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第39話

天月 1289年 6月27日 障子越しに射す光が、畳の上に淡く揺れていた。 正座の姿勢を保ったまま、朱鷺田の講義を聞いていた。今日の題目は、神凪家に伝わる古典礼法と、諸国の外交儀礼の違いについて。 迅は、けがも治り体調も回復していたが、この日の迅の瞳は、どこか焦点が定まらず、時折、眉間に皺を寄せていた。 朱鷺田は、巻物を指し示しながら、静かに言った。 「――このような場面では、言葉よりも沈黙が礼となる。子供のように、すぐに口を開くのは、無礼とされる」 その一言に、迅の肩がぴくりと動いた。 「……子供、って言うなよ」 声は低かったが、明らかに怒気を含んでいた。 朱鷺田は、巻物から目を上げた。 「神月。これは例えの話だ。感情的になる必要はない」 「感情的になんて……!」 迅は、思わず声を荒げた。 「俺は、もう子供じゃねえ。あんたらみたいな大人に、何度も何度も踏みつけられてきた。子供だからって、何も知らねえみたいに言われるのは、もう……もう、うんざりなんだよ!」 その言葉は、まるで堰を切ったように溢れた。 朱鷺田は、しばし沈黙したまま、迅の顔を見つめていた。 その瞳には、怒りではなく、静かな理解が宿っていた。 迅は、はっとして口を閉じた。 自分の声が、障子の向こうにまで響いたことに気づき、肩を落とした。 「……すまねえ。俺、ちょっと、変なんだ。最近、下弦の刻が過ぎると、どうも……」 言いながら、迅は天井を見上げた。 「なんか、頭がぐらぐらして、気持ちが落ち着かねえんだ」 朱鷺田は、静かに頷いた。 「それは、己の心の揺らぎをきちんと感じている証です。自分の状態がよくないことが分からない者に、それを正すことはできない。人は具合の悪いこともある。謝る必要はありません。そして、迅――」 彼は、巻物を閉じて言った。 「子供であることは、恥ではない。むしろ、学びの余地があるのだと、私は思う。私も、かつては子供でした。そして今も、学び続けております」 迅は、少しだけ目を伏せて、苦笑した。 「……じゃあ、あんたは、今でも子供ってことか?」 朱鷺田は、口元にわずかな笑みを浮かべた。 「そうかもしれませんな」 だが、すぐに表情を引き締めた。 「ですが、一度、礼節という形式を身につけてしまえば、人は無駄な気遣いに心を割かず、その分、より重要な事柄に集中できる。例えば、王の真意や、敵の深謀を考えることに、です。立ち振る舞い方がしっかりしていれば、振る舞いが子供だと謗られ、時間を取られることもなくなる。それだけでも、今のお前よりも、有利になるんですよ。 神月」 迅は、朱鷺田の青石のような瞳の奥を覗き込むようにして、挑戦的に問うた。 「……なるほど。あんたはその自慢の知性でもって、俺を強くしてくれようってのか。それで、もし、あんたが授けた智慧で、俺があんたの首をとったとしても、その時、あんたは俺の成長を喜んでくれるってわけかよ」 朱鷺田は、その挑発を静かに受け止めた。 彼の笑みは消え、表情は再び、知的な能面に戻った。 「そうですね。私が授けた智慧が、結果として、神凪耀(かんなぎのきみ)の統治に、そしてこの国の未来に、より多くの益をもたらすのであれば。たとえ、その過程で私の首が必要となったとしても、私は、教育者としての役割を全うしたと、論理的に満足するでしょう」 朱鷺田は、巻物を迅の膝元に静かに置いた。 「……ですが、神月。私を殺すより、私を生かす方が、御耀(みかが)覇道(はどう)にとっては、現状、最も有利なのです。無駄なことは、許しませんよ」 迅は、その朱鷺田の揺るぎない確信に、生贄の台座に身を委ねるような、深い安堵を覚えた。 この男は、枝葉に逸れた質問にも、求める答えをすぐにくれる。そして本質を伝えるのに、『世間』とか『習わし』などという大衆的な認知をつかった胡麻化しなどせず、迅の見ているものを見て、迅に届くように話し、迅が理解しやすいよう努めている。 「分かった。あんたは理性とやらで、見事に感情を制しているようだ。俺はそういうことろもあんたから盗むべきなのだな」 朱鷺田は、迅のその言葉を聞くと、微かに目を細めた。それは、感情ではなく、自らの戦略が成功したことに対する、静かな理性の満足だった。 「神月、あなたは人よりも激しい方なので、制御は懸念の一つでした。才はあるように思います。ご自分に情緒的な波があると理解しているのであれば、その波を、私の論理によって乗りこなす術を、自ら会得できるやもしれません。」 彼は、巻物を完全に閉じて、静かにその場を締めた。 「本日はここまでといたしましょう。神月。あなたという道具を、最大限に活かすこと。それが、私の当面の最も重要な課題です」 天月 1289年 七月七夜 上弦の刻 神凪耀(かんなぎのきみ)である暁斗の私室では、朱鷺田との静かな囲碁の対局が続いていた。 毎月上弦と下弦の月によるに、暁斗と朱鷺田は囲碁をしながら、政治や様々な知見について話し合う『夜の会議』を行っていた。 迅が来る前から続いていて、自由に会話する二人の楽しみの時間なのだ。 「御耀(みかが)神月(みかげ)殿について、ひとつ、見立てが立ちました」 朱鷺田の言葉に、暁斗は石を打つ手を止めず、静かに促した。 「申せ」 「はい。私は、神月殿の均衡が、月の周期と深い関わりにあると見ております」 暁斗の瞳が、僅かに揺れた。 「……ほう。それで?」 「下弦の刻を過ぎたころより神月殿の不安定さ、苛立ち、そして神氣の燃焼による疲労の色が、急速に増します。そして、新月(しんげつ)を境に、一度に、均衡を取り戻す」 朱鷺田は、白石を盤に置いた。 「これは、偶然ではないと見込んでおります。先月の体調不良も、新月前のことでした。まるで、月の光が失われることに、彼が御耀の神氣を最も効率よく受けるための、器としての安定性が呼応しているかのようです」 暁斗は、しばし沈黙し、碁盤を見つめていた。 朱鷺田が指摘したのは、神凪耀(かんなぎのきみ)の神氣を受けた臣鬼(しんき)が新月が近づくにつれ情緒不安や体調を崩しやすくなるという、すでに紫の血が継ぐ知識として煌統(こうとう)では古くから認められている問題だった。 血の盃で交わされた盟約であれば、身体の生理現象とさほど変わらないため、おそらく譜代たちですら自分たちの神氣が月の影響をうけて安定と不安定を繰り返していることを忘れているかもしれない。それでも譜代たちは、それぞれの家の記録からその周期性に気づくものである。 だが、朱鷺田のような、与えられた神氣について家に継がれた記録に頼れない、外様の臣鬼が、己の不調でその法則に気づくというのはまずありえない。気づいたのは、暁斗が直接、魂を繋ぎ神氣を注ぐ迅を観察しているからこそ、影響が顕著だということなのだろうが、それにしても結論を導き出すのが早い。 (迅と、朱鷺田との性格的な相性から考えても、おそらく隠せはすまい) 「……さすがは、朱鷺田。貴様の眼は、常に真実を捉える」 暁斗は、静かに朱鷺田の洞察を認めた。 「その不安定さは、新月(じんげつ)へ向かう下弦の刻が、最も激しくなる。…そして、新月の刻を迎える前が、最も危険なのだ」 暁斗は、黒石を握りしめた。その声音に、冷徹な支配の裏に隠された、愛する者を失うことへの切実な恐怖が滲んだ。 「神月迅は、御耀(みかが)の覇道たる我の(かなめ)。故に、迅の安定は、我の統治そのもの。国務、いや、我の命に勝る」 朱鷺田は、王の情ではなく、「国務」という公的な論理を、王が使っていることを理解した。 「よって、朱鷺田。そなたは、常に彼の状態を観察し続けよ。そして、器としての僅かな異常を見つけたら、全てを投げ打って、速やかに(われ)に教えろ。…決して、見逃すな」 「はっ。命、(かしこ)まりました」 朱鷺田は、頭を垂れながら、盤上に残された、暁斗の孤独な黒石を、静かに見つめていた。

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