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第38話
天月 1289年 六月十日。
長谷部の武術指南の特別稽古として、迅と玄忠の組手が命じられたのは、城に来て十カ月目のことだった。朱鷺田が「神月の心身の論理的な進捗を確認する」という名目で組手を要求したのだ。
練兵場には、朱鷺田と長谷部、そして石動玄頼までもが視察に訪れていた。玄忠は、祖父の前で迅という「穢れた異物」を叩きのめす機会に、全身から静かな闘気を発していた。
「始め!」長谷部の号令が響く。
迅は、猿飛衆相手に常に勝利してきた「獣の足」で地を蹴った。一気に間合いを詰める。狙いは、玄忠の剣の届かぬ懐に飛び込み、裏社会で磨いた型破りの突き技で勝負を決めること。
だが、玄忠は微動だにしなかった。
迅の素早い踏み込みに対し、玄忠は半歩後退しただけで、その長いリーチを活かした重い払いを一閃する。
「遅い」
その一言と同時に、玄忠の刃が迅の木刀を弾き飛ばした。
迅は猿飛衆相手ならば、この一撃を身を捻って躱し、足数を増やして体制を立て直すことができた。だが、玄忠の一打は、木刀を握る迅の右腕全体を痺れさせるほどの、圧倒的な重量を伴っていた。
(重い...! 質量が、違いすぎる)
迅の木刀が、甲高い音を立てて砂利の上に転がる。玄忠は容赦なく、その刀の柄で、迅の鳩尾(みぞおち)を正確に突き上げた。
「ぐ...っ!」
迅の身体は宙に浮き、そのまま地に叩きつけられた。呼吸が止まり、目が眩む。五歳の頃から、武家の作法という「理」と共に刀を振るってきた玄忠の訓練量は、猿飛衆とは次元が違った。
玄忠は、倒れ伏した迅の鼻先に、剣先を突きつける。
「勝負あり」
長谷部が静かに宣言した。
玄忠は、汗一つかかずに、迅を見下ろした。その視線は、「穢れた異物を排した」という公的な勝利の満足に満ちていた。
「将軍。その剣は、まるで羽根のように軽い」
玄忠は、冷徹に言い放った。
「力も、肉体の理も欠けている。その軽さでは、私の規範は崩せません」
迅は、荒い呼吸の中、玄忠の言葉が「真実」であることに絶望した。
(軽さ...! 肉体の理...!)
玄忠の逞しく厚い肩、太く成長した手首、そして、かつて自分と並んだはずの背丈が、今や自分を遥かに見下ろしているという屈辱。暁斗の神気を受け続けることで、肉体的な成長が止まり、「道具」として完成に近づいた代償。その「人間として停滞した身体」こそが、玄忠の言う「理の欠落」だった。
玄忠は、一歩踏み出し、地面に散らばった砂利を踏みしめる。その動きは、無駄がない線だった。
(駄目だ)
(生真面目だけが取り柄のこの坊っちゃんは、あの爺さんに十年以上叩き込まれた太刀筋だ)
(せいぜい十か月稽古したくらいの俺が、力押しで敵うわけねえ)
(それに、癪だが俺の身体がこいつより小せえのは事実だ)
(こいつの太刀の重さをまともに受けて耐えられるわけがねえ)
(だからって、ただ避けてたって勝てるわけねえ)
その時、迅の脳裏に、朱鷺田の座学で学んだ「論理」と、猿飛衆の「獣の生存本能」が閃光のように結びついた。
(摺足……戦場の理)
戦場の泥濘(ぬかるみ)で、足場の悪さを補うために編み出した「足の裏全体に均等に体重をかける歩法」。あの足さばきは、地面のどの方向にも蹴り出せるという「全方位の柔軟性」を生む。
迅は、玄忠の鋭い視線に晒されながら、ゆっくりと立ち上がった。
(俺の剣が軽いってんなら)
(速度でこいつを上回るしかねえ)
(歩幅を潰す。一歩を人の倍の足数で刻む。導線を、線ではなく、予測不能な点で結びつける)
そして、迅は、地面に落ちた木刀を拾う際、無意識にそれを左手で握りしめた。布で覆われた左手。刺青が刻まれた、穢れの象徴。
(そして、手数だ。力じゃだめなら、読ませる時間を奪う。右手の突進と、左手の軌道の二つで、玄忠の理を乱す)
(理...肉体の理がダメなら、別の理で対抗するまでだ)
迅の琥珀の瞳に、負け犬の屈辱の代わりに、全てを武器に変える獣の執念が灯った。それは、肉体の成長という「人間」の理を放棄し、「道具」として生きることを選んだ迅が、初めて編み出した、王への狂気的な忠誠を示す、型破りの殺法だった。
「...もう一度」
迅は、左手に握りしめた木刀を構え、玄忠に向かって、小さな一歩を踏み出した。その足さばきは、先ほどまでの「獣の力」ではなく、「獣の知性」に支配されていた。
朱鷺田の目が、静かに迅の足元を追う。一本目の敗北で、玄忠の圧倒的な「肉体の理」を突きつけられた迅は、もはや力で対抗することを放棄していた。
その代わり、彼の脳裏は、「獣の生存本能」と「朱鷺田の論理」という二つの回路で、玄忠の動きを分解していた。
(理...理など、知るものか)
玄忠は、規範に反する左手での構えと、迅の全身から発せられる異様な闘気に、警戒心を強めた。
「将軍。その構えは剣の理に反します。二刀流は、正式な型ではない」
玄忠の制止を、迅は無視した。
彼の足さばきは、摺足の理を究めていた。足の裏全体が地面に張り付き、人の倍の足数で、小刻みに、しかし異常な速度で玄忠に迫る。それは、まるで、地面に刻まれた予測線の上を、規則を無視した点の羅列で駆け抜けるようだった。
(速い! なぜ、あの体躯で、これほど足数が多い!)
玄忠は、瞬時に判断し、己のほうが長い腕を活かした重い払いを水平に一閃。この一撃こそが、一本目を取った必勝の理だった。
その瞬間、迅は玄忠の懐に飛び込み、刺青が刻まれた左手の木刀を、玄忠の脇腹の繋ぎ目へと突き刺した。
ドンッ!
木刀が当たる鈍い音が響き渡る。
「ぐ...っ!」
玄忠は、息を詰めた。迅の変則的な軌道と、予想外の左手の突きにより、玄忠の渾身の払いは一寸手前で空を切り、体制を大きく崩した。
迅は、そのまま右手の木刀を、玄忠の無防備な首筋へと、迷いなく振り下ろした。
ガッ!
その一撃は、玄忠の肩を掠め、木刀は地面に落ちた。勝負は、迅の勝利で決した。
「そこまで!」
長谷部の声が響く。練兵場には、静寂が訪れる。一本目は玄忠、二本目は迅。
引き分け。
練兵場に、静寂が訪れる。
石動玄頼は、孫が下賤の輩に一本取り返されたという事実に、顔面を蒼白にしていた。この結果は、朱鷺田に「石動家の剣の理が、将軍の才に劣る」という証拠を与えてしまったことに他ならない。
朱鷺田は、冷たい理性の光を瞳に宿し、静かに巻物を閉じた。
(見事だ、神月)
彼の頭脳は、迅の勝利を瞬時に分析していた。迅は、「一打の軽さ」という肉体の欠落を、「足数の理」と「両手の予測不能な手数」という知性の武器で完璧に補ったのだ。
玄忠は、脇腹の痛みに耐えながら、息を整えた。敗北の屈辱よりも、自分の「理」が、迅の「獣の知性」によって完全に打ち砕かれたという事実に、打ちのめされていた。
「...なぜだ」
玄忠は、掠れた声で迅に問いかけた。
「なぜ、そんな無作法な剣で...!」
迅は、左手に握られた木刀の柄を、強く握りしめた。
「無作法? 理、だと?」
迅は鼻で笑う。
「お前が知ってる理は、肉体が成長する奴の理だ。でも、俺はな、石動坊っちゃん...」
迅は、一歩、玄忠に近づき、その眼差しを見据えた。
「お前が一生かかっても触れられねぇ、泥の道を生き抜いた獣だ。獣の理は、生き残ること。そして、大切なモンを、どんな手を使ってでも護り抜くことだけだ」
「ちっせえならちっせえなりに、できること全力でやるだけだ。理だの型だのそんなもの知ったことか。要は最後に立ってりゃいいんだろうがよ」
迅はそう言い放つと、玄忠の傍を離れた。彼が去った後、玄忠は脇腹の痛みを抱えながらも、迅の勝利こそが、王の安全を守るための「真の理」であるという、苦渋の事実に直面するのだった。
朱鷺田は、冷たい理性の光を瞳に宿し、静かに巻物を閉じた。彼の視線は、敗北の屈辱に耐えながら立ち尽くす石動玄頼と、脇腹を庇いながらも敗北を認めない玄忠の二人に向けられていた。
(愚かだ、玄頼殿)
玄忠は、迅という異物を「力」と「規範」という、最も原始的な『肉体の理』で押し潰そうとした。
その結果、一本目は取れたが、それこそが、迅という「道具」に、進化の解答を与えるきっかけとなった。
朱鷺田の頭脳は、迅の二本目の動きを、瞬時にして、論理的に解体した。
(一分。一本を取られてから、将軍がその肉体の欠落を悟り、戦闘の論理を組み直すのに要した時間は、わずか一分にも満たない。この適応力の高さこそ、私が「最高傑作」と見込む理由だ)
迅の新しい戦闘方法――歩幅を殺し、人の倍の足数で地を刻む摺足。両手に得物を持たせることで導線を二つに増やし、相手の予測を無効化する手さばき。それは、朱鷺田の座学で教え込んだ「論理」が、迅の「獣の生存本能」という土壌で、完璧に開花した証明だった。
迅は、自らの成長の停止という劣等感を武器に変え、最も忌み嫌う「穢れの左手」を「王を守るための絶対的な手数」という公的な道具へと昇華させた。
(石動の規範を恐れ、御耀の支配を愛し、私から理を学ぶ。神月は、この十カ月で、理性を愛する私の期待を、常に上回ってくる)
この戦いは、玄忠の剣術の試験ではない。
「理性の規律」が、「伝統の規範」を打ち破る、私、朱鷺田清十郎の、理論の証明だった。
(規範(伝統)という最も硬い鎧を、自らの孫を使って試すとは。その愚かさが、将軍の才能を開花させる肥料となった)
朱鷺田は、迅の勝利を分析し終えると、冷徹な声で、敗北に顔面蒼白の石動玄頼に語りかけた。
「―――見事な進捗ですな、石動殿」
その声は、孫の健闘を讃えるものではなく、敗北を突きつける威嚇だった。
「将軍は、肉体の制約を、論理と知性で乗り越えた。それは、我ら神凪が、朽木の呪詛と伝統の重圧という制約を、理性で乗り越えるための、雛形となりましょう」
巻物を小脇に抱え、朱鷺田は優雅に踵を返す。
(神月。お前は、私の論理を、肉体に刻み込んでいく)
(そうすることで、お前は王の完璧な半身へと近づく)
(そして、私の完璧な作品となる)
(お前を仕上げる、その過程で、私は王の眼を欺き、お前の心と肉体を独占する……)
(お前を私が完璧に管理すること)
(それこそが、王を煌帝と導き、延いては私の野心を満たすのだ)
朱鷺田の背中には、冷たい理性の勝利が光を放っていた。
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