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第33話

朽木(くちき)を退けた神凪(かんなぎ)の国は、束の間の勝利に沸いていた。だが、城の中枢で行われる評定は、戦勝の熱とは無縁の冷ややかな緊張に満ちている。 議題は一つ。 次期煌帝(きらめきのおおきみ)の器たる神凪(かんなぎ)暁斗(あきと)に下された、「煌帝(きらめきのおおきみ)の後継者候補」としての煌胤(ひかりのすえ)としての神託を受けた件についてだった。 まだ、公にされていないが、神の一族には知らされている。ほかの煌帝位を排出する三家にはすでに周知されていた。 玉座の間に集う家臣団の中央で、筆頭家老・石動(いするぎ)が朗々と声を張り上げた。 「神託は吉兆! まさしく、暁斗様こそが天命に選ばれし御方である証! 我が神凪家こそが、皇統に最も近しき血脈であることを天下に示す好機!」 その陶酔ともとれる言葉を、冷たく遮ったのは朱鷺田(ときた)だった。 「石動殿。御神氣が『力』であることは同意致します。ですが、それは『至上』であるが故に、制御不能な『災厄』でもある。……他家が、そう見做しましょう」 空気が凍る。石動の顔が怒りに強張った。 「朱鷺田! 貴様、新参の身で、何を愚弄するか!」 「事実を申し上げているまで。暁斗様の規格外の御神氣は、触れた者の魂を狂わせる。これまでは、ここ神凪家の『内側の問題』として、貴方の定める『規範』…つまり『隔離』で対処できた」 朱鷺田は、玉座で静かに聞いている暁斗を一瞥し、言葉を続ける。 「ですが、『煌帝の後継者』となれば話は別。暁斗様は、神聖なる『器』であると同時に、他家から見れば、いつ自らを狂わせるか解らぬ『政治的な脅威』そのものとなるのです」 「黙れ!」 石動が吠える。 「暁斗様は『神』であられる! その御力を疑うことこそが穢れ! 伝統に則り、儀礼を強化し、御身の神聖さを守り抜けば、万事解決する!」 「『隔離』を強める、と? 石動殿、それはもはや政治ではありませぬ。それは狂信だ。他家は、その『狂信』ごと、我らを排除しにかかるでしょうな」 「貴様……!」 「その辺でやめとけよ、もう昼餉の時刻だろう」 二人の間に割って入ったのは、将軍として上座に座る神月(みかげ)(じん)だった。彼は、復興資材の差配書から顔を上げ、心底面倒そうに眉をひそめていた。 「アンタらの言うことは、回りくどくて好かねえ。で、結局、(いくさ)になるのか、ならねえのか。どっちだ」 その、あまりにも実務的で、政治の機微を一切解さぬ問いに、石動は「この妖が…!」と顔を歪め、朱鷺田は逆に、その琥珀色の瞳を、楽しそうに細めた。 午前の評定が終わった。 城壁の上から、復興が始まったばかりの城下町を見下ろす迅の隣に、朱鷺田が音もなく立つ。 「退屈な座学は、お嫌いでしたか。神月」 「……けっ。アンタも石動の爺さんも、どいつもこいつも小難しいことばかり言いやがって」 迅が不機嫌に吐き捨てる。 「神託だか何だか知らねえが、暁斗が偉くなるってんなら、それでいいじゃねえか。何が問題なんだ」 「ふ……」 朱鷺田は、目の前の「研究対象」の、そのあまりの純粋さに、知的な愉悦を覚えていた。彼は、迅に語りかけるという体裁で、自らの思考を整理するように、ゆっくりと口を開く。 「『偉くなる』ことと、『生き延びること』は、必ずしも両立しない。……特に、我が君の場合は」 朱鷺田は、復興作業に汗を流す人々を顎で示す。 「将軍殿。先ほどの評定、翻訳いたしましょう。 石動殿は、『暁斗様は神である』と信じている。伝統と儀式で『神』を守れば、すべて上手くいくと」 「……」 「ですが、私は『暁斗様は危険な力である』と分析している。その力が強大すぎる故に、他の王家は、自らが狂わされる前に、その『脅威(暁斗様)』を排除しようと動くでしょう」 朱鷺田は、初めて迅の横顔をまっすぐに見つめた。 「石動殿は、今も『神聖なる暁斗様』を信仰で守ろうとしている。 ……私は、他家から『災厄』と呼ばれる暁斗様を、現実的に生き延びさせたい。そのための評定だったのですが」 迅は、まだ納得がいかない顔で、腕を組む。 「暁斗は強い。俺もいる。戦なら、負けねえ」 その答えを聞き、朱鷺田は確信した。 (――なるほど。この男は、本当に『何も知らない』) 彼は知らないのだ。 暁斗の「強さ」の本当の意味も。 自らの浄化の力が、その「強さ」を整えていることも。 (だが、この『無知』こそが、あの『絶対的な孤独の神』の心を繋ぎとめているのか……) 朱鷺田は、この美しい「剣」に対する、どうしようもない知的好奇心と、芽生え始めたばかりの倒錯した愛を自覚しながら、あえて、核心的な「毒」を一つ、彼の耳に注ぎ込むことにした。 「迅殿。あなたの言う『戦』は、もう始まっているのですよ。 ただ、敵は朽木の兵ではありませぬ。 ……敵は、我が君の『神聖さ』を信じる、あの忠義者(石動殿)かもしれませんな」 朱鷺田(ときた)の最後の言葉――「敵は、あの忠義者(石動殿)かもしれませんな」――に、(じん)の眉が鋭く吊り上がる。 「…ふざけんな。あの爺さんは、アンタみてえな新参者と違って、ずっと暁斗(あきと)に仕えてきたんだ。俺は死ぬほど好かねえが、暁斗のためを思ってやってるみてえじゃねえか」 「ええ、もちろん。彼もまた『愛』ゆえに動いているのでしょう。…ですが、迅殿。あなたは気づいていない」 朱鷺田は、まるで希少な生物を観察するかのように、迅の琥珀色の瞳を覗き込む。 「あなたは、石動(いするぎ)殿の『愛』と、あなたの『愛』が、決定的に違うことにお気づきでない」 「あ? 愛だ?」 迅は、その言葉に拒絶を示すように顔をしかめる。彼にとって「愛」とは、信じるに値しない、最も不安定な概念だ。 「そうです。あなたは、暁斗様という『個人』の心を繋ぎとめ、彼が『人』であるために存在している。 ですが、石動殿が愛しているのは、暁斗様という『個人』ではない。彼が愛しているのは『神凪家の当主』という『器』であり、彼が信じる『神』そのものです」 朱鷺田の声は、熱を帯びていない。 ただ、冷たい分析結果を告げるかのように淡々としている。 「彼は、その『神』のためならば、暁斗様の『心』を殺すことを厭わない。 事実、彼はそうしてきました。あの御方を『孤独』に仕立て上げたのは、他の誰でもない、石動殿ご自身ですからな」 迅は息を呑む。 脳裏に、城を抜け出し、泥だらけで笑った九つの暁斗の姿と、家臣団に囲まれ、能面のように感情を殺した十五の暁斗の姿が、同時に蘇った。 「だからこそ、石動殿はあなたを憎むのです」 朱鷺田は、決定的な「毒」を注ぎ込む。 「あなたは、彼が完璧に調教しようとした『神』を、『人』に引き戻してしまう、唯一の『穢れ』だからだ。 彼は、あなたを『(あやかし)』と呼び、排除しようとしている。……それは、単なる嫉妬だとお思いか?」 「……!」 「違います。あれは『恐怖』です」 朱鷺田は、一歩、迅に近づく。まるで秘密を共有するように、その声を潜めた。 「あなたは知らないでしょうが、暁斗様の規格外の御神氣は、触れた者の魂を『増幅』させる力を持つ。善意も、悪意も、忠誠も、そして…狂気も」 「…なんだと?」 「石動殿は、誰よりも長く、あの強すぎる御神氣の傍にいた。 彼は『厳格な忠義者』であると同時に、御神氣によって、その忠義の形を『狂気』の域まで増幅させられている」 朱鷺田は、初めてその知的な容貌に、ぞっとするような笑みを浮かべた。 「研究対象として、実に興味深い。 彼は、暁斗様を『神』として崇めるあまり、その『神』を脅かすあなたを、自らの手で『排除』しなければならないという、強迫観念(きょうはくかんねん)に取り憑かれているのです」 朱鷺田は、もう一度、城下町を見下ろす迅の横顔を見る。 「あなたは暁斗様の『剣』だ。 ですが、石動殿は、暁斗様を孤独な『神』として閉じ込める、(かたく)なな『(さや)』だ。 …そして、その『鞘』は、あなたという『剣』を、自らの『狂気』によって、何よりも『折る』ことを望んでいる」 「……」 迅がその衝撃に言葉を失い、深く動揺するのを確認し、朱鷺田の胸の奥で、歓喜にも似た熱が広がった。 (――この『剣』は、本当に美しい。何も知らず、ただ純粋な忠誠を注ぐがゆえに、自ら毒を飲む。この清浄な魂が、誰の支配下で、どのように歪んでいくのか。その変化の過程を、一番近くで観察し、記録し、そして操る権利は、誰にも渡すものか) それは、もはや知的な探求心だけでは説明のつかない、倒錯した独占欲だった。朱鷺田は、彼の心を揺さぶる『毒』を自ら与えたことに満足し、感情を悟らせぬよう静かに踵を返した。 午後になり評定が再開された。 玉座の間に漂う空気は、先刻にも増して重い。筆頭家老・石動玄頼の顔は憤怒に強張り、朱鷺田の表情は感情を読み取らせぬまま、静かに口を開いた。彼の言葉は、もはや単なる弁舌ではなく、冷徹な分析に基づく刃物だった。 「石動殿は、我が君の御神氣を『至上』なるが故に『隔離』せねばならぬ、と説かれた。その論拠は、御神氣が触れた者の魂を『狂わせる』という、過去の恐怖に他なりません」 朱鷺田は、玉座の間を俯瞰し、まるで虚空に存在する『神聖さ』と対話するようだった。 「ですが、その恐怖を打ち砕く『事実』が、既にこの城内に顕現しています。他家への『政治的な説明責任』を果たすためにも、私たちはこの事実を直視せねばならぬ」 石動が「無礼な!」と低く唸るが、朱鷺田はそれを無視して言葉を続けた。 「筆頭家老。貴方が長年、我が君の『内側の問題』として、その御神氣の乱れを象徴するものとして、最も恐れてきた『物理的証拠』とは何であったか」 石動は答えに詰まった。その沈黙こそが、朱鷺田の次の言葉をより鋭利にした。 「御庭の、あの『狂い咲きの桜』でございます」 空気が再び凍る。その桜は、暁斗の規格外の神氣が乱れるたび、季節外れに花を開き、狂ったように花弁を撒き散らす、神凪家にとって長年の『不吉の象徴』だった。 「我が君の御神氣の乱れに呼応し、花弁は狂信的に散る。貴方様が説く『隔離』の必要性を示す、生きた証拠でした。しかし」 朱鷺田は、冷たい理性の光を瞳に宿し、論理の刃を振り下ろす。 「しかし、神月将軍がこの城に来られてより、あの桜は沈黙した。季節に逆らうことなく、その神聖な眠りについた。花弁は、一輪たりとも狂い咲いてはおりませぬ」 玉座の上の神凪暁斗が、一瞬、微かに朱鷺田に視線を向けた。その反応は、朱鷺田の分析が正しいことを示唆していた。 「これは『奇跡』ではない。ましてや『偶然』でもない」 朱鷺田の声に熱がこもる。それは、彼自身の「研究」が正しいことの証明であり、知的な愉悦の表れでもあった。 「神月将軍の持つ、『陽光』のような清浄な『魂氣』が、我が君の『至上』なる神氣の『過剰な出力』を、見事に『整定(せいてい)』している。これこそ、神月将軍が『神聖なる器』の側に立つ、『生きた神器』である動かぬ証拠です」 石動は、怒りのあまり顔を真っ赤にしていたが、この論理的な事実に反論できない。長年、信仰によって無視してきた『物理的証拠』が、今、彼の信じる『隔離』という規範を打ち破っているのだ。 「貴様……! その妖の術を、そのような不遜な理屈で…!」 「不遜ではない、事実です」 朱鷺田は一歩踏み出した。 「石動殿。我らが直面する脅威は、他家から見た我が君の『規格外の力』です。ならば、その力を、『制御可能』であることを示せば良い」 朱鷺田の琥珀色の瞳が、愉しげに細められる。 「故に、筆頭家老・石動玄頼殿。貴方様ご自身が、『我が君の神聖さを護る良心』として、将軍・神月迅の指揮下に立つべきなのです。最高位の貴方が、その身をもってこの『生きた神器(神月迅)』の有効性を『監視・承認』する。これこそが、他家への最も雄弁な『政治的説明責任』となるのです」 石動の顔色が、屈辱に青ざめる。しかし、朱鷺田はさらに畳み掛ける。 「そして、貴方様の『規範』と、『忠誠』が、次代の神凪家へと正しく受け継がれていることを示すため」 朱鷺田は、一瞬、玉座の間の隅で控える石動家の若武者たち、その中でも一際、石動玄頼の血筋を強く感じさせる石動(いするぎ) 玄忠(くろただ)に視線を向けた。 「貴方の孫君、剣術と兵法に長けた石動 玄忠殿を、近衛兵団の近衛隊長に任命すべきでしょう。祖父の『最高権威』と、孫の『実務的な能力』。この石動家という『神凪家の規範』の根幹を、すべて将軍・神月迅の近衛兵団に組み込むこと。これ以上、他家を黙らせる『誠意』が、他にあるでしょうか」 それは、石動家という伝統と忠誠の象徴を、丸ごと人質に取る行為だった。石動玄頼は、屈辱のあまり、全身を小刻みに震わせ、深い絶望を顔に刻んだ。 彼は、歯を食いしばって、ただ一言、深く首を垂れるしかなかった。 「……仰せの、通りに」 玉座の上の神凪暁斗は、この冷徹な政治劇の結末を、無感情に受け入れた。 「朱鷺田の策、採用する。石動玄頼には、引き続き筆頭家老の位を保たせ、その実務として、近衛兵団の副官を命じる。玄忠を近衛隊長に任命せよ」 そして、暁斗は、視線を将軍の席へ向けた。 「神月迅。近衛兵団の指揮官の任、引き受けるか」 将軍の席から立ち上がった迅は、面倒な権力闘争など一切関心がない、どこまでも単純で、陽光のような笑みを浮かべた。 「朱鷺田と爺さんらが小難しい話して決めたんなら、それでいいんじゃねえか。暁斗が、無事に偉くなれるんなら、俺はなんでもやる。命令しろよ、俺の王様」 その、あまりにも純粋で、狂信的なまでに愛に満ちた言葉が、凍りついた評定の場の空気を、一瞬にして切り裂いた。それは、朱鷺田の「支配」と石動の「信仰」による暗い勝利を、迅の「献身」という名の、最も美しい毒で塗り替える瞬間だった。 _____ この取り決めにより、暁斗は朱鷺田の提案を受け入れて、石動玄忠に迅の護衛を命じた。 その日から、迅の傍には玄忠が侍るようになった。 迅が私室から公務に向かうため廊下を歩いている。玄忠は少し離れて護衛についている。 (紅典に儀式を覗かれるだけじゃなく、こいつが俺の後にどこにでも付いてくるのかよ) 迅はため息を吐く。 (ま、爺のほうに侍られるよりましか) (近衛で俺の配下となったとはいえ、あの爺さんは筆頭家老の仕事で忙しいわけだしな) 迅は、突然、足を止めた。玄忠は反射的に刀の柄に手をかけた。 「おい、坊っちゃん」 「将軍、いかがされました」 迅は振り返り、悪戯っぽく笑う。 「さっきから、俺の尻を眺めてんな。そんなに面白いか?」 玄忠は表情を変えず、淡々と返す。 「私の役割は、将軍の護衛です。廊下での歩行の速さ、姿勢、そして不審者の有無を観察するのは、規律です」 「ふぅん。『護衛』ってのは『監視』だろ。それは『公務だ』って言われてんだよな?」 迅は、一歩玄忠に詰め寄る。 「なあ、坊っちゃん、教えろよ。お前が俺を見てんのは爺さんに言いつけるためか、それとも朱鷺田に評価されるためか、どっちだ?」 玄忠は、その核心を突かれた問いに、初めて沈黙した。そして、顔を伏せた。 「……進みましょう、将軍」 玄忠が答えない。迅はそれが答えだとして追求しないでおくことにした。

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