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第35話
天月 1288年 九月下旬
西ノ宮。白い砂利を敷き詰めた中庭を抜け、神凪 南茂 の私室に通された朱鷺田 は、深く頭を垂れた。
神凪宗家の血筋である南茂に呼ばれて参じたのである。
南茂は暁斗をのぞけば神凪家で最も強い神氣 を持つ神子であり、御輝 の叔父として、世俗の王権を内側から監視する「神の代理人」のような存在だった。
朱鷺田の纏う世俗の理性が、清浄な神気の静謐さに、微かに軋みを上げるのが聞こえるようだった。
「顔を上げよ、朱鷺田。そなたの忠義は、この西の宮にも届いておる」
「はっ。勿体のうございます、南茂殿」
南茂の表情は能面のように静かで、栗色の瞳の奥に、人の世の全てを見通すような諦観を宿していた。
朱鷺田は、迷いを断ち切るように、跪いたまま静かに切り出した。
「御輝は、朽木との戦いで、神月迅という一匹の妖を側に置きました。家臣団、特に石動らの動揺は想像に難くありません。私は、彼を『王の神気の安定に必要な、鍵』と称することで、不満を抑えています」
南茂は、朱鷺田の淀みない報告を静かに聞いた後、初めて口角を微かに持ち上げた。
「鍵、か。そなたらしい、理路整然とした解釈だ。しかし、鍵とは、使う者にとって都合の良い道具を指す言葉ではないか」
朱鷺田は一瞬息を呑んだ。南茂殿は、すでに彼の「王を制御したい」という野心を見抜いている。
「……朱鷺田。そなたは、御輝の迅への感情を、『情』という言葉で括っているな」
「御意。父君である先王が、情に流され、国を傾けかけた過去があります。故に、御輝は今、『情を捨て、理で生きる王』を演じておられる。私はその理性をお助けするべく知力を尽くす所存でございます」
朱鷺田は、言葉に力を込めた。だが、南茂の啓示は、彼の理性を一瞬で灰燼に帰した。
「朱鷺田よ。あれは『情』ではない。あれは『愛』だ」
「……愛、でございますか」
朱鷺田は理解できなかった。愛という、最も非合理で、統治を乱す毒のような感情を、なぜ神官が、神凪の血筋の者が肯定するのか。
「情は移ろうものだ。だが、愛は命の根源だ。先の謀反は御輝の情が裏目に出たことは其方も知っての通りだ。あの子の心は一度死んだ。そして、その命の根源を、迅という存在が蘇らせたのだ。故に、御輝は、迅を奪うことで、自らの命を独占している」
南茂は立ち上がり、朱鷺田の頭上を見下ろす。
「そなたの言う『鍵』は、道具ではない。それは、御輝の命の熱そのものだ。情を捨てた王が、唯一、捨てられなかった根源的な渇望。それが迅なのだ。そなたの理性では、その熱を醒ますことはできぬ。もし、迅を失えば、御輝の命の根が断たれることとなるだろう」
南茂は、静かに、しかし有無を言わせぬ声で、神官としての指令を与えた。
「朱鷺田。お前は、王の愛という熱を乗りこなせ。熱を冷まそうとするな。愛という名の非合理を、そなたの理性という鞍で乗りこなし、神凪家という大地の存続という道へ、その熱を導け」
「その術を見つけよ。さすれば、そなたの家門は、御輝の統治と共に、神凪家の光として再興されるであろう」
「……はっ」
朱鷺田は、神聖な啓示を前に、初めて「愛」という非合理な力を、統治の理を凌駕する絶対的なエネルギーとして認識した。
「畏まりました。この朱鷺田、南茂殿の御言葉を、御輝の統治の鍵として承知いたします」
彼は、自身の内側で、王を管理するという野心が、王の狂気の愛を利用するという、より倒錯的な計画へと姿を変えるのを自覚していた。
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神月 迅(みかげ じん)への指南役は、王命により、朱鷺田、長谷部、朝倉の三名へと引き継がれた。表向きは「効率的な教育環境の整備」だが、その実態は、王の半身(はんしん)を巡る、三者三様の支配と思惑の交錯であった。
理の退屈
朝倉 の指南は、城の仕来りや統治の理 について。
「神月殿。統治とは、人の情ではなく、公正な理によってのみ成り立つ。王の裁定が私情に流されれば、国は乱れる」
朝倉は、公明正大な言葉で、王の義務を説いた。しかし、彼の説明は、「決まりだから」という反論の余地のない規範に終始する。
迅は、朝倉の規範の弱点を突いた。
「朝倉殿。あんたの言う理 じゃ、裏切り者は皆、斬られて当然だ。だが、過去の謀反の際、家臣団は、厳格な法ではなく、王の情に流された。法ではなく、情で動いたのでは」
朝倉は、冷や汗をかいた。
「それは……王の御心の深さであり、臣下が論じることではない。決まりは決まりだ。まずは、規則を頭に入れよ」
朝倉は、規範の擁護者として、迅の「立場に寄り添った問い」に答えることができない。迅は、朝倉の退屈な指南に、苛立ちと軽蔑を募らせていった。
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武の屈服
指南の初日、迅は、城の裏手にある練兵場に呼び出された。長谷部 が担当するのは、武術と剣術。
「神月将軍。御身の武術は、我流と聞く。正規の軍を統べる以上、まずは基礎からだ」
長谷部の声は、武骨だが公的で、規範を重んじる武人の冷徹さを宿していた。
長谷部が迅の我流の動きの「癖」を、見事に見抜き、一撃で体勢を崩し、迅を地面に倒した。
「武門に我流の隙は許されぬ。我が君の剣 として在るのなら、教えに忠実に従え」
その冷静な力と理 に、迅は言葉を失った。己の命運を王に賭ける者として、「教え」に従うことが、王の剣としての在るべき姿だと悟り、迅は長谷部の指導に素直に従うようになった。
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長谷部の苛烈な指南が終わり、迅と玄忠は城の隅にある練兵場の片隅で刀を手入れしていた。玄忠の刀は磨き抜かれ、埃一つない。
「おい、石動坊っちゃん。その刀、実戦で使ったことあるのか? 研ぎ方が上品すぎやしねぇか」
迅は、玄忠の真新しい刀の刃を、皮肉な目で見やった。玄忠は手を止めず、顔色一つ変えずに返す。
「これは、石動家が代々伝える流派の教えです。刀は、己の規律を映す鏡であります故」
「鏡、か。そんなピカピカじゃ、俺みてぇな下賤の血は映らねぇだろうよ」
迅は自己の出自をあえて持ち出し、玄忠の規範を揺さぶる。玄忠は一瞬沈黙したが、すぐに迅を見ず、静かに言い放った。
「私には、鏡の前に立つ者の公的な役割しか見えません。将軍、次は朱鷺田殿の座学です。その皮肉は、脳の疲労にしかなりませんよ。私に差し出口するなど、余裕がおありなのですね」
「は。狐の屁理屈なんざ怖くねえよ」
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愛の始まり
朱鷺田の指南は、書道、作法、対話術、教養といった、将軍の品位に関わる分野だ。
朱鷺田は、冷徹な視線で、迅の我流の振る舞いを観察した。
「では神月 。まずは、言葉遣いだ」
朱鷺田は、わざと「神月」と姓で呼んだ。迅が「粗野な振る舞い」で反発するのを、計算していたのだ。
「私 に対し、丁寧語を用いなさい。それが、この城での、礼節だ」
迅は、予想通り、反抗的な瞳を朱鷺田に向けた。
「……何が、礼節だ。あんたの上っ面 だけの言葉など、何の役にも立たねぇ」
朱鷺田は、冷めた笑みを浮かべる。父に似た面影と、似た声質を持つ朱鷺田に、「上っ面」という言葉で反発されることで、迅の怒りが激化するのを、朱鷺田は計算していた。
「礼節をわきまえなさい、迅」
朱鷺田は、ここで、あえて、迅の名を呼んだ。
その瞬間、迅の激昂は頂点に達した。
「―――ッ、その面 で、俺の名を、呼ぶなァ!!」
迅は、椅子を蹴飛ばし、朱鷺田に詰め寄った。父の面影を持つ男に、「礼節」を説かれ、名を呼ばれる。それは、迅にとって、過去のトラウマを抉られる、耐え難い屈辱だった。
朱鷺田の顎と鼻筋を見るたび、迅の喉の奥で、無意識の「吐き気」がせりあがってくる。父と同じ骨格。自分の懐を温めるために、迅に習い事をさせた挙句捨てた。あの冷たい男の面影だ。朱鷺田は、何も知らないふりで、優雅にこちらを見ている。
こいつの言葉に、こいつの「教え」に、心を許すな。
許せば、すぐに「商品」として値踏みされ、都の帰属に売られるどころか、傷物だといって場所へ捨てられる。
朱鷺田は、迅の剥き出しの狂気を、理性的に受け止めた。
「指南役として、教えを申したまで。名を呼ぶことの、何が悪いのですか?」
「……ッ」
迅は、とっさに口を閉ざした。朱鷺田の冷静な目は、迅の感情の暴走を、見事に見抜いていたからだ。
「神月と呼んでほしいのなら、私に対し敬意を払いなさい」
朱鷺田は、冷徹に言い放った。
迅は、奥歯に舌を載せて噛んだ。その痛みを頼りに、激しい怒りを全身で押し殺し、表情を消した。
そして、完璧な敬語で話し始めた。だが、その発言は、全て棒読みだった。
「承知いたしました。朱鷺田殿」
その後、迅は言われたことしかしないという反抗を始め、朱鷺田の指南を手こずらせた。迅は、感情を読ませまいとする「仮面」を、朱鷺田に対して初めて使ってみせた。
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朱鷺田は、暁斗に「指南の進捗」を報告した。迅の反抗と、父の面影がその原因であるという分析を、「将軍の教育上の問題点」として冷静に伝えた。
暁斗は、その日の夜、迅に依頼した。
「迅。朱鷺田と仲良くやってくれ。他の譜代は祖父の代から家臣だが、朱鷺田は、俺が初めて血の盃を交わした、俺に仲裁を誓った者だ。お前も朱鷺田も、共に我に忠誠を誓ったもの同士なのだ。仲良くなってほしい」
暁斗は、朱鷺田の「忠誠の証」を、迅への愛という「私情」で、改めて迅に伝えた。
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指南役が朱鷺田、長谷部、朝倉の三名へと引き継がれ、城内での正式な教育が始まった頃。
猿飛衆は、正式に神凪の軍の特殊部隊に組み込まれたが、その活動は、城下の街中での治安維持が主だった。猿飛衆は、訓練時を除き、普段は街でそれぞれの仕事に就くという、裏社会との接点を維持した形で運用されていた。
その中の一人、友衛 は、城下町の腕の良い按摩師 の元で働くことを選んだ。表向きは修行のため。だが、その真の目的は、「将軍の近侍」という、公的な名分を手に入れることだった。
友衛は、修行の一環として、猿飛衆の仲間たちに按摩を施すようになり、やがてその評判は迅にも届く。
「按摩だあ? 爺がやるもんだろ。俺はいい」
迅は最初は嫌がったが、猿飛衆の仲間たちが「訓練で軽くなった」と勧めるのを聞き、試しに足の型だけを組んでもらった。
「……いいな。軽くなった」
迅は、武術の効能を純粋に認め、友衛に足や背中、肩などの凝り固まった筋肉を施術させることに関心を示した。
こうして、友衛は「将軍の疲労回復」という公的な名目を得て、西殿にある迅の私室で、迅の身体に常態的に触れる機会を与えられるようになった。これは、石動の支配から逃れた迅が、今度は友衛の情愛による支配へと無自覚に身体を開いていく、始まりの時だった。
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