という地位。それを、お前は俺から永遠に奪うことはできぬ。それゆえに今のは、その位を利用して、お前は、この俺に首輪 をかけ、生涯 、離すつもりはない、という、俺への愛 の告白、というわけか?」
迅は、言葉のすべてを正確に理解し、核心を突いていた。朱鷺田の青石の瞳が、歓喜と驚愕に揺らぐ。
「……まことに、恐ろしい御仁 だ。その通りでございます、神月」
迅は、一瞬、目を閉じて、自らの内に刻まれた運命の重さを噛み締めた後、ゆっくりと目を開いた。彼の瞳には、朱鷺田と同じ、善悪を超越した、冷たい光が宿っていた。
「いいだろう」
簡潔な承諾の詞 。
「俺が、暁斗の傍 で、完璧な臣鬼 として在れるよう、お前が裏から理 をもって指南 してくれるというならば、俺は、その首輪に甘んじて繋がれてやる」
彼は、椅子から立ち上がり、朱鷺田を見下ろした。その長身が、部屋の月光を遮り、朱鷺田を影の中に閉じ込める。
「だが、それで、朱鷺田。もしお前が、その理と愛を振りかざし、暁斗になんらかの危害を加えようとするのならば――」
迅は、己の腰に差した刀の柄に、そっと指先を触れさせた。
「その時は、俺は迷わず、お前を斬る。朱鷺田。お前が己の愛 を優先するのならば、俺もまた、暁斗の愛 のために、すべてを断つ」
それは、朱鷺田の提示した狂気に、迅が自身の狂気をもって応える、冷たく、絶対的な契約の宣言だった。
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神凪 暁斗 が次の煌帝 となることが公 に承認され、神月 迅 が煌帝の玉座の愛 として、朱鷺田 清十郎 の支配を受け入れた直後のこと。
先ほどまで激しい感情の炎を宿していた朱鷺田の青石の瞳は、軍師としての冷静な分析の色を取り戻していた。しかし、その声には、知的な優越と、迅を自らの知識で閉じ込めようとする熱がこもっている。
「では、神月 。貴殿が煌帝の半身として歩む道について、まず根源的な宿命 を知っていただく必要があります」
朱鷺田は、卓に広げられた古い地図、都 と東国 の境を示す紙図に、細く長い指を滑らせた。
「時は、およそ天月 五百年の頃。都よりも東国に、巨大な大蛇 が巣食い、民に甚大な災いをもたらしていたといいます。当時の煌帝は、自らの皇子 を遣わし、その討伐を命じた」
朱鷺田の指は、都から東へ伸びる。
「皇子 は、その大蛇が巣食っていた玻璃 の産地にて、見事に大蛇を討ち果たし、功績をあげた。時の煌帝は、この玻璃皇子 に神凪 の姓を賜り、この地、すなわち東国を治める王とした。これが、我が君の家、神凪の始祖 にございます」
迅は、静かに頷き、その琥珀の瞳で朱鷺田の手元を見つめている。彼の顔に、驚きの色はなかった。自らの傍にいる独王の血の重さを、改めて確認しているかのようだった。
「そして、問題は、その続きにあります」
朱鷺田の指が、地図の遥か北方、都から最も遠い場所を叩いた。
「討ち取られた大蛇の一族は、そのすべてが滅びたわけではない。彼らは北方に逃れ、翡翠 の産地に身を隠した。その地を治めていたのは、元は都の由緒ある貴族を祖とする一族でしたが、大蛇の一族は、婚姻 を重ねることで、その一族の血筋を乗っ取った」
朱鷺田は、冷笑を浮かべた。
「西園寺 。それが、今、彼らが名乗る家名にございます。彼らは、現在、形式的には煌帝の臣として振る舞っておりますが、その正体は、神凪の始祖が討ち果たした、大蛇の血を引く一族。すなわち、神凪の宿敵。彼らが治める地こそが、天瑞煌国岐神領 でございます」
朱鷺田は、紙図から顔を上げ、琥珀の瞳を持つ迅を、まっすぐに見つめ返した。その青石の瞳の奥で、彼の感情が激しく燃えている。
「玻璃(かんなぎ)と翡翠(さいおんじ)。東と北。討つ者と隠れ潜む者。神月(みかげ)迅 。これが、我が君、煌胤(ひかりのすえ)が、次代の煌帝として引き継ぐ、国の根源的な愛憎(あいぞう)にございます」
朱鷺田は、低い声で囁いた。
「御耀 の愛の対象であるあなたは、この国の理 に、否応なく組み込まれた。あなたが首輪を受け入れたのは、御耀 の傍に在るためなのでしょう。ならば、あなたは、この宿敵との戦において、最高の臣鬼 とならねばならぬ。……そのための、指南 を、この私が、施して差し上げましょう」
それは、朱鷺田が、迅の「愛 」のために、その存在を、歴史的な宿命という名の巨大な鎖で完全に拘束した瞬間だった。
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