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第31話
「満月の儀式」を終えた夜更け。
侍祭 の紅典 は、恐怖で強張 る体を叱咤 し、筆頭家老・石動 の私室の前に控えていた。 あらかじめ命じられていた、内密の「報告」のためである。
「……紅典か。入れ」
重い声に促され、部屋に入る。 そこには、公務の装束を解いた石動が、書状を前に座していた。顔は蝋燭 の影に沈み、その表情は能面のように読み取れない。
「…して、儀式は」
「は、はい。ご異変なく、恙 なく…。あの者も、別段、不審な動きは…」
「御君 の様子は?」
「なにごともなくお休みになられました」
「そうか」
石動は、それだけでは終わらせなかった。彼は、蝋燭の炎に照らされた、能面のような無表情で、紅典に問い詰める。
「…詳細を申せ」
「はい…」
紅典は、思い出しながら、ぎこちなく口を開いた。
「御君様は…迅様の、その…衣を緩めさせ…」
「どこに触れた」
「む、胸元に…。ゆっくりと…。それから、首筋に…」
「あの者はどうしておった」
「迅様は…目を閉じて、時折、息を…詰めておられるようにも…」
紅典が、見たままを拙 く報告する間、石動は一言も発しなかった。 彼は、鬼気迫るような静けさで、ただじっと闇を見つめている。
石動は、視線を書状に落としたまま、低い声で遮った。
「……左手には触れられたか?」
「え……」
「御君は、あの者の、左手の甲には触れられたのか?」
紅典は、それが「悪しき影響」を確かめるために必要な報告なのだと、必死に自分に言い聞かせた。
「は、はい……。御君は……、あの者の、左手を……お取りになり……」
その瞬間、石動の筆がぴたりと止まった。 紅典は気づかない。
「左手……」
石動の声が、地を這うように低くなる。
「あの者の左手には……『印 』があるはずだ。かつて罪を犯した、穢 れの印が。御君様は……それを」
「あ……」
紅典は、あの瞬間の、息を呑むような光景を思い出した。
「御君様は、その……迅様の左手を取り、ご自身の御唇 に……」
「なに……?」
「手の甲、その……印 のある場所に…そっと、口づけを…」
ピシリ、と。 石動が握る筆の軸に、微かな亀裂が入った音を、紅典は聞き逃した。
「……続けよ」
「は、はいっ。御君が口づけをなさると……迅様は、御君から目を逸らし……肩を震わせ……」
紅典は、恐る恐る付け加えた。
「まるで……声を押し殺すように……泣いて、おいででした」
報告は、終わった。 紅典は、次の言葉を待った。
だが、石動は何も言わなかった。 書状に目を落としたまま、ただ、動かない。 時が止まったかのような、恐ろしい静寂。 部屋の空気が、まるで氷のように冷たく、紅典の肌を刺した。
(お、怒っておられる……? 御君が、穢れに触れられたから……?)
紅典が恐怖のあまり気を失いそうになった、その時。
「…………わかった」
長い、長い沈黙のあと。 石動は、それだけを呟 いた。
「今日はもう良い。下がれ」
顔を上げることなく、冷たく言い放つ。 紅典は、その声に弾かれたように深々と頭を下げ、部屋から逃げ出した。
一人残された部屋で。 石動は、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、まだ書状の文字を追っている。 しかし、その指先は、先ほど報告で聞いた「手の甲」の位置――自らの左手の甲を、無意識のうちに、強く、強く、爪が白くなるほど握りしめていることに、彼自身は気づいていなかった。
報告を終えて紅典が石動の部屋を出て、急ぎ私室に戻ろうと廊下を静かにだが急いで歩いていると、侍祭の私室が並ぶ棟に差し掛かる廊下に人影があった。
「よう」
迅だ。紅典が足を止め、迅を見上げる。
迅のほうが一つ下だが、迅の四肢は長く、背も高い。鍛え上げられた体躯はその立ち姿も小柄な紅典には大きく見えた。
湯あみでもしたのか、身なりは整えられていて、髪が濡れていた。だが、まだ目元に気だるさが残っている。
「お前も大変だな。あんな濡れ場なんか見せられて……」
気遣うように静かに笑みを浮かべる迅に紅典は警戒する。石動から報告自体を内密にしろといられているからだった。だが迅は察したのか紅典は何も言っていないのに、つづけた。
「そう警戒するなよ。昨夜は取り乱して、怒鳴りつけちまって悪かったって思ってよ。お前も、仕事で仕方ねえんだよな。仲良くってもの変だが、これから長い付き合いになるんだろうから、気楽にいこうぜ。じゃあな」
迅はそう言って、自分にあてがわれている敷地の奥にある西殿に向かう廊下へ姿を消した。
(おかしい)
(あいつ、素人どころか『子供』じゃねえか)
(夜伽の監視ってのはふつう閨に慣れてる奴を選ぶだろう)
(ってことは、石動が指名したんじゃねえってことだ)
(紅典がどこに出かけてきた先はどうせわかってる。ゆっくり探ればいい)
九月の十八夜。
暁斗 は、呼びつけた迅 を前に、苛立 たしく唇を噛んだ。 三日前、あの満月の儀式以来、迅は変わってしまった。
否、正確には「完璧」になったのだ。 命じれば頷 き、側にいろと言えば影のように従う。食事を運ばせれば、毒味までして無言で差し出す。 だが、あの不遜 な光を宿した琥珀 色の瞳は、今は凪 いだ水面のように、暁斗の姿を映すだけだ。
笑わない。 怒らない。 そして、あの無防備な肌の温もりを、暁斗に向けようとはしない。
「……もうよい。下がれ」
「御意 」
冷たく退出しようとする迅の背中に、暁斗の張り詰めていた糸が、ついに切れた。
「待て!」
迅の肩が、わずかに揺れる。 暁斗は玉座から転がり落ちるように駆け寄り、その腕を掴(つか)んだ。
「―――なぜだ」
「……何が、でございましょうか」
「その『仮面』をやめろ! なぜ、我を見ない! なぜ、心を閉ざす!」
迅は、ゆっくりと振り返った。 その顔には、何の感情も浮かんでいない。
「御耀 が、お望みになったのでは?」
「……!」
「某は、暁斗 の『剣 』だ。儀式に立ち会う者がいようと、『道具』として役目を果たす。…それ以上に、何を望まれるというのか?」
その言葉が、暁斗の胸を抉 る。 彼が一番恐れていたこと。迅が、自らを「道具」と完全に定義し、納得してしまった。
「ちがう…」
暁斗の声が震える。
「ちがう! 俺は……っ、俺は、ただの美しい人形が欲しかったのではない!」
王の威厳など、そこにはなかった。 彼は、掴んだ迅の腕に、まるで幼子が縋 るように、額 を押し付ける。
「あ……、ああせねば、石動 たちが納得せぬと…そう、思ったのだ…」
それは、王としての、あまりに稚拙 で、愚かな「言い訳」だった。
「だが、それが、お前を『見世物』にすることだとは…お前の、あの傷に触れることだとは…!」
迅は、何も答えない。 ただ、冷たい瞳で、床を見つめている。 その沈黙が、暁斗を「孤独」の恐怖へと叩き落とす。
「……迅」
暁斗は、顔を上げた。 その紫の瞳は、必死に涙をこらえ、狂気的なまでの渇望に濡れている。
「言ったではないか。俺はお前無しでは、生きてはいけない…! お前のいない世界を俺は許せない。お前がいるから、俺は俺のままでこの世界にあることができるのだ」
彼は、迅の冷たくなった手を引き寄せ、自らの頬に当てさせた。
「俺が触れたいのは、お前の心だ。お前の魂、お前自身なのだ!」
「…………」
「石動を納得させるために、お前の心を殺すなど…! なんという、愚かな真似を…!」
暁Btn;は、ついに迅の胸に顔を埋 め、その身体をきつく抱きしめた。
「愚かな俺を、許してくれ…!」
それは、王の言葉ではなかった。 ただ一人の男が、唯一の光を失うことを恐れる、悲痛な叫びだった。
「頼む、迅…。俺を、独りにしないでくれ…」
「…………」
「もう一度…、愚かな俺に、お前に触れさせてくれ…!」
抱きしめる腕の中で、迅の身体が、強張 ったまま動かない。 永遠にも思える沈黙。 暁斗の心臓が、絶望に凍りついた、その時。
「…………はっ」
頭上から、呆 れたような、それでいて、どうしようもなく甘い、深いため息が聞こえた。
「…お前は、本当に…」
迅の手が、ゆっくりと持ち上がり、迷うように、暁斗の漆黒 の髪を、くしゃりと掴む。
その声には、もう「仮面」の冷たさはない。 暁斗は、その温もりが戻ってきたことに安堵 し、子供のように、さらに強く迅の胸に顔を押し付けた。 迅は、愛など信じられないと言いながら、この孤独な王の懇願を、結局は拒 むことができないのだった。
(―――馬鹿だったのは、俺の方だ)
迅の胸の奥で、満月の夜の記憶が、鮮烈に蘇る。
(あの夜、御耀 は、石動 の視線の下で、俺の穢れに触れた。誰にも見せたくない、罪の刻印、この左手の甲に...)
彼は、自分を拒絶していた三日間を思い出し、喉の奥が熱くなる。
(―――お前は、あの時、俺の最も深い瑕瑾 を、愛してくれた。それ以上の、何を望むというのだ)
彼は、愛する王の背を、抱きしめ返した。その腕には、二度とこの温もりを手放すまいという、強い決意が込められていた。
その確かな温もりを抱きしめながら、迅はふと、三日前に自身が得た「真実」を思い出した。
「……なぁ、暁斗」
彼の声には、久しく失われていた、悪戯 っぽい響きが戻っている。
「……ってことは、あの爺さん の、見張りは、新月と、満月だけって、ことか」
暁斗は、まるで、泣き出す寸前のような顔をそのままに、バツが悪そうに、しかし、正直に、こくりと頷 いた。
その瞬間、迅の口から、今度こそ、本物の、そして、心の底からの笑い声が、溢れ出した。
「へっ…! へへっ、あはははは!」
それは、彼が裏社会に堕ちてから一度も見せたことのない、屈託のない笑い声だった。
「なんだよ、それ! じゃあ、今夜は、誰にも、邪魔されねえってわけか!」
彼は、そう言うと、その、まだ涙の痕が残る顔で、ニヤリと、悪戯っぽく笑う。そして、今度は、自らの手で、暁斗の、その華奢な身体を、ぐいと、引き寄せた。
「…だったら、そうと、早く言えよな。…馬鹿」
その、あまりにも不遜 で、そして、どうしようもなく愛情に満ちた言葉。 暁斗は、もう、何も言えなかった。 ただ、その、大きな胸に、自らの顔を、うずめるように、その、久しぶりの、そして、どうしようもなく懐かしい「温もり」に、その身を、預けるだけだった。
迅は、暁斗を抱きしめたまま、そのまま寝台へと倒れ込んだ。王の装束が、重い絹の音を立てて広がる。
「今夜は、俺が、お前を、抱いてやるよ」
迅の琥珀色の瞳は、月の光を宿したように煌めき、その声には、一切の迷いがない。それは、この関係における「男」としての、最後のプライドであり、愛する者を包み込みたいという、剥き出しの「情」だった。
しかし、暁斗は、首を横に振った。
「……だめだ。それは、違う」
暁斗は、迅の胸に顔を埋めたまま、その華奢な腕で、迅の肩を強く掴んだ。その力は、王の意志の強さそのものだった。
「今宵のこれは、儀式ではない。だが、お前が俺の依り代であることは、真実だ。お前の温もりは、俺の神気を吸い上げ、そして、俺の魂に、清浄な光を戻す」
暁斗は、顔を上げ、涙の痕が残る、しかし、絶対的な瞳で迅を見つめた。
「……俺が、お前に、挿入 る。俺が、お前の内側から、お前の温もりを、全て、吸い尽くす。それが、俺の愛であり、俺の渇望だ」
それは、王の命令であり、依存の告白だった。迅の「男」としてのプライドと、「王の飢餓を満たしたい」という忠誠心が、激しくせめぎ合う。
「……なんでだ? なんで、そんなに、俺に抱かれることを、嫌がるんだよ」
「迅。お前は、陽光だ。そして俺は、月だ。月が陽を抱くことはできない。月は、陽の光を、その身に浴びることしかできないのだ」
「お前が月なんだろ? じゃあ、俺が抱くのでいいじゃねえか」
「違う。言ったであろう。月である俺が、陽であるお前を浴びるために俺はお前に挿入るのだ。お前のほうが力が強いからそうするしかない」
それは、抱く という行為を通じて、迅の光の全てを、内側から独占し、包み込まれるという、暁斗の切実な生存本能を逆説的に表現する、歪んだ愛の理屈であった。
二人の持つ神気と、運命を象徴する、あまりにも美しく、そして哀しい理 だった。
迅は、諦めた。そして、悟った。この王は、与えられる愛を欲していない。支配する愛だけを渇望しているのだ、と。それが、この孤独な神の、愛の形なのだ、と。
「…わかったよ、暁斗」
迅は、深く、息を吐いた。そして、自らの身体を、無防備に、暁斗へと差し出した。
「お前が、望むなら。お前が、それで、満たされるなら」
その言葉が、合図だった。
暁斗は、迅の唇を、飢えた獣のように、吸い尽くした。涙と歓喜と、そして、どうしようもないほどの独占欲が混じり合った、熱い口づけ。
王の装束が、二人だけの密室で、音を立てて崩れる。
迅の、日焼けした逞しい肌と、暁斗の、月光のような白い肌が、重なる。清浄な肌が、男の熱と汗と、そして、獣の愛の匂いに、初めて、染まっていく。
迅は、初夜の時とは違い、完全に愛の支配を受け入れていた。暁斗の貪るような愛撫と、その熱に、彼の身体は、すぐに、本能的な歓喜を返し始める。
「あき…と……ッ」
迅の唇から漏れるのは、官能的な吐息と、愛する主君の名だけだった。その声が、暁斗の支配的な愛を、更に激しく駆り立てる。
孤独な王の、渇望と狂気が、その夜、二人の間を埋め尽くした。
これは、神聖な儀式ではない。誰にも邪魔されない、王と寵童の、私的な契りの儀式だった。
そして、この夜の交歓が、二人の魂に、理(ことわり)を超えた、永遠の依存という名の、朱 い鎖を、強く、強く、巻きつけるのだった。
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