32 / 45

第32話

朽木への奇襲が成功し、迅が率いた荒れ者の集団「猿飛衆」の武勲は、都の屋敷中に響き渡った。 暁斗(あきと)は迅に将軍の位を与え、されに約束通り、猿飛衆を正規の軍をして迎え入れさらには迅の直属として配置した。 猿飛衆(さるとびしゅう)が、正式に神凪の軍に組み込まれ、将軍直属の特殊部隊としての形式的なリーダーを決めるための会議が、城内の詰所の一室で開かれていた。 集まったのは、小雀(こがら)助六(すけろく)熊樫(くまかし)太吉(たきち)岩田(いわた)友衛(ともえ)、そして古株のならず者たち。彼らは皆、裏社会の掟で生きてきた者ばかりで、城の「公的な規律」は、彼らにとっては煙たい鎖に他ならなかった。 神月(みかげ) (じん」)は、椅子に深く腰掛け、猿飛衆の荒っぽい顔ぶれを見渡した。 「猿飛衆は、今日から、神凪の正規の軍だ。……そこで、正式な代表が必要になった」 その言葉に、小雀(こがら)が一歩前に出た。 「代表なら、俺がやります。裏の規律も、武の力も、俺が一番知っている。将軍の意図を、力で、奴らに叩き込んでやります」 小雀の忠誠と力の主張を、迅は揺るぎない眼差しで遮った。 「小雀(すけ)。お前の忠誠は、誰にも負けねぇ。だが、今回は熊樫(くま)だ」 迅の指が、熊樫を指し示す。 熊樫は、裏社会の経験を持たない、猿飛衆の中で最も生真面目で律儀な男だった。彼は、驚きと戸惑いの表情を浮かべた。 「……迅、俺で、いいのか? 俺は、裏の規律も裏の力も、知らねぇ。お前が這い上がってきた道にも、俺はついて行っていない」 その言葉は、ならず者たち全員の、心の声を代弁していた。 「それがいいんだ、クマ」 迅は、将軍ではなく、幼馴染の甚八の顔に戻り、フッと笑った。 「お前は、ガキの頃から融通が利かねぇ。俺が無茶を言っても、『迅、それは理屈が通らねぇ』と、一番最初に正論を吐く。まっとうで、生真面目だ」 迅は、朱鷺田から学んだ「(ことわり)」を、そのまま猿飛衆の統率に適用した。 「城の爺さんたちと折衝するには、理屈と規範で武装している奴じゃないと、奴らの土俵で戦えない。お前のようなまっとうな奴が、代表のほうが、俺がやりやすいんだ」 迅は、部屋を見渡した。古株のならず者たちは、不満を隠せない。 「もちろん、これまで俺を支えてきたお前らには不満だろう。熊樫や友衛は、お前らと同じ泥を被っていない」 迅は、ならず者たちに向かって、断言した。 「だが、聞け。お前らがいなけりゃ、この猿飛衆は、実質なんもできねぇ。闇を這い回る力。裏社会の掟を握り潰せる武の強さ。それは、熊樫の理屈じゃ、換えがきかねぇ」 そして、熊樫と友衛に、熱い視線を送る。 「力も、知も、情も、俺には全てが必要な猿飛衆だ。俺は、ガキの頃から信頼を置いてる男を、この場で裏切るような真似はしねぇ」 「俺達は、家族だ。誰一人、欠けていい奴はいねぇ」 迅の魂の叫びにも似た言葉に、猿飛衆全員の不満は消え去った。 「承知いたしました、将軍!」 古株の一人が、荒々しい声で、初めて「将軍」の敬称を使った。 会議が終わり、熊樫だけが部屋に残った。 「……迅。本当に、俺で良かったのか? 俺は、長年お前と距離があった」 熊樫は、公的な役割を受け入れようとしていたが、情では長年の疎遠を気に病んでいた。 迅は、熊樫の肩に、将軍ではない、幼馴染の重みを乗せた。 「馬鹿野郎。それが、俺にとっての安心なんだよ、クマ」 迅は、荒々しい愛情で、熊樫の胸板を強く叩いた。 「あいつらは俺が言うことならなんだってやる。やっちまう。でもお前は違う。俺と意見が違えばまっすぐ俺に言ってくる。それは俺の唯一の鎖になってくれるだろう。石動や朱鷺田の理屈とは違う、俺たちの世界の理屈でな」 「お前が俺を信じて俺の隣にいることが、俺にとっての安心(まっとうさ)なんだ。ガキの頃から、何も変わらねぇ」 熊樫は、迅の裏表のない本心に、胸を熱くした。長年の疎遠という距離が、この一つの言葉で、一瞬にして埋まった。 「……分かった。猿飛衆の代表、そして、お前の鎖。この熊樫太吉、命に代えても、務め上げます」 こうして、熊樫は公的な役割と私的な鎖という、二重の重責を背負うことになった。 季節は、将軍の位を賜ったばかりの秋。その栄光の裏で、迅の過去の影は動き始めていた。 迅が将軍となってすぐ、城下の館の裏庭で、一人の男が迅を待ち受けていた。かつて裏稼業で顔見知りであった、酉五郎(とりごろう)という名の男だ。一緒に行動することはなかったが、迅の様に島をひとつ仕切っていたのだからそこそこ実力はあるのだろう。 今日は彼は、迅の成功を見て、蝙蝠(こうもり)のように勝ち馬に乗ろうと現れたというわけだ。 酉五郎は、畏れを知らぬ笑みを浮かべて迅を見る。 迅は思わず舌打ちをした。 迅は若干十七歳で、同世代の中では上背があるが、筋肉が細く、顔は男にしては華やかなものだから、迅と初めて対話する大人は、みんな、最初から迅が従順に従うはずだと決めてかかる。 それは迅の強みではある。 でも強く在りたい迅は、毎度のことながら面白くない。 「これはこれは、猿飛の甚八さん。いいや、今や神月将軍様でございますか。まさか、あんたがこんな立派な身分になるとは、世の中わからねえもんでさあ」 酉五郎の言葉には、嫉妬と金の要求が透けて見えた。 迅は、この男が、わざわざ『猿飛の甚八』と呼んだことで、世間でいうところの『汚れた過去』を公にすることが迅に対して武器になると思っているのだ。 「酉五郎、だったな」 迅は、冷たい眼差しで、名を呼び捨てた。 「何の用だ。金ならやらねぇぞ」 「へえ、将軍様は相変わらずお早いことで。金なんて、滅相もねえ。ただ、我々も神凪の御代の役に立ちたいと思いましてな。将軍様には、裏の仕事でずいぶん世話になりましたから、その(よしみ)を、ぜひ……」 酉五郎は、自分は要求していないとしながらも、「裏の仕事」という言葉で、迅の過去を脅した。 「は。将軍って言ったところで俺は下っ端だ。下賤の身なんで名前ばかりで、たいした役もなけりゃ禄もねえ。だからお前にやれるものなんかねえ。…まあ、でも」 迅は懐に手をやり、扇子を差し出した。 「お前にはこれをやろう。売って金にでもしてくれよ」 酉五郎はまるで奪うかのように迅の手から素早く扇子を取ると、さっそく袋から出して吟味し始める。 酉五郎の目が捉えたのは、もはや普通の扇子ではなかった。 それは、骨組に白檀(びゃくだん)の木が使われ、幾重にも磨き上げられた純金箔が紙面に散らされている。留め具には、透き通るような翡翠(ひすい)が使われていて、飾り紐の縁には価値の高い琥珀(こはく)の玉が使われていた。その見事な(しつら)えと、細部に施された蒔絵(まきえ)の技巧に、酉五郎は都の相場で家一軒建つほどの値がつくことを算段していた。 相手が査定するさまをみて、迅は朗らかな笑みを浮かべ、首をかしげて言った。 「これは先日、戦勝の褒美としていただいた一点ものだ。もし、この扇子を持っていないことを誰かに尋ねられたら『盗まれた』と答える。そしたら、お前はたちまち追われる身となるのだろうが、今はそれしかねえからな。さあ、遠慮せず、持っていきな」 酉五郎は、ぎょっとして迅を見返すと、機嫌を伺うような笑みを無理やり浮かべた。 「しょ、将軍様のお心遣いは…、大変ありがたい。だが…、私には身の余るお品のようです。見せて…、拝見、させていただき、ありがとうございました」 丁重に扇子をしまって両手で掲げ、頭を下げて差し戻して来た。 それを見て迅は不快を隠さない低い声を出す。 「おい。俺はお前にひけらかす為にこの品を見せたんじゃねえ。昔の誼を無下にする薄情者だと思われるのは我慢ならねえから渡したんだ。それを突っ返すってどういうことだ? 俺に恥かかせようってことか? なあ? 酉五郎」 迅が顎をそり上げて、見下すようにして言った。 酉五郎はさらに深々と首を垂れ「勘弁してくだせえ」と繰り返すのだった。迅は降格だけを上げて、頭をゆっくりと傾げる。 「俺も鬼じゃねえよ。そんなに委縮されちゃさすがに可哀そうになってきた。それじゃあ、扇子を返してもらう代わりに、今後は俺が必要な時に情報をよこせ。それで勘弁してやろうじゃねえか」 そういって酉五郎から扇子を取り上げると、酉五郎は浸りを地面にこすりつけんばかりに畏まって感謝した。 その翌日。(じん)は、猿飛衆を率い、城下町の最も荒れた区域、かつてお(れん)の店があった界隈へと向かった。表向きは治安維持だが、その真の目的は、過去のすべてに終止符を打つことだった。 路地の奥には、かつての迅を知る顔ぶれ、そして新しく勢力を伸ばそうとする裏社会の人間たちが、静かに集まっていた。彼らは、迅を「成り上がった元仲間」として、嘲笑と期待の入り混じった視線で見つめている。 迅は、その中心で、馬から降りた。 「将軍様が、わざわざこんな裏までお越しとは……随分と物好きな」 集団の中から、かつての親分格であった男が、皮肉を込めて声をかけた。 迅は、その男に向かって、一切の感情を排した、冷徹な視線を向けた。 「物好きではない。用がある」 迅は、静かに、しかし、誰もが聞き取れる声で宣言した。 「今日、ここで、一つ、線引きをさせてもらう」 迅は、ゆっくりと、左腕の手甲(てこう)を外した。そして、その下に巻かれた布を解く。露わになった左手の甲には、深く刻まれた、青黒い刺青(いれずみ)の印が晒された。 場が、静まり返る。裏社会の人間にとって、それは「罪人」の証であると同時に、「抗いがたい掟」の象徴でもあった。 「ああ。よく見ておけ」 迅は、その刺青を、決して隠すことなく、冷然と言い放った。 「俺は、お前たちが蔑むヤクザ上がりで、刑を受けた罪人上がりの身だ。だが、この身は今、神凪の神月将軍だ」 迅の視線は、一人一人を射抜いた。 「文句があるなら、この余に代わって御代を担う、神月将軍に、正面から言ってみろ」 その瞬間、迅の「汚れた過去」は、「国家権力という、最も強固な権威」によって上書きされた。集まった者たちの顔から、嘲笑の色は消え、残ったのは、絶対的な恐怖だけだった。 迅は、公の秩序と裏の力を融合させ、ここに、二度と侵すことのできない聖域を確立したのだった。 酉五郎が、忠誠を誓い、迅の求めに応じてあらゆる『情報』の提供を約束することで『誼』を求めた沙汰を受け、館を後にした、その翌日、迅が町で左手の甲の刺青を明かした能登時を同じくして、石動(いするぎ)は、自らの権威を使い、速やかに沈黙の圧を裏社会にかけていた。 彼の目的は、迅への個人的な嫌悪とは別に、「神凪の権威を守る」という、究極の忠誠心にあった。 石動の指令は、冷徹で迅速だった。 「神月将軍の過去に関する一切の事実は、神凪の屋台骨(やがいぼね)に関わる最高機密となった。これを口にした者は、国賊と見なす」 この指令に逆らい、なおも迅の過去を公にしようとしたと噂された島の幹部がいた。 その男は、石動の裏の繋がりによって役人に捕らえられ、見せしめとして即時的に処刑された。 城下を震わせたその処刑は、迅の過去を知る全ての裏の人間に、「神月将軍の過去は、国家の機密であり、触れてはならぬ」という、絶対的な恐怖を植え付けた。 石動は、自分の手で、迅という「異物」の過去の痕跡を、血をもって永久に封印したのだった。

ともだちにシェアしよう!