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第37話

天月一二八八年 九月二十四夜。 (じん)の私室、西殿(にしのでん)伽羅(きゃら)の香が微かに漂う静謐な空間で、迅は寝台に上半身を預け、友衛(ともえ)の施術を受けていた。 友衛は、猿飛衆の中でも最も華奢な体躯(たいく)だが、その指先は驚くほど力強く、しなやかだった。公的な名目は「将軍の疲労回復」。しかし、彼の施術には、私的な、熱を帯びた感情が込められていた。 「この肩の凝りは、長谷部(はせべ)殿の武術指南のせいですか。それとも、朱鷺田(ときた)殿の座学ですか」 友衛の声は穏やかで、施術に集中している。だが、彼の眼差しは、迅の傷だらけの身体から一瞬たりとも離れない。 「…どっちでもねぇよ。お前の世話になるのは、気持ちがいいからだ」 迅は、体勢を崩すまいと、故意に荒っぽい言葉を選んだ。長谷部の武術は肉体を屈服させ、朱鷺田の座学は頭脳を疲弊させる。 その二つの痛みから解放される唯一の時間が、友衛の指先が触れるこの瞬間だった。 しかし、その「解放」にも、別の熱が宿っていることに、迅は気づいていた。 友衛の指先が、背中を滑る。 それは、凝りをほぐすには不必要なほど、長く、熱い愛撫だった。 友衛は、かつて迅に『愛の支配』を教え込んだ裏社会での経験がない。だからこそ、その恋慕は純粋で、そして、最も予測不能な暴走の兆候を(はら)んでいた。 (友衛のやつ、俺を抱きたいんだろうな) (あの不器用な王(暁斗)と違って、こいつは奪わないでおく優しさをしっているのだろうが) (知っているのと、実行するかどうかは、全然違う) (按摩っていえる分には構わねえが) (こいつにおいそれと隙は見せられねえな) 迅は、目を閉じたまま、その友衛の愛撫を受け入れた。その行為は、友衛への無自覚な慰めであると同時に、友衛の指先を通じて、暁斗に「自分が誰かの愛を享受している」という嫉妬を突きつける、無言の挑発でもあった。 その時、迅の身体に、鋭い冷気のような違和感が走った。 (……視線だ) (……誰か、見ている) 迅は施術を続ける友衛に気づかれぬよう、視線で部屋の隅を探った。寝殿の隅に立てられた三枚の屏風(びょうぶ)。その継ぎ目に、微かな揺らぎがあった。 石動の眼だ。 石動は、朱鷺田に指南役の座こそ譲ったものの、迅への執着を捨てることはできない。彼は、「将軍の休息と安全の確認」という、誰もが反論できない公的な理屈を盾に、密かに部屋の隅に控えていたのだ。 友衛の指先が、今、凝りが最も深いとされる、迅の首筋に触れる。 石動の視線は、その友衛の指先が、「王の半身」という聖域を侵している様を、貪るように観察している。 迅は、石動の狂気的な怒りの視線を肌で感じ取り、背筋が凍った。 石動は迅が按摩を受け入れていることを観察しているのだ。 その瞬間、寝台の上の迅の身体は、三つの異なる支配に囚われた。 暁斗の支配は、 遠く離れていても、迅の魂の全てを独占しようとする「狂気の愛」の鎖。 石動の支配は、規範のなかにとどまることを強いる監視。 友衛の支配は、 友情という衣を纏いながら、無自覚に迅の肉体を求める「恋慕の熱」。 迅は、これらの熱がすべて、自分という「道具」に流れ込んでいることを悟った。 その身体は、友衛の指先による解される快楽で満たされながらも、石動の冷たい視線に晒され、そして、愛する暁斗の「独占欲」という名の鎖に繋がれていた。 「…迅。少し、熱がありますよ」 友衛が、優しく囁いた。迅は、その熱が、友衛の恋慕によるものか、石動の狂気によるものか、あるいは暁斗の執着によるものか、区別がつかなかった。 愛の支配は、より複雑な狂気の三角関係へと、変質を始めていた。 石動(いするぎ) 玄頼(げんらい)は、朱鷺田(ときた)が執務室に向かう途中の、人目の少ない廊下の角で、待ち伏せしていた。 石動の顔は、昨日の指南役の試練の汚辱と、友衛(ともえ)(じん)の私室に出入りしているという報告によって、怒りで青黒く染まっていた。 「朱鷺田殿」 その声は、公的な場所に似つかわしくない、粘つくような熱を含んでいた。 朱鷺田は、その意図を瞬時に理解し、冷静な笑みで立ち止まった。 「石動殿。将軍の武の指南についてでしたら、私ではなく長谷部殿に」 「武術指南など、どうでも良い」 石動は、感情を抑えることなく、本題を突きつけた。 「私が言っているのは、規律(きりつ)だ。猿飛衆の者が、将軍の私的な領域に、常態的に立ち入っている件についてだ」 石動は、「猿飛衆」という言葉を、「下賤の者」という侮蔑の響きを込めて強調した。 「按摩などという慰みのために、身分不相応な若造が、王の身体に指一本触れることを、公的な規範が許容するとお思いか!」 石動の瞳の奥には、「俺が汚した身体に、友衛の指が触れること」への激しい嫉妬が燃えていた。彼は、友衛の情愛と、その身体的な接触を、「公的な規律」という建前で排除しようとしたのである。 朱鷺田は、その温度感の高い熱を、冷たい理性で受け止めた。 「石動殿。将軍の健康維持は、公務です。長谷部殿の苛烈な指南は、将軍の身体に疲労を蓄積させる。友衛の按摩は、その疲労を解消し、将軍を最高の状態で理知的な座学に臨ませるための、道具の手入れです」 朱鷺田は、迅が自らを「道具」と認識していることを、そのまま利用してみせた。 「道具の手入れを怠り、将軍の集中力を削ぐことは、公務の妨害です。それを、貴殿は望まれるのか?」 石動は、朱鷺田の論理に言葉を詰まらせた。「公務」という絶対的な正義の前では、彼の「規範」も「嫉妬」も、私的な感情として無力だった。 しかし、石動は、最後の牙を剥いた。 「ならば、監視はどうする。裏社会にいた猿飛衆が、王の私室で、将軍から機密情報を聞き出すリスクを、貴殿は無視するのか! 按摩を今すぐ中止するか、あるいは、私が常に立ち会う!」 朱鷺田は、待っていた。石動が「監視」という言葉を出したことで、朱鷺田自身の管理欲を満たす大義名分が完成したのである。 「ご提案、感謝いたします、石動殿」 朱鷺田は、静かに頭を下げた。 「按摩の中止は、公務の放棄につながるため、却下いたします。しかし、情報漏洩のリスクは、確かに規律を乱します」 朱鷺田は、勝利の笑みを浮かべた。 「私が、猿飛衆の全てを監督いたします。友衛の按摩も、猿飛衆の出入りも、全て私の管理下に置くことで、王の安全を担保する。それが、最も理に適った解決策でしょう」 朱鷺田は、石動の嫉妬を利用して、迅の私的な時間にまで、自分の管理の鎖を伸ばすことに成功した。 石動は、按摩を止めることも、自分が直接触れる機会を得ることもできず、管理の主導権を朱鷺田に奪われたことに、激しい屈辱を覚えた。 「……勝手にせよ。だが、もし、猿飛衆から王の規律を乱すものが一人でも出たら、貴殿が責任を取るのだぞ、朱鷺田」 石動は、敗北を宣言し、呪いのような言葉を残して、廊下の奥へと冷たく去っていった。 朱鷺田は、王の公務という名の管理欲を満たしたことに、静かな満足感を覚えるのだった。

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