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第34話

天月 1288年 九月下旬 満月の儀式から数日後。 迅が将軍の任に就き、裏社会との繋がりを断ち切った直後。城内の空気は、朽木討滅という勝利の熱狂から一転、迅という「異物」を、どう統治機構内に組み込むかという静かな緊張に包まれていた。 その緊張の中心にいたのは、筆頭家老の石動(いするぎ)玄頼(げんらい)である。 彼は、迅が王の「半身」として公表されたという公的な事実を、厳格な立場から看過するわけにはいかなかった。迅への指導は、石動にとって、王の権威と秩序を守るための、避けて通れぬ義務であった。 そこで石動は、「将軍としての教養と品格の涵養(かんよう)」という名目を上げた。 天瑞煌国神凪領(あまきらめきのみつくにかんなぎりょう)の将軍、そして王の半身ともなれば、武の道だけでなく、公文書を扱うための書道や、歌、歴史といった「文の道」にも通じている必要がある。元罪人という出自を持つ迅には、その「規範(のり)」が致命的に欠けている、と。 「御君(みきみ)の半身たる神月将軍の品格は、すなわち、神凪家の品格に直結する。この石動、謹んで、将軍に(ふみ)の道の手解きをさせていただきたく」 石動は、「王家の品格」という、最も高尚な理屈を用いた。暁斗もまた、迅の出自を気にかける家臣団の視線を理解しており、これを許可した。 こうして、迅は半ば強引に、石動との二人きりの指南の時間を城内に設けられることになった。それは、王の情愛が完成した直後に、老練な家臣の「規範」が、「教養」という名の新たな鎖を迅の日常に巻きつけ始めた瞬間であった。書道指南が始まった部屋は、石動にとって、満月の夜の監視部屋と同じ、王の権威の名の下に許された密室となったのである。 (じん)は、正式な評定の場ではないため、書斎で胡坐(あぐら)をかいていた。姿勢は良いものの、膝元は開き、その構図は、上座に立つ石動(いするぎ)から見ると、無防備な屈服を暗示していた。 石動は、習字の指南役として、墨を()る迅の傍に立った。その距離は、家臣と将軍という公的な規律を遥かに逸脱し、背中が今にも触れ合うほどに、密着していた。石動の視線は、迅の開かれた膝元、そして左腕に向けられた。 「習字に集中なされよ、将軍」 石動は、そう(いさ)めながら、迅の視界の遙か上、頭上から、ゆっくりと手を伸ばした。その手の甲が、迅の露出した太もものあたりを僅かにかすめ、その重みが迅の肩に落ちた。 迅の身体は、一瞬で硬直した。石動の体温が、上から圧し掛かる。 「その左の手甲(てこう)の下の印を、あの、裏社会の者共の前で、自ら晒したと聞く。将軍ともあろうお方が、公的な場で愚行を冒すのは慎むべきことであるぞ」 石動の声は、低く、冷たかった。彼の指先は、布が巻かれた刺青の上に、圧をかけるように触れていた。 「この印も含め、二度とお前の過去について脅しをかけるような者も、誹りを仕掛けるものもこの国にはいない。この石動が、血をもって、沈黙を買い取ったのだ」 迅にも、聞こえてきている。 迅が墨を晒した後に、迅の過去を公にしようとしていたという噂のあった者が、直近のものではない罪で囚われ即刻処刑されたことを見せしめだと言われている話を酉五郎がよこしてきた。 石動の言葉は「お前の過去を俺が買い上げた」と主張する、究極の支配だった。 「すでに、お前は神月(みかげ)という名で神凪将軍(かんなぎしょうぐん)という要職に就いている身なのだ。お前の浅はかな振舞いは、神凪耀(かんなぎのきみ)に恥をかかせることとなると心得よ」 迅は、石動の息を感じるその距離に、激しい吐き気を覚えた。でも、石動はこの城の家臣の頂点にいる男だ。 「お前のこの『身体』も、その『名』も、今度、市井の者たちに汚されるような振る舞いは許されぬ」 この男の指先の触れ方は、忠誠心ではない。 迅はそう確信する。 でも、末席の自分がこの屈辱を払いのければ、言いがかりだとして、誹りをうけるのは自分のほうだ。 石動は暁斗を育て上げたこの城の支配者だ。 しかし迅は感じていた。粘つくような個人的な欲望が、迅の過去の屈辱に混ざり合って心を蝕んでくる。 「将軍として、これ以上の公的な愚行は、控えられよ」 石動の白く長い指が、迅の右手、筆を握る手の、さらに上から、静かに覆い被さった。その指は、迅の指関節を強く締め付け、筆先に尋常でない圧をかけた。 「よろしい。では、家格を落とさぬためにも、筆の練習だ」 石動の低い声が、迅の耳元で囁かれる。二人の吐息が、密室の熱を孕んで、空間に漂った。 石動の身体が、さらに一歩、迅の背中に近づく。ぴたりと、その硬質な体温と微かな獣の匂いが、迅の背中に密着した。迅は振り払って怒鳴りつけてやりたいのを耐えた。 (―――振り払えば、乱心者と見なされて、この男に、「公的に」俺を追い出す口実を与えてしまう) 筆の先から、石動の強い執着が、骨を伝って染み込んでくるようだった。石動が何を望んでいるのか、迅ははっきりとは理解できなかった。ただ、この男が放つ「理性の皮を被った熱」が、暁斗の清涼な愛とは正反対の、汚泥のような不快な感触であることは理解できた。 迅は、粗野な振る舞いを崩さぬよう、全身の筋肉を硬直させ、獣が耐え忍ぶように、この至難の時間を凌いだ。 「まずは、『一』だ。線を引く。王の絶対性を刻むように」 「次は、『水』だ。……清らかな、王の御神氣の如く」 「最後だ。『しんにょう』。王道を行く、神凪の進む道を示す」 迅は、石動の裏の忠誠の対価として、この空間を耐えることを選んだ。 彼は、呼吸を止め、意識を精神の遠い場所へと飛ばすことで、耐えがたい屈辱から、自らを護った。 その日の夕刻。朱鷺田(ときた)は、執務を終え、城のコの字型に配置された建物の縁側を歩いていた。中庭を囲む静かな廊下は、西日が長く伸び、日常の平穏を装っていた。 ふと、正面に位置する書斎の戸が、音もなく開いた。 中から出てきたのは、石動(いするぎ)(じん)だ。 確か、習字の指南をすると言っていた。それが終わったところだろう。 最初はあまり気に留めていたなったが、朱鷺田は、足を止めた。 迅は、いつもの荒々しい勢いを失い、まるで操られたかのように、機械的な足取りで廊下に出た。その顔は、血の気を失い、蝋細工のように蒼白だった。瞳は、感情を深く奥に閉じ込め、朱鷺田の方を見ようともしない。 (警戒心の塊のような男が…?) 最初はほんの少しの違和感だった。 石動はといえば、一歩下がった位置で、その迅の背中を見送っていた。その能面のような顔は、公的な平静を保っている。 しかし、石動が迅の姿に送る視線は、忠誠心とは全く異なる、ねっとりとした、醜い余韻が張り付いていた。それは、手に入れたいものを隅々まで品定めし、今まさに私的な領域で(けが)した者の、冷酷な満足だった。 朱鷺田の理性が、激しく警鐘を鳴らした。 (何だ、あの目線は……?) (将軍は、屈辱を受けたとしか思えない) (石動は、一体何を教えたというのだ?) (習字と称しての、私的な支配か?) 筆使いを教えるために、指南役が生徒に手を添える教え方は十分あり得る。 (そのどさくさになにかしたのか?) 朱鷺田は、石動の裏の忠誠の影に潜む私的な欲望と、迅の茫然と心ここにない様子が結びつき、指南が精神的な汚辱(おじょく)に変質していることを直感した。 (このままでは、神月の心が壊れ、結果として暁斗陛下の命綱に、回復不能な傷がつく。石動は、神月に関しては忠臣ではない、毒だ) その時だった。 朱鷺田の冷徹な分析的な視線が、迅の硬直した横顔を射抜いた。 迅の閉ざされていた琥珀の瞳が、一瞬、朱鷺田の理性の光に触れた。 屈辱を押し殺していた迅の身体は、「汚れた姿を見られた」という極度の羞恥に襲われ、硬直が解けた。 「ッ……!」 迅は、石動の方も、朱鷺田の方も見ることもなく、廊下を一目散に走り去った。その足音は、普段の荒々しさではなく、自己の存在を隠そうとする、切実な逃走だった。 石動は、その様子を、仮面の下の目で静かに見送っていた。 朱鷺田は、その決定的な屈服の証拠を、胸の中に鋭く焼き付けた。石動の毒が、既に迅の心を蝕んでいるのは明白だった。 「あの者が猿飛(さるとび)とあだ名されたのは恐ろしく身軽だったからだと聞くが、あの落ち着きのなさはどうしたものかな朱鷺田殿」 石動が朱鷺田に話しかけてくる。 どこか自慢げにみえるのは朱鷺田の気のせいではないだおろう。 「躾が必要と、そうお考えなのですね? ご家老殿」 「そうだ。作法も教えねばなるまい。あのまま客の前に出しては神凪の恥となるだろうからな」 そう言って、笑いながら石動が廊下を去っていった。 (あのような目線を送るような輩に、将軍の養育を任せてはならない。正しく導こうとしないものは、指南役にふさわしくない。排除しなければ。すぐにでも!) 朱鷺田の心には、冷たい決意が満ちた。迅の屈辱は、彼にとって政治的な危機であり、同時に私的な支配への扉を開く、決定的な布石となった。 (じん)が、廊下を一目散に駆けた先は、活気の絶えない城の(くりや)だった。 湯気と、肉や出汁の生々しい匂いが、彼の鋭敏な鼻腔を強烈に刺激する。彼は、調理人たちに目もくれず、一番奥の、薬味を扱う場所へと向かった。 その時、厨の一角で、沢ワサビの仕入れ業者が、料理長と引き渡しを終えたばかりだった。新鮮なワサビが、清涼な水の香りを放っている。 迅は、その最高の刺激を前に、「将軍」の威厳をかなぐり捨てた。彼は、裏社会の処世術と子供じみた甘えを混ぜ合わせたような、独特な魅力を醸し出し、料理長に近づいた。 「おい、親父(おやじ)。それ、沢ワサビだろ。いい匂いじゃねぇか」 「おや、神月将軍様。これは恐れ入ります」料理長は驚きながら頭を下げる。 「なあ、これ、一本くれよ。仕入れの分から、ちょっとだけ。な?」 その目は、将軍というよりも、欲しいものを手に入れるためなら何でもする、昔の甚八(じんぱち)の目だった。 料理長は、迅の我儘な魅力に押し切られ、苦笑しながら、ワサビを一本差し出した。 迅は、その獲物を手に、薬味台の隅に身を寄せた。 (……この、汚れた熱を、洗い流せ) 彼は、石動の粘つく体温と指の圧が残る背中を、ワサビの激しさで打ち消そうとしていた。 迅は、刻んだばかりのワサビを、素手で、一塊、鷲掴みにした。そして、それを噛みしめるように、口の中へ放り込んだ。 「ッ……ぐ、あ……ッ!!」 鋭い、突き刺すような激痛が、舌と鼻腔の奥を一瞬で貫いた。それは、頭蓋骨の内部で冷たい炎が爆ぜたかのような、強烈な刺激だった。涙が、反射的に、琥珀色の瞳から溢れ出した。 その激しい痛みと熱が、彼の麻痺した舌に、「生」の、強烈な実感を刻み込む。 (……そうだ。痛い。俺は、生きてる) ワサビの激しさが引いた後、口の中には、清涼な沢の水の香りだけが残った。その清らかさが、石動の汚辱を、一瞬だけ、上書きしてくれた。 しかし、その激しさが去ると、残るのは虚無感だった。 (……馬鹿げてる) 迅は、荒い息を吐きながら、自らの膝を抱えた。 (暁斗の口づけから得られる、清涼な水の味。あの、愛の味を知っているのに、石動の汚れた熱を、こんな痛いものでしか洗い流せない) 愛の味を知っているからこそ、「汚辱の浄化」のために激しい刺激を求める、この自傷的な行為は、自己嫌悪を深めた。 彼の背中は、石動の熱に、そしてワサビの激辛に、二重に焼かれていた。 朱鷺田は、直ちに暁斗(あきと)の許へ単独で拝謁した。 「陛下。将軍の教育について、至急、御一考願いたい進言がございます」 暁斗は眉をひそめた。 「申せ、朱鷺田」 朱鷺田は恭しく、手をついて申告した。 「現在、将軍の教育は石動様がご自身の都合の良い時に指南するという独断状態にございます。しかしながら、石動様は筆頭家老として、城の(まつりごと)と軍事全体を統括せねばならないお立場であります。将軍の指南におひとりで時間を割き、雑事を増やすのは、御代の損失である故、筆跡の指南など、ささいな務めに石動様を煩わせるべきではありません」 「なるほど。神月将軍への養育について指南役を別のものに定めたほうがよいというのだな」 「さようでございます。憚り多きことながら、是非、ご採決くださいますようお願い申し上げます」 朱鷺田は、石動の忠誠心を『公務の効率』という建前で包み込み、排除を仕向けた。

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