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第40話

天月 一二八九年 七月。長月(九月)の密室の夜から、十カ月が経過していた。 季節は一巡し、城内の空気が梅雨の重さから、真夏の熱へと移り変わる頃。(じん)の身体と心は、この十カ月間の支配と愛の連鎖によって、完全な安定を見せていた。 神凪暁斗(かんなぎあきと)(かんなぎ あきと)は、十六歳となり、その冷徹な美貌はさらに磨かれ、背丈は迅の肩を軽く越えるほどになっていた。 近衛として顔を合わせる玄忠(くろただ)や、猿飛衆の古株たちも、十カ月で目覚ましい身体的な成長を見せていた。 神月 迅(みかげじん)も、十八歳となった。しかし、その肉体は、白鷺城に運び込まれたときのままでいた。猿飛衆には、迅と年齢の近い者が多い。その誰もが「大人」の階段を上る中で、迅だけが時の流れに取り残されたように、静止した美しさを保っていた。十七歳としては手足が長く長身の方だった迅だが、猿飛衆のなかで身長は目立たなくなりつつあった。 神凪耀(かんなぎのきみ)神凪(かんなぎ) 暁斗(あきと)と、神凪将軍・神月(みかげ)(じん)の関係は、城内の誰の目から見ても絶対的なものとなっていた。 暁斗は、夜ごとに迅を「己の半身」として愛し、その神気を分け与えた。迅は、その度ごとに、焼けるような渇きを清涼な水によって満たされ、自身が「道具」として、王にとって唯一無二の価値を持つことを実感した。 二人は、公的な場でこそ距離を保ったが、私室では一糸乱れぬ絆で結ばれていた。暁斗は迅の銀の髪を愛し、迅は暁斗の冷たい神聖さを唯一溶かす温もりとなった。この鎖が、迅の崩壊寸前の心を唯一繋ぎ止める命綱となっていた。迅は、もはや王の側を離れることを、魂の死と同じように恐れていた。 満月と新月に行われる神気の儀式は、この十カ月間、一度も途切れることはなかった。 儀式の場には、紅家(こうけ)の侍祭の斎木(さいき)紅典(あかのり)の護衛が常に屏風の向こう側に侍り、その様子は滞りなく筆頭家老の石動(いするぎ)へと届けられた。石動は、王の神気と迅の結びつきの強さを、公的な報告書を通して知り、規律と忠誠という名で維持し続けた。 また、迅が神凪耀(かんなぎのきみ)臣鬼(しんき)として近衛隊を含む軍事の最高峰である将軍に任命されていることで、新しく王の護衛体制にもとして暁斗の近衛(このえ)が改めて編成され、そこに文官最高峰である筆頭家老の石動(いするぎ)玄頼(げんらい)が副将軍として軍の規律を監督し、石動(いするぎ)玄忠(くろただ)が近衛隊長として所属した。 玄忠は、指南役の指導や城内の移動中に迅と顔を合わせるたび、王への忠誠心と、迅への対抗心や石動家の規範とを混ぜ合わせたような複雑な眼差しを向けた。迅は、その素直な視線を、朱鷺田の管理や石動の狂気とは違う、玄忠の年相応の反応を面白がっているきらいもあった。 朱鷺田による猿飛衆の管理は、冷徹で完璧だった。 熊樫はいわば猿飛衆の良心として、朱鷺田はもちろん、石動、朝倉、長谷部たちのみならず、神凪蒼家や玄家ともうまくやっていた。困ったときは迅に相談し、場合によっては朱鷺田にも指示を仰いだ。 友衛(ともえ)の按摩は「道具の手入れ」として公的に容認されたが、朱鷺田の「公務」という名目のもとで厳しく時間と出入りを管理され、私的な交流の隙はなかった。 小雀は、迅への狂愛と狂信を隠そうとしなかったが、朱鷺田の合理的な管理の鎖が、彼らの干渉を全て公的な手続きへと変換し、王の剣が暴走するのを防いでいた。 しかし、絶対的な愛が魂の渇きを満たしても、味覚障害という「生の実感の欠落」だけは埋められなかった。 飲食による喜びが一切感じられない。 暁斗との接触以外に迅は個人的な喜びを感じる機会がないのだ。 深夜、朱鷺田の冷徹な管理と、小雀の狂信の視線を避けながら、彼は命の渇きを誤魔化すように、刺激物を試した。 生の生姜の根を噛み、舌と喉を灼く熱い刺激で、石動の汚辱を打ち消そうとした。 山椒(さんしょう)の乾燥した実を粉ではなく粒のまま噛み潰し、電気的な麻痺によって味覚の存在を強引に主張させた。 精製されていない岩塩を、血の味に近い痛烈な塩味を求めて直接舐めた。 胡椒や醸造酢を密かに持ち込み、強烈な酸味や熱で、味のない日常に「痛ましい色」を塗ろうとした。 どの刺激も、一瞬の激痛の後に残るのは、生の実感を求めて自己を破壊する行為への深い自己嫌悪だけだった。 この安定した支配の網の中で、迅の孤独な地獄は続いていた。 迅は、暁斗の絶対的な愛という光の中にありながら、味覚の喪失という個人的な闇を抱え、刺激物への渇望という名の孤独な地獄をさまよっていた。 この安定した支配の網の中で、「次の運命」は静かに、しかし、確実に根を張り始めていた。 諍い 天月 一二八九年年 七月二十六夜 下弦の月 季節は、梅雨明けの文月(七月)の夜。 その日、筆頭家老の石動 玄頼は、迅を絶望させるための舞台を周到に準備した。 石動は、「暁斗が迅に重要な話がある」という嘘の使いを、わざと王の私室の襖の裏で待たせている迅に、直接送らせた。迅は、暁斗からの呼び出しと信じ、緊張感を持って指定された場所で待機した。 石動は、迅が廊下の襖越しに立っていることを確認すると、神凪 暁斗との秘密の対話を始めた。。 「―――御君(みきみ)。これは、(しん)としての最も深い憂慮でございます」 石動は、深々と頭を垂れた。 「神月将軍は、確かに国の要であり、御輝の神気の(かなめ)。しかし、王位の継承は、神凪家の血と公的な(ことわり)に従わねばならぬ。御輝に、世継ぎがなければ、この国の安寧が揺らぎます」 石動は、「規範」という名の狂言を、暁斗に突きつけた。 「どうか、西ノ宮(にしのみや)斎主(さいしゅ)である、神凪(かんなぎ) 南茂(みなも)様の娘君を、側室にお迎えください。それが、王家の理であり、御輝の責務でございます」 石動の言葉は、公的な忠言の仮面を被っているが、その実、「迅と公的な血筋を対立させる」という、悪意に満ちていた。 暁斗は、苦渋の表情で頷いた。 「わかった。理屈は、通っている。叔父上(おじうえ)にも相談し、検討する」 暁斗が、理知的な判断を下した、まさにその瞬間。 その私室の(ふすま)を隔てた廊下に、神月(みかげ) (じん)は、立ち尽くしていた。 (世継ぎ……) 迅の耳に届いたのは、王の義務と自分の限界を突きつける、残酷な言葉だった。 (俺は、命の根源にはなれても、世継ぎを与える本物の妻(つがい)にはなれない。黄金の日々のような、まっとうな家庭の温かみを、暁斗に与えることは、できない) 「道具」として割り切っていたはずの心が、激しい孤独に苛まれた。王の理は、愛という非合理な聖域に、容赦なく侵入してくる。 迅は、石動に罠にかけられたことに気づく間もなく、魂の傷に打ちのめされ、その場を立ち去った。 問診 翌日の二十七夜 朱鷺田は、南茂との謁見で得た「王の愛を利用した管理」という指針に基づき、迅の「道具としての健康状態」を問診していた。 「神月。睡眠は足りていますか。指南への集中力が、公務の質に直結します」 「問題ありません、朱鷺田殿」 迅は、完璧な敬語と無表情を保つ。しかし、昨夜の石動の言葉が、彼の情緒不安定な心を深く蝕んでいた。 「次に、食欲です。将軍の身体は、王の命綱。最高の状態を維持するため、嗜好や食の乱れは、理知的に把握する必要があります」 朱鷺田は、味覚障害の可能性を探るため、慎重に問いかけた。 その瞬間、迅の仮面が崩れた。 「食欲だと……?」 迅の琥珀色の瞳が、激しい怒りと猜疑心(さいぎしん)に揺れた。 (この狐……!俺が欠陥品だと、味覚を感じないことを、暴こうとしているのか!) 迅の不安定な心は、新月前の神気の減衰も相まって、朱鷺田の合理的すぎる質問を、「自分の弱みを暴き、王から引き離そうとする企み」と、過剰に解釈した。 「失礼。問診は、ここで打ち切ります」 迅は、椅子を蹴飛ばし、そのまま指導を拒否して、朱鷺田に背を向けた。 朱鷺田は、その感情的な反応を見て、新たな結論に至った。 (やはり、王の命綱には、理屈では制御できない脆弱性がある。この不安定さこそが、私的な支配の隙となる) 朱鷺田の書庫から逃げるように戻ってきた迅は、自室に閉じこもりたい衝動を抑え、暁斗の私室へと向かっていた。 昨日聞いてしまった「世継ぎ」という言葉。そして先ほどの朱鷺田による、まるで欠陥探るかのような「問診」。 胸の奥が、冷たくざわついて落ち着かない。 (『本物』じゃない) (『完璧な道具』じゃない) 部屋に入ると、暁斗は書状を読んでいたが、すぐに顔を上げ、迅の気配に眉を寄(よ)せた。 「…迅(じん)? 顔色が悪いぞ。朱鷺田に何かされたか」 「…いや。何でもねえよ」 迅は、壁際に控えようとした。 その時、暁斗がふと思い出したように、悪気なく口を開いた。 「そういえば迅。妙なことだが…」 「ん?」 暁斗は、何も気に留めぬ様子で、続ける。 「お前の息吹は心地よいらしくてな。最近は鈴音が、お前の部屋に入り浸っておるようだ」 (……は?) 迅の思考が、一瞬止まる。 (鈴音…?) 頭の中の音の響が反芻れる。 聞き慣ない名。だが、その響、明らかに女の名だ。 (俺の、部屋に…? 入り浸ってる?) 暁斗は続ける。まるで微笑ましいものを見るかのように。 「お前が側におらぬ時も、あやつはよくお前の寝床の辺りでじっとしておる。お前の気配が残っておるのが良いのかもな」 迅の背筋に、氷の杭が打ち込まれた。猜疑心で一杯の迅の耳には、その言葉が全く違う意味で響いた。 (鈴音……? 俺の留守中に、女が、俺の部屋にいるだと……) 鈴音という名前を、「お手付きの女」と解釈した迅の絶望は、頂点に達した。 (世継ぎを与える本物の女を、俺の聖域にまで入れ、俺の浄化の息吹を与えている……!) 迅は、自らの存在価値を完全に否定されたと感じた。愛の鎖が、憎しみと自己破壊の衝動へと、一瞬で反転した。 (俺、いない時) (俺の、寝床(ねどこ)に) (暁斗(あいつ)の、『女』が) (……はっ。そういうことかよ) (俺の部屋を、俺の寝床)を。俺がいない間は、そいつに使わせている、と) (『お前だけだ』なんて言っておきながら、結局これか) (俺は、あいつにとって、その程度の存在。唯一ですらない) 「…そうかよ」 声が、自分でも驚くほど冷たく、平坦に響た。 暁斗は、ようやく迅の異変に気づき、怪訝そうに見る。 「どうした、迅」 「…いや。別に」 迅は、ふいと顔を背た。 暁斗の顔を見ていたくなかった。 『本物じゃない) 『完璧な道具』じゃない 『唯一』ですらない 足元が、崩れていく感覚に襲われる。 生ている実感が、どこにもない。 自分の影すらわからない。 確かめなければ。この舌。この喉何かが通る「痛み」を。 「……少し、風に当たってくる」 それだけを言い捨てると、迅(じん)は暁斗返事も待たず、部屋を飛び出した。 向かう先は、もう決まっていた。 なんでもいい。 俺を感じたい。 俺がにここにいるって確かめたい。 夜半。城の厨 迅は、 暁斗(あきと)の寝所を見回り、自室に戻るふりをして、足音を殺して台所へ向かった。 (何を食っても何を飲んでも味がしねえ) (ただ者がのどを通っていくだけで、なにもかもがそっけない) (食って生きてる実感を感じたい) (味が、欲しい) 頭の中で、朱鷺田(ときた)の言葉が、石動の(こえ)が、そして暁斗が口にした「鈴音」という名が、ぐるぐると回っている。 (『世継ぎ』) (『味に偏りが?』) (『鈴音が、お前の部屋に』) (俺は『本物』じゃない) (俺は『完璧な道具』じゃない) (俺は『唯一』ですらない) 生きている感覚が、指先からサラサラとこぼれ落ちていく。 何か、強いもの。痛いもの。 この舌と、喉と、腹の底に、存在を証明する「熱」を流し込まなければ。 台所は、月明かりだけが差し込む、静かな闇に沈んでいた。 目指すは、奥に鎮座する大きな醤油樽。 いつもは、料理人たちによって、固い閂(かんぬき)が下ろされているはずだった。 (……開いてる) 誰かの締め忘れか。 横木が、中途半端に浮いていた。 それは、まるで迅を誘っているかのようだった。 迅は、息を詰める。 物音を立てぬよう、そばにあった手近な徳利を掴むと、樽の注ぎ口に当てがった。 (醤油……) (こいつを飲めば、何か感じるだろうか) (わさびより、もっと強く) とぷ、とぷ、と。 黒く、粘り気のある液体が、徳利に満ちていく。 むせ返るような、発酵した穀物の強い「匂い」だけが、迅(じん)の鼻を突いた。 徳利を懐に隠し、誰も見られていないことを確認して、足早に西殿へ戻る。 扉を閉め、錠を下ろす。 もう、誰も入ってこない。 (『鈴音』とやらも、今はいない) 徳利を握りしめる手が、小刻みに震えていた。 震えを追い払うように、徳利の口を、唇に当てる。 (ああ、これは初めて試す) (たのむ……たのむから、俺が生きているのだと、教えてくれ) 生きている実感が欲しい。 味を感じたい。一瞬でいいから、味のある生に戻りたい。 ただただ、その一心だった。 ごくり。 ――刹那。 舌を焼く強烈な塩の奔流が、彼の味覚を麻痺させた闇を、一瞬だけ貫いた。それは、味ではない。化学的な刺激であり、命を燃やすような激しい熱だった。 「ッ……ぐ、あ、ああ……!」 迅は、その一瞬の解放に、快感に似た激しい喜びを覚えた。同時に、その異常な刺激が、十七歳の生を止めた脆弱な内臓を、容赦なく襲った。 (これだ……これが、生きているってことだ……!) 徳利を傾け、茶色い液体を喉の奥へと流し込む。意識が遠のく中、彼は崩壊する自分の肉体を通して、生の実感を求めた。 味は、しない。 ただ、舌が痺れるような強烈な「塩辛さ」という名の刺激と、喉を焼き尽くすような「痛み」だけが、食道を駆け下りていく。 ごくり、ごくり、と飲み下す。 匂いでむせ返りそうになる。涙が浮かぶ。 だが、その「痛み」こそが、今の迅が求めていた唯一の感覚だった。 (あ…、熱い。痛い……) (俺は、まだ、生きて……) 徳利が、空になる。 それと同時に、腹の底から、経験したことのない灼熱がこみ上げてきた。 「かはっ…、……っ」 立っていられない。 激しい眩暈と、吐き気。 視界が、ぐにゃりと歪む。 激痛が、全身の神経を逆流する。 迅は、その場に崩れ落ちた。口から溢れ出たのは、醤油と、胃から逆流した胃液、そして大量の血だった。辺りには、醤油の匂いと、鉄錆の匂いが混ざり合い、神月 迅の孤独な絶望だけが、血と嘔吐物で汚れた海となって広がっていた。 (あ…、れ…?) 「生ている」実感を求めたはずが、逆に「死」が、足元から忍び寄ってきたとわかった。 床に手をつこうとして、間に合わなかった。 ガシャン、と徳利が床に落ちて割れる音と、(みずか)らの身体が倒れる鈍い音を、迅は、遠のいていく意識の中で、聞いていた。 背中が熱い。 徳利の破片が刺さってる。 そう思ったとき闇と静寂が訪れた。 その時だった。 ドォン、と、障子を突き破らんばかりの強い気配が、厨に満ちた。 「……迅!!!」 その声は、通常では考えられないほどの王の動揺を孕んでいた。 神凪 暁斗(かんなぎ あきと)が、冷徹な美貌を恐怖に歪ませながら、神月 迅を発見した。 暁斗が見たのは、血の海の中に、割れた徳利の破片と共に、意識なく倒れている迅の姿だった。 「―――迅ッ!!」 暁斗は、狂乱した。 迅の唇に、自分の唇を重ねた。苦痛に、迅の銀髪が汗で肌に張り付く。小さな呻き声が、暁斗の首元で消えた。 (生きていろ! お前は、俺の命だ!) 暁斗の神気は、迅の魂に直接触れた。 生きてる。 その確信を得た瞬間、暁斗の恐怖に歪んでいた表情から、全ての感情が消え失せた。 「……お前は愚かだ、迅」 王の冷徹な顔に戻った暁斗は、周囲の惨状を視線だけで把握した。床に広がる醤油と血の跡。 (醤油を飲んだのか) (このような自傷行為で、お前は俺から逃げようとしたのか) 暁斗は、狂乱の中で冷静な判断を下した。 (この嘔吐物と異臭を、朱鷺田(ときた)石動(いするぎ)に、そのまま見せてはならぬ) 暁斗は、自らの外套を嘔吐物に浸しながら、割れた徳利の破片と黒褐色の液体の痕跡を、掻き集め、拭い清めた。 暁斗は、迅の顔に付着した血と醤油を、自らの袷の袖で丁寧に拭い去った。 そして、周囲に残された痕跡を徹底的に隠蔽した。 「お前は、病なのだ。迅。心が病んでいる」 暁斗は、冷酷な満足を瞳に宿し、再び迅を抱き上げた。 「この病を癒せるのは、この世界で、俺だけだ」 神凪輝は、厨を後にする直前、迅の耳元で囁いた。 「もう二度と、俺の許可なく、孤独に死を選ぶな。お前は俺の宝物だ。この繋がりは、お前が望んでも、俺が手放すことはない」 割れた徳利と醤油は、暁斗の狂乱と医師を呼ぶ緊急事態の中で、処置後にすぐに片付けられ、誰にもその内容が知られることはなかった。 迅の私室の寝台に、銀髪の躯体が静かに横たえられた。 暁斗は、筆頭家老の石動(いするぎ)を介さず、朱鷺田に極秘の伝令を出した。 「神凪(かんなぎ)本家の御典医(ごてんい)を呼べ。心労による高熱で、将軍が倒れたと伝えよ。一刻を争うが、口外は許さぬ」 暫時後、神凪家に長年仕える老年の御典医が、息を切らせて私室に駆け込んできた。彼は、寝台に横たわる迅の荒い呼吸と顔色の悪さに、瞬時に事態の異常性を察知した。 御典医が迅の脈を取り、目を合わせようとした瞬間、暁斗の冷徹な声が、背後から放たれた。 「心労による過労だ。違うか、御典医」 御典医は、その声に込められた、王の絶対的な威圧に全身を硬直させた。彼は神凪輝の背中を見上げ、震える声で答える。 「……は、はっ。さようにございます。将軍様は、あまりにも心労を重ねておられました。高熱と、内臓の弱り、それに伴う軽い吐き気。熱中症も併発しているかと」 暁斗は、静かに、そして氷のように冷たい視線を御典医に投げかけた。 「口を滑らせるな。御典医。将軍の威信に関わる」 「畏れながら……」御典医は、生唾を飲み込んだ。 「この症状は、極度の塩分を内臓に取り込んだ時のものに……」 ガシャン! 暁斗は、傍にあった水差しを床に叩きつけた。破片が御典医の足元に飛び散る。 「二度と、その言葉を口にするな。この国に、将軍の命を知る者は、俺以外に不要だ。もし、一言でも外に漏らせば……お前の一族、そしてお前の知識は、この世から消滅する。神凪輝の誓いだ」 御典医は、顔面を蒼白にして床に平伏し、恐怖に声も出せないまま、震える手で薬の調合を始めた。 (大量の塩分接種……。 御殿医は黙らせたが…) 爪が掌に食い込むほど、拳を握りしめる。 あの燃え盛る火事の中ですら、最後まで生を繋ごうとした男だ。陽の光そのもののような氣けを放ち、この俺の神氣かむけすら受け止めるほどの、強靭な魂の持ち主が。 (なぜそんなことになった?) (神氣が疲弊していた) (神氣が毒と判断して拒んだのは明らか) (すぐに吐き出して大事ないのは幸いだったが……) 蘇るのは、部屋の扉を開けた時の光景。皮下に広がった赤黒い液体と散らばった陶器の欠片。動かぬ迅。 まるであの日、瓦礫の下で見つけた時のように、衝撃をうけた。 (また、昨年のように何日も……) 恐怖が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。 石動が世継ぎの話をした日以来、迅の口数が減っていた。 翌日には朱鷺田が詰まらぬ問診をしたと苛立ってもいた。 鈴音の話をした時も、ふいに出て行ってしまった。俺が、気づかぬうちに、あいつを追い詰めていたのか? (迅。お前のいない世界で、俺は生きてはいけない) (お前がいないなら俺はこの世界を許せない。そう言ったはずだ) 御殿医は「水を飲ませ、安静に」とだけ。 馬鹿め。あいつの身体は、常人の理では測れぬというのに。 (自ら自分を傷つけるなど、石動にも朱鷺田にも感づかれてはならない……) (早く、目を開けろ。迅) (二度と…、俺を独りにするな) 天月 一二八九年七月二十八日 神月迅が倒れたことが家臣団に告げられれ田。 診断は、熱中症と重度の脱水症状。しかし、迅の元気な様子を知ってい、朱鷺田は、その診断に耳を疑うのだった。 (あの者が倒れた、か) 石動は表情を変えなかった。 近衛副将軍として、近衛隊長である玄忠へ、将軍の不在を伝えるのみで、変わらぬ日常にもどりながら、思考を巡らせる。 先日、嫌がらせを兼ねて御君へ側室をもらい受ける提案をした。 その結果がこれなのだと静かに受け止める。 御殿医(ごてんい)が慌ただしく御君(みきみ)の私室へ駆け込んでいくのを見送り、吐き捨てる。 聞けば、暑さに当たったとかいう。 (『荒ぶる剣』などと御君は持て囃されるが…所詮、その程度か) (いや…、あるいは) 御君の、あの規格外の神氣(かむけ)。 あのような御方の側近くに侍り続ければ、いかに迅が『(あやかし)』の類であろうとも、その身に歪みが出るのも道理。 御君の清浄な力に、あの者の穢れた魂が耐えきれなくなったか。 (良き兆候やもしれぬ。あの者が自ら壊れてくれるならば、御君の御目もようやく覚めよう) しかし、と石動(いするぎ)は眉を顰める。 御君の、あの取り乱しよう。 たかが剣一本が倒れただけで、御殿医を呼び、御自ら看病なさるとは。 (…御心(みこころ)を惑わす。やはり、あの者は、側に置くべきではない) 苛立ちが募る。 (早く立ち直れ、迅。そして、これ以上、我が君を煩わせるな) (…お前のその脆い身体は、あの御方を受け止めるに、足りぬというのか) 軍師・朱鷺田清十郎は、医師から提出された公的な診断書を、薬草に囲まれた自室で、冷徹な目で読んでいた。 『神月将軍:重度の脱水症状および熱中症。軽度の外傷(割れた器物による)』 (熱中症? 脱水? ……馬鹿を言うな) 朱鷺田は筆を走らせていた手を止め、冷ややかに書簡を見つめた。 (神月が、ただの暑さで倒れるものか。あの肉体は、常人のそれとはかけ離れた強さを持つ) 不合理だ。あの猿飛衆の訓練を十カ月間耐え抜いた将軍の身体が、夜間の部屋の中で脱水症状を起こすなど、確率的に有り得ない。 朱鷺田の記憶に、先日の迅との問答が蘇る。『味』について問うた時の、あの露骨な動揺。そして、直後の「感情の増大」。あれは尋常ではなかった。 (何かを隠している。それも、己の『機能』に関わる、決定的な欠落を)。 だとしたら、今回の卒倒は、病ではない。 あの問診、あるいは他の何かが引き金となり、精神の均衡を崩した結果……いや、あるいは。 まさか。自ら、何かを……? 朱鷺田の理性は、刺し傷の形状にも疑念を抱いた。背中に陶器の破片による傷がついている。腕をつくような防御しようとした形跡がなく、無防備に倒れていることを示している。 (これは、王命により口止めが背後にあるのでは……) 意図的に情報が伏せられていることを即座に察知した。 (神月の私的な脆弱性を、公的な理から隔離しようとしている節がある) (すなわち、神月自身が、理知的に制御できない暴走をしたのだ) 朱鷺田が先の問診を下限を刻を過ぎて行ったのは、迅の判断力が低下している状態での問診への反応を試すためでもあった。 御耀は、あの男を「神氣の器」と呼んでいる。 その器が、今、確実に歪み始めている。 御耀は気づいておられるのか? いや、あの御方は、迅が関わると途端に目が曇る。 (これは……、なにかある)。 朱鷺田の管理欲は、王の狂愛が隠蔽した「迅の孤独な地獄」という情報を得たことで、より冷酷に、より完璧に、支配の網を広げることを決定した。 朱鷺田は、公文書の最も目立たない余白に、極小の文字で暗号めいた記録を書きつける。 『公務に対する私的な脆弱性。制御不能な衝動あり。管理権の独占と、観察の強化を急ぐべき』 そして、彼は別の筆を取る。公的な報告書に、流麗な文字で「夏バテにて卒倒」と記した。 (『夏バテにて卒倒』。表向きはそれで良い) (だが、水面下で調べさせてもらうぞ、神月。お前が隠す、その『欠落』の正体を)。

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