36 / 45

第36話

翌日。朱鷺田は、朝倉の指南を軽蔑する迅の目に気づいた。南茂の「愛という熱を乗りこなせ」という啓示は、彼の頭脳を新たな論理体系へと導いていた。 「朱鷺田殿。仕来りとは、なぜ、国を護るのか」 迅は、「あの狐、暁斗に言いつけやがった」という反発心から、朱鷺田の説明に絡むような質問を返した。それは、理不尽な反抗ではなく、論理を求める質問だった。 朱鷺田は、理知的な笑みを浮かべ、迅の目線で快答してみせた。 「仕来りとは、神凪の民が王を信じるための物語です。裏社会でいう、掟と同じです。掟がなければ、群衆は王を信じられない。王と民が愛を交わすための、約束事、それが仕来りです」 その、裏社会の掟と王の規範を、「愛の約束事」という論理で結びつけた快答に、迅は瞠目した。 (―――この狐、本質を、知っている…) 朱鷺田は、迅の瞠目に満足を覚えた。「理解」によって、管理の道が開かれる。 こうして、朱鷺田は迅の心に、「論理という名の信頼」を打ち込み、管理という名の愛の始まりを、静かに告げた。 朱鷺田は、迅の論理を求める目線を捉え、彼の論理的支配を深めるために、敢えて対話を促した。 「朱鷺田殿。仕来りが愛の約束事だとして、もう一つ、理屈が通らねぇことがある」 迅は、椅子を蹴飛ばす代わりに、静かに、しかし冷徹な目を朱鷺田に向けた。その目は、朝倉(あさくら)に向けた軽蔑の目とは違い、答えを求める、探求の目だった。 「王が、民から貢物(みつぎもの)を奪うのは、どういう理屈だ? 飢えてる奴もいるのに。あれは、裏社会の親分が場所代を取るのと同じじゃねぇか。理屈じゃねぇ、力だ」 それは、公的な正義に守られた城の理屈では決して語られない、民草の目線、そして裏社会の最も本質的な論理だった。 朱鷺田は、冷たい目を細め、迅の「裏社会の理屈」を、一瞬で受け入れた。 「まさにその通り、神月。それは、場所代であり、保険だ」 朱鷺田は、静かに、王の統治の根幹を裏社会の論理で解説してみせた。 「裏社会の親分が場所代を取るのは、他の親分からお前たちを守るため、そして、縄張りに争いが起きないよう管理するためだ。王も同じだ」 「貢物とは、国を乱す妖や、他国からの侵略という『より大きな暴力』から、民を護るための『経費』だ。もし貢物を納めなければ、誰が、その『より大きな暴力』から民を護る? 飢える者が一人二人で済むか」 朱鷺田は、冷徹に、しかし論理的に、王の責務を裏社会の契約に置き換えた。 「王は、民の『生命の存続』を契約している。貢物は、その契約を履行するための代償であり、最も理性的な投資なのだ。王の力は、私欲のためではなく、民の存続という理のために、合理的に使われていると知れ」 迅は、その快答に、二度目の瞠目(どうもく)を示した。 (この男は、この城の誰よりも、裏社会の掟を、統治の理に変換できる……!) 迅は、感情を殺し、理性だけで王を支えようとする朱鷺田の孤独を、初めて理解した。それは、朱鷺田に対する信頼の始まりだった。 迅は、座学の教本を、朱鷺田の目の前に突き出した。 「朱鷺田。俺は、座学の全てを、お前に指南してもらいたい」 それは、長谷部()朝倉(規範)への不満ではなく、朱鷺田(論理)への理知的な信頼に基づいた、将軍としての判断だった。 「暁斗(あきと)に、どう言えば良い?」 朱鷺田の瞳の奥で、南茂(みなも)の啓示が、確固たる計画へと姿を変えた。王の愛の熱を管理するための、第一歩が、迅自身の口から告げられたのだ。 「私に任されよ、神月」 朱鷺田は、冷たい笑みを浮かべ、請け負った。 政治的な手続きと朝倉の退場 その日のうちに、朱鷺田は暁斗に「将軍の要望」として、指南役の再編を提案した。 「御輝様。神月将軍は、統治の理について、深く考える必要性を感じておられます。つきましては、私の指南を主軸としたいと申し出がございました」 暁斗は、迅の積極性を喜び、快諾した。 翌日。朝倉は、朱鷺田に呼ばれ、指南役を退くことを通告された。 「……そうですか。将軍は、朱鷺田殿の論理を求めた、と」 朝倉は、規範の退屈さが迅の反抗を招いたことを理解していた。神月将軍という異物は、彼の杓子定規な規範には収まりきらない存在だった。 「神月将軍の教育は、私には手にあまる。朱鷺田殿の鋭利な才覚に任せるのが、最も合理的でしょう」 朝倉は、私情を挟まず、公的な理に従い、指南役の座を朱鷺田に譲った。これで、迅の文の道の指南役は、朱鷺田一人に絞られた。 作法の指南。朱鷺田は、武の指南役である長谷部と同様、迅の我流の癖を見抜き、徹底的に矯正しようとした。 「神月。座り方。足元が開きすぎだ。客前では、下賤の者と見なされる」 「……うっせぇな」 迅は、胡坐(あぐら)から正座に近い形に足を組んだが、背筋は伸びているものの、肘の角度や膝の間隔は、我流の適当さが残っていた。 「肘を上げなさい。背筋を伸ばせば良いのではない。王の前に座る臣下は、全ての隙を、理で埋め尽くさねばならぬ」 朱鷺田は、感情を排した声で言いながら、迅の左手を掴み、その肘を、正しい角度に物理的に正した。 手の甲に、朱鷺田の冷たい指先の重みが乗る。 その瞬間、迅の琥珀色の瞳に、殺意にも似た、激しい光が宿った。 (―――その手を、二度と触れさせるものか……!) 迅の脳裏に、石動の粘つく指先と、汚辱的な体温がフラッシュバックした。 迅は、「汚れた記憶を上書きされる」という極度の屈辱から、朱鷺田を睨みつけ、掴まれた左腕に力を込めた。 朱鷺田は、迅の激しい敵意を、冷徹な目で見つめ返した。 「何を睨んでいる、神月。これは、教育だ。私情はない。王の威光を汚さぬための、合理的な矯正だ」 その言葉は、石動の裏の情欲を明確に否定し、「理」によって迅の心の鍵を開く。 迅は、一瞬の葛藤の後、殺意を理知的に鎮火させた。朱鷺田には石動のような醜い熱がない。ただ、冷徹な管理欲があるだけだ。迅は正座を矯正されながら、痛む膝の下で考えた。 朱鷺田の教える王の作法は、石動の呪縛を破り、俺を王の隣に立つにふさわしい道具に変える力がある。朱鷺田に管理されるのは癪だが、この男が望むのは暁斗の王権だ。この男の理を利用して、暁斗にふさわしい在り方を習得するための代償として、自らを差し出す。これは「学びの対価」だと、迅は自らに納得を得た。 「……分かった」 迅は、一度だけ、朱鷺田が示す「正しい姿勢の型」を、冷めた目で観察した。 次の瞬間、迅は朱鷺田の手から左腕を静かに引き抜き、作法の書に描かれた全ての姿勢、歩き方、扇子の持ち方を、一つ残らず、完璧にこなした。 それは、触れられずとも完璧に模倣するという、「もう二度と、誰にも身体に触れさせない」という、迅の冷酷な自己防衛だった。 「―――よろしい。完璧だ」 朱鷺田は、満足の笑みを浮かべた。肉体的な接触による管理は失敗したが、「一度見れば完璧にこなす」という迅の才覚は、朱鷺田の支配欲を、「才能の独占」という、より倒錯的な形へと昇華させた。 こうして、迅は武の道では長谷部に、文の道では朱鷺田に、理知的に服従することになった。 その日の午後、指南の疲れを訴える迅の私室に、友衛(ともえ)が、「疲労回復」という公的な名分を携え、入室した。 友衛は、私室に敷かれた敷物の上で、丁寧に手を清めた後、迅の足元に静かに跪いた。 「将軍。今日は、特に足の運びがお優れだと聞きました。長谷部殿の指導で筋肉に負担がかかっておられるでしょう。修行の一環でございます。足から始めさせていただきます」 友衛の声は、誠実で、熱は籠っているが、石動の粘り気とは違う、清涼な情愛だった。 迅は、石動の汚辱から逃れるため、友衛の指を純粋な「効能」として受け入れようとしていた。 「ああ、頼む。足の運びは、長谷部の言う通り、理に適っていた。疲れた」 迅は、長谷部の支配を理性で受け入れたからこそ、その疲労を友衛の指で癒そうとした。 友衛は、迅の裸足になった足首を、修行者として、静かに掴んだ。その指先から、迅への募る情愛が、熱となって伝わっていく。 友衛は、「按摩の理」という公的な仮面の下で、愛する人の身体を独占するという、私的な欲望を、常態化させた最初の夜を、静かに始めるのだった。 夕刻になり、友衛(ともえ)は、指南を終えた迅の足を揉み終え、満足と高揚感に満たされながら、西殿の裏手を歩いていた。彼の懐には、「将軍専属の身体師」という公的な名分と、迅の肌の温もりという私的な記憶が残っている。 「ちっ」 その時、石畳の隅に身を潜めていた小雀(こがら)が、舌打ちと共に、友衛の前に立ちはだかった。その小柄な身体には、裏社会の荒々しい殺気が、露骨な敵意として満ちていた。 「よお、裏切り者(ともえ)」 小雀の声は、低く、冷たい。 七年前、迅が裏社会に身を落としたとき、友衛と熊樫(くまかし)は迅と距離を取った。親に関わるなと言われその通りにしたのだ。その「裏切り」という烙印を、突きつけたのだ。友衛は、一瞬だけ身構えたが、すぐに公的な仮面を取り戻した。 「小雀か。なんだ、邪魔するな。将軍の疲労回復のためだ。急いで帰って、修行をせねばならねぇ」 友衛は、修行という無害な建前で、小雀の嫉妬をかわそうとした。 「修行、ねぇ」 小雀は、友衛の肩を、掴んだ。その指先には、裏社会の狂犬としての、尋常ではない圧が込められている。 「てめえが裏切った七年間、誰が迅の命を、汚れた裏社会の片隅で、必死に護ってきた? 俺だ」 小雀の目は、狂信的な忠誠の炎で燃えていた。 「俺はあんたの(けが)れの熱と、卑しい下心が、将軍の清浄な身体を汚すのが、許せねぇんだよ」 小雀にとって、友衛の按摩は、「迅の神聖な領域への冒涜」であり、「自分の忠誠への侮辱」だった。 友衛は、小雀の狂気が、本質を突いていることを知っていた。 「嫉妬か、小雀。俺は愛情を込めて癒しを与えてるんだ。お前のように、狂信的な忠誠心という鎖で、将軍を縛り付けているわけじゃねぇ」 友衛は、小雀の最大のアキレス腱である「狂信」を、逆手に取った。 「愛、だと?」 小雀の殺気が、一瞬、頂点に達した。 「あんたの愛は、王命か? 石動の規範か? それとも、御輝(みかが)の口付けより上か? たかが按摩ごときで、将軍の身体に触れることが、愛だって言うのか!」 小雀は、友衛の頬に、一撃を食らわせる直前で、力を止めた。 「二度と、将軍の疲労回復などという名目で、私室に入り浸ったりするな。お前が近づく隙など、与えてやらねぇ。二度と、将軍の身体に触れるな」 小雀は、友衛の肩を突き放すと、友衛の修行道具が入った麻袋を、足で蹴った。中から、乾燥した薬草と、施術用の油が、地面に散らばる。 「道具は、大事にしろよ、裏切り者」 小雀は、そう言い残し、友衛の答えも弁明も待たず、闇の影へと消えていった。 友衛は、その場に立ち尽くし、散らばった薬草と油を、冷たい視線で見つめた。その瞳の奥には、小雀の狂愛に対する屈辱と、自分の愛を邪魔されたことへの激しい怒りが燃えていた。 (小雀……お前は狂信で、俺は情愛だ。だが、どちらが将軍を支配するか。勝負だ) 友衛は、拾い集めた薬草を、自分の修行道具としてではなく、将軍の愛を巡る戦いの武器として、静かに胸に抱きしめた。 友衛の按摩が終わった後、迅は、いつものように暁斗の私室へ「呼ばれた」。 湯浴みを終え、白い布を身に纏った暁斗は、いつになく落ち着かない様子で、私室の長椅子に迅を横たえさせた。 暁斗の白い指先が、布越しに、迅のふくらはぎに触れる。 「……長谷部殿の指南は、苛烈だと聞いていたが、随分と、身体が緩んでいるな」 暁斗は、迅の身体が弛緩(しかん)し、熱を持ち、血の巡りが良いことに気づいていた。それは、彼の口づけによって生じる神聖な熱とは違う、世俗の温もりだった。 「友衛の按摩、か」 暁斗の声には、僅かな不快感が混ざった。迅の身体を「道具の最高の手入れ」として評価する朱鷺田の理性とは違い、暁斗の反応は、純粋な独占欲だった。 暁斗は、迅の琥珀色の瞳を覗き込むように、顔を近づけた。 「迅。友衛の按摩は、俺の口付けよりも良いものか?」 その問いは、最も神聖な愛を世俗の慰みと比較する、王とは思えぬ、子供じみた嫉妬だった。 迅の顔は、一瞬で真っ赤に染まった。自分の絶対的な感情を、王に疑われたという、激しい動揺だった。 「馬鹿なことを、暁斗。比べられるわけがない」 迅は、怒りにも似た真剣な声音で、王の問いを一刀両断にした。 「按摩は、長谷部の指南で凝り固まった身体の疲れが癒される。それは心地いいけどそれだけだ。俺という道具の手入れだ。うまくやれる奴なら誰がやってもいいだろう。でも」 迅は、熱を帯びた瞳で、王の頬に、自分の額を押し付けた。 「お前は、俺の全てを満たして完璧にする。お前がふれると俺は魂の飢えも、心の安定も、命の渇きも、全て在るべきものになれるんだ」 「お前以外にそんな相手はいない。お前と、世俗の、ましてや疲れなどと比べるなんて、不敬だろう。二度と、そんなことを聞かないでくれ……お前といるのにほかの奴のことを考えさせるなんて、そんなこと俺にさせるな、暁斗」 迅の揺るぎない献身に、暁斗の独占欲は満たされた。暁斗は、満足げに、迅の額の傷に口づけた。 「そうか。不敬だったな、迅。許せ。だが、お前は俺の全てだ。二度と、他の誰にも触れさせたくないと、つい思ってしまうのだ」 暁斗の愛の独占は、神聖で、絶対的で、全てを上書きする。 その夜、暁斗の神気は、友衛の温もりを上書きし、迅の身体に、王の支配の痕跡と、朱鷺田への配慮という二重の鎖を、深く、深く刻み込むのだった。

ともだちにシェアしよう!