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第41話

天月 一二八九年七月二十八日 軍師・朱鷺田(ときた) 清十郎(せいじゅうろう)は、医師から提出された公的な診断書を、冷徹な目で読んでいた。 『神月将軍:重度の脱水症状および熱中症。軽度の外傷(割れた器物による)』 朱鷺田は、筆を走らせていた手を止め、静かに顔を上げた。 (不合理だ。あの猿飛衆の訓練を十カ月間耐え抜いた将軍の身体が、夜間の部屋の中で脱水症状を起こすなど、確率的に有り得ない) 朱鷺田の理性は、刺し傷の形状にも疑念を抱いた。不慮の事故にしては、防御本能のない、身体の柔らかい部分に集中している。 朱鷺田は、王命による口止めが背後にあることを即座に察知した。 (王は、将軍の私的な脆弱性を、公的な(ことわり)から隔離しようとしている。すなわち、将軍自身が、理知的に制御できない暴走をした) 朱鷺田は、公文書の最も目立たない余白に、極小の文字で暗号めいた記録を書きつけた。 『公務に対する私的な脆弱性。制御不能な衝動あり。管理権の独占と、観察の強化を急ぐべき』 朱鷺田の管理欲は、王の狂愛が隠蔽した「迅の孤独な地獄」という情報を得たことで、より冷酷に、より完璧に、支配の網を広げることを決定した。 鎖固 天月 一二八九年 七月二十九夜 迅様が、喉の焼けるような痛みを感じながら、まどろんでいた。瞳を空けようにも開かない。 激しい虚脱感にさいなまれていた。 そうしながら、側に暁斗の気配を感じた。 たぶん、自分を見つめているだろう暁斗が、静かに自分を見ているのがわかる。 (……クソッ、最悪だ) (喉が、痛え…。頭が、割れそうだ) 醤油を飲んだ時、下には熱を感じて一瞬、味覚が戻ったのかと思った。でも粘つく黒い水はその塩分量の高さで身体──引いては神氣が、飲み込むなり濃い塩を拒否して吐き戻させたのがわかった。あの体の底から熱い感覚は生きている実感を伴っていた。醤油は確かに「味」ではない強烈な「刺激」と「痛み」を感じたけれど、求めていたもの以上に死の危険を感じたのだった。 (あれは『実感』じゃねえ) (ただの『痛み』だ。死ぬかと思ったじゃねえか) (あんなモンでぶっ倒れて、あいつ(暁斗)にあんな顔させて…、馬鹿みてえだ) 迅様は、醤油で得た感覚が「生」ではなく「自滅」であったと痛感していた。 そして、何より、自分が「欠陥品」であることを隠すためにこっそり行った行為で、結果的に暁斗を心配させているのだ。 (もう、やめだ) (『食べ物』で生きてるのを感じることを探るのは、もう、諦めよう) (わさびも、醤油も、結局、俺の舌が『壊れてる』って知(し)らしめるだけだ) (この道は行き止まりだ) 迅が意識を失ってから、二日が経っていた。 御殿医の診断は「夏バテによる脱水」 のままだったが、暁斗だけは、それが偽りであると確信していた。 迅は、寝台の上でぼんやりと天井を見つめている。 あの日以来、世継ぎのことも、鈴音のことも、何も口にはしない。だが、その琥珀色の瞳から、光がまた薄らいでいた。 目が覚めた迅の隣には、数刻前の狂乱の痕跡を微塵も感じさせない、静謐な王の姿があった。神凪 暁斗(かんなぎ あきと)は、迅の琥珀色の瞳が自分を捉えたのを確認すると、安堵と共に、冷徹な疑問を投げかけた。 「……迅。目が覚めたか。よかった」 暁斗は、迅の左腕に巻かれた包帯を、布越しにそっと撫でた。 暁斗、看病の侍祭をすべて下させ、二人きりになると、静かにその寝台の脇に腰を下ろした。 「……迅」 「……」 「まだ、気分が優れぬか」 「…いや。もう、大丈夫だ。明日からは、務めに」 「なら、良い」 暁斗(あきと)は、(じん)の言葉を遮ると、まるで政務の報告でもするかのように、淡々と本題を切り出した。 「先日、石動が側室の話をしてな」 「……!」 迅の肩が、びくりと跳ねた。 「聞こえていたのだろう。お前は、あの後からおかしくなった」 図星を突かれ、迅は怒ったように顔を背けた。 「……関係ねえだろ。あんたは王だ。世継ぎは必要だ。俺には、関係ねえ」 その、自分を突き放す言葉に、暁斗は苛立たしげに息を吐く。 「愚か者。だからお前は倒れるのだ」 「あ?」 「良く聞け、迅。…俺は、婚姻などせぬ」 「……は?」 迅が、信じられないという顔で暁斗を見た。 「……何、言って…」 「お前は平気だから分からぬだろうが」 暁斗は、自らの手のひらを見つめた。 「俺の神氣(かむけ)は、常人の魂を歪める。乳母が狂ったようにな。俺の神氣(かむけ)をその身に受けて、正気でいられる者など男も女も、お前のほかにはこの世におらぬ」 それは、愛の告白ではなかった。 ただ、冷徹な「事実」の宣告だった。 「……お前だけだ。迅。お前のその陽光のような魂だけが、俺の神氣(かむけ)を浴びてなお、狂わずに立っていられる」 「…………」 「故に、俺は婚姻などせぬ。否、出来ぬのだ」 迅は、言葉を失っていた。 自分が「本物ではない」と絶望し、死ぬほどの苦しみを味わった、その前提が。 この男にとっては、最初から存在すらしなかった。 暁斗は、目を伏せた迅の冷たい手を取ると、自らの頬に押し当てる。 「それに俺が、触りたいのはお前だけだ。……俺にはお前がいれば、いい」 「……っ」 「世継ぎのことなぞ、お前が気に病む必要はない。(われ)が白鷺城の主となり、神凪耀(かんなぎのきみ)としてこの国を継いだのは神氣(かむけ)が叔父上よりも強かったからだ。我が子をなさずとも、神凪(かんなぎ)は続く」 暁斗は、迅を安心させる最後の事実を告げた。 「血統というのなら叔父上も俺と同じ条件だ。そして宗家に世継ぎがいないのなら神凪四家から養子をもらえばいい。そのための分家だ。だから、お前は気にしなくてよいのだ」 (……なんだよ、それ) 迅は、目の奥が熱くなるのを感じた。 (じゃあ、俺が、勝手に絶望して、勝手に醤油飲んで、ぶっ倒れたのは、全部…) (こいつにとっちゃ、最初から、ありもしねえ心配だったってのかよ) 安堵と脱力が同時に押し寄せる。 しかし。 迅の胸には、まだ拭い去れぬ、もう一つの棘が残っていました。 「……はっ」 迅は、顔を覆っていた手をどけると、自嘲するように笑った。 「そうかよ。婚姻しねえってんなら、もう、いい。世継ぎの話は、分かった」 暁斗が、彼の顔を覗き込む。 「だがな、暁斗」 迅の瞳が、再び冷たい光を宿した。 「―――じゃあ、『鈴音』って女は、なんなんだよ」 「……?」 暁斗(あきと)は、本気で分らないという顔で、きょとん、と首を傾げた。 その反応が、迅の疑念に更に火を点ける。 「とぼけんな! あんたが言ったんだろうが!」 寝台から身を起こそうとする迅を、暁斗が慌てて制する。 「待て、落ち着け。…『鈴音』が、どうした」 「『鈴音がお前の部屋に入り浸ってる』って! 俺の留守に、あんたの『お手つきの女』を、俺の寝床に引き入れてたんだろうが!」 迅の口から飛び出した、あまりにも俗な言葉と嫉妬に、暁斗は一瞬、目を丸くした。 だが、すぐに状況を理解した彼は、 (……ああ、そういうことか) と、深く息を吐いた。 「……迅」 「なんだよ!」 「鈴音は、今もここにおる」 「―――っ!」 迅が、息を呑む。 暁斗は、その反応を全く意に介さず、ただ事実だけを告げた。 「鈴音は、女ではない。そもそも人でもないぞ」 「……は? 人じゃ、ねえ?」 「うむ」 「じゃあ、なんだってんだよ! 俺の部屋に入り浸ってた、その『鈴音』ってのは!」 暁斗は、本気で迅が何をそんなに怒っているのか分からない、という顔で、きょとんと彼を見返した。 「前に話したであろう」 「あ?」 「鈴音は『魂氣(たまけ)』だ。俺が名を与えて、使い魔にしておる」 (……たまけ?) 迅の頭の中で、かつて暁斗が朽木戦の前に語っていた、不可思議な力の話が、ぼんやりと結びつく。 『妖には二種類あって、目に見える物の怪(ものけ)と目に見えない魂氣(たまけ)がある』 暁斗は、まるで当然のように続けた。 「あの時だ。我がお前に会いに、城を抜け出した正月…そう、我が九つになった、あの誕生日の時のことだ」 「……!」 忘れるはずがない。 泥だらけの服を着て、それでも隠しきれない気品を漂わせ、自分の前に現れた「天人」。 一緒に食った、あの団子の甘さ 。 「あの時、鈴音に俺の衣の鈴の音を覚えさせ、俺がが城にいると見せかけて、抜け出したのだ」 暁斗の口元に、微かな、懐かしむような笑みが浮かぶ。 「あやつは音を真似るだけの(あやかし)だ。害はない。普段は俺の影に隠れてついてくるのだが、居心地の良い場所があるとそこにとどまる癖がある。お前の太陽の息吹がお気に入りらしくて、お前の部屋に入り浸っている。この語とはよくお前寝床あたりに潜んでおるのだ」 迅は、ぽかん、と口を開けていた。 (……魂氣? あの、九つの、誕生日の…?) (じゃあ、俺が、『お手つきの女』だの『寝床に引き入れた』だの、勝手に勘違いして、苦しんでたのは…) 「……なんだよ、それ」 腹の底から、怒りとも呆れともつかない、複雑な感情がこみ上げてくる。 「……お前、そういう大事なことは、先に言えよ…!」 「? 言ったぞ、今」 「そうじゃねえ!」 迅は、頭をがしがしと掻きむしった。 この、とんでもない御君は、人の心の機微というものを、本気で分かっていないのだ。 だが、同時に。 あの、泥だらけになって笑い合った、九つの誕生日の記憶。 自分に会うためだけに、この御耀(みかが)が、そんな大掛りな「企み」をしていたのだという事実が、醤油で荒れた胸に、じんわりと温かく沁みた。 「…ははっ。全く、あんたは」 迅は、緊張の糸が切れたように、ベッドに笑い崩れた。 「手のかかる王様だぜ、本当に」 嫉妬に狂った自分が、馬鹿らしくてたまらなかった。 暁斗は、迅の強がりも、久しぶりに見る屈託のない笑顔も、ただ愛おしそうに、じっと見つめた。 そして、暁斗は、「世継ぎ問題」の絶対的な真実を、愛の言葉として伝えた。 「迅。お前に神の血を引く我が一族だけが知る秘密を教える。これは、石動は知らぬのだが、神氣を纏うものは、我ら一族の女からしか生まれぬのだ」 「一族の女であれば、そのものが神気を持つかどうかも、相手の男が神気を持つかどうかも関係がない。そして世継ぎは血族さえあればよいのだ。幸いなことに、南茂(みなも)叔父上には男子供もも女子供もいる。俺は(つがい)側室(おんな)も、迎えなければならない理由などない」 「だから、迅。お前を脅かすものは、何一つない。お前は俺の命のすべてだ。誰にも、その座を譲る必要はないのだ。覚えておいてくれ」 醤油事件という「生きる実感」を求めた渇望の行動は、暁斗には隠されたまま、愛の言葉によって一時的に封印された。 迅の自己嫌悪は、暁斗の命懸けの愛によって一時的に封印され、絶対的な忠誠へと変貌した。 迅は、嗚咽(おえつ)と共に、王の首に、力なく、しかし深く、腕を回した。 暁斗は、愛おしむように、幼い日の記憶を語り始めた。 「……ホッケが美味しかった。あの時の団子の温かい味も覚えている。初めて会ったときは、ザリガニ釣りを見せてくれて、俺を川に招き入れてくれた」 「お前はあのときから、俺が生きる世界を美しく照らしだす光そのものだ」 暁斗の愛の告白に、迅は、心の中で燃え上がるような熱を感じた。 「それは、俺の台詞だ……!」 迅は、涙を流し、王の頬に自分の頬を擦り付けた。 「お前は、俺を清らかなものにしてくれる。俺の汚れた熱を、清涼な水にしてくれる。お前こそが、俺の大切な宝だ」 迅は、王への愛と命の根源を、魂を震わせながら王に返した。 この「神の理」による愛の交換によって、二人の魂の絆は二度と解けない鎖として、より強固に結びつけられた。

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