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第30話
その夜は、満月だった。
九月十五日。
迅が、神月 の姓を賜 り、そして、暁斗 と、最初の、魂の契約を結んでから、ちょうど、二週間が過ぎていた。
迅の心は、静かな期待に、満ちていた。
昨日の評定 の間での、あの、屈辱的 な視線も、今は、もう気にならない。
今夜、また、暁斗と、二人きりになれる。
あの、自分だけが知る、不器用で、そして、どうしようもなく愛おしい、神の子の、本当の姿に、また、触れられるのだ。
彼は、湯浴(ゆあ)みを済ませ、柔らかな寝間着を纏 い、暁斗の私室へと向かった。
しかし、その、寝室へと続く、控えの間の前で。
彼の足を、止めたのは、そこに、静かに、ひざまずく、一人の少年の姿だった。
侍祭 の、紅典 だった。
「…紅典? なんで、お前が、こんなところに」
迅の、その、訝(いぶか)しげな問いに、紅典は、顔を青ざめさせ、畳 に額 を擦 りつけるように、深く、頭 を垂れた。
「―――お、お待ちしておりました。神月将軍」
その声は、恐怖に、震えていた。
「…筆頭家老、石動 様より、ご命令を、賜っておりますれば…」
その、忌(い)まわしい名前を聞いた瞬間、迅の、穏やかだったはずの心に、冷たい、嫌な予感が、走った。
「…爺さん が、なんだって?」
「…は。これより後、陛下が、将軍と、儀式を執 り行われる際は、必ず、この紅典が、その場に控え、万が一にも、陛下の御身 に、粗相 がなきよう、見届けよ、と…」
―――その、か細い声が、何を言っているのか。
迅は、一瞬、理解できなかった。
見届ける?
誰が?
俺と、暁斗の、あの、二人だけの時間を?
粗相?
誰から誰に粗相?
「―――ふざけてんのか、てめえ」
低い、地を這 うような声が、迅の口から、漏れた。
その、剥 き出しの殺気に、紅典の、小さな身体が、びくり、と震える。
「どけ」
「し、しかし、これは、石動様の…!」
「どけと言っている」
迅は、紅典の肩を、乱暴に突き飛ばし、寝室の襖 を、蹴破 らんばかりの勢いで、開け放った。
部屋の中には、暁斗が、一人、静かに、座っていた。
その顔には、深い、深い、罪悪感の色が、浮かんでいた。
「―――暁斗!」
迅の、その、魂の叫び。
「どういうことだ、これは! なぜ、あいつが、ここにいる! 俺と、お前の、あの夜に、あの爺さんの、犬ころを、引き入れるってのか!」
暁斗は、何も言えなかった。
ただ、その、紫水晶の瞳を、痛ましげに、歪 ませるだけ。
その、沈黙こそが、何よりも、雄弁な「肯定」だった。
迅は、絶句した。
そして、彼は、悟ってしまった。
昨日の、あの評定の間。
あれは、ただ、自分を家臣として認めるだけの、儀式ではなかったのだ、と。
あれは、自分と暁斗の関係を、公 のものとした代償として、その、最も神聖な部分にまで、石動という、国家の「秩序」が、その、冷たい手を、伸ばしてくることを、許してしまった、ということなのだ、と。
「…そうかよ」
迅の口から、乾いた、笑い声が漏れた。
「そうやって、俺を、見世物 にするってわけか。あの爺さんは」
彼は、ゆっくりと、暁斗に、背を向けた。
「……なら、もう、いい。帰る」
「待て、迅!」
暁斗が、初めて、必死の声を上げる。
「違うのだ! これは、お前を、守るため…!」
「は? 守る?」
迅は、振り返った。その瞳には、もはや、怒りですらない、絶対的な、そして、氷のような「諦観 」が、浮かんでいた。
「何を、守るってんだ。お前は、あの爺さんに俺たちの魂を、売り渡したんってことじゃねえか」
その、あまりにも正しく、そして、あまりにも、残酷な言葉。
暁斗は、もはや、何も、言い返すことが、できなかった。
ただ、その瞳から、一筋だけ、熱い涙が、零 れ落ちる。
その、涙を見た、瞬間。
迅の、その、凍てついていたはずの心が、僅 かに、軋 んだ。
(―――ああ、ちくしょう)
彼は、知っていたのだ。
この、あまりにも気高く、そして、あまりにも、不器-用な王が、自分を、裏切ったのではないことを。
ただ、自分と、そして、この国を、守るために、彼が、どれほど、苦しい選択をしたのかを。
「………分かったよ」
迅は、深く、深く、息を吐いた。
「好きに、しろ」
迅の口から漏れたのは、もはや、声ですらなかった。
ただの、乾いた、息の音だった。
「……分かった。……始めようぜ、暁斗。俺たちの、大事な大事な『儀式』とやらをな」
彼は、そう言うと、まるで、これから、処刑台にでも上る罪人のように、重い、重い足取りで、寝台の方へと、自ら歩いて仰向けになった。
その夜の儀式は、地獄だった。
迅は、初めて自らの、完璧なまでの「演技力」を、暁斗に対して、使ってみせた。
彼は、屏風(びょうぶ)の向こう側にある、護衛という名の監視役である紅典、そして、その先にいる、石動の「目」を、常に意識しながら、完璧な「寵童 」を、演じきった。
その、唇から漏れる、甘い声も。
その、悦 びに、打ち震える、その身体も。
その全てが、嘘だった。
暁斗の触れる場所に敏しく艶めかしい反応を返しながら、彼の魂は、その夜、悲しみに暮れていた。
(―――お前も、同じか、暁斗)
彼の、声なき声が、響く。
(お前も、結局、俺を、こうして見世物にするんだな)
(いや、俺が馬鹿だったのだ)
(国を統べる王たるものが、俺みたいな傷物の半端なものを、言葉通りに唯一の宝だなんて信じるほうが馬鹿だったのだ)
(この命を救ってくれた事実だけを見ればいい)
(俺のこの身も魂も、暁斗が好きにすればいい)
(俺は剣であればいいんだ)
その、あまりにも深く、そして、決して、癒 えることのない亀裂が、二人の間に生まれた、最初の、そして、最も哀しい、満月の夜だった。
迅は、もはや、魂のない、美しい人形のように、ただ、されるがままになっていた。
熱い息遣いをしてみせても、その、琥珀の瞳の奥には情が見えない。感情は冷え切っていた。どんなに身体の反応を返してくれても、心が動いていないのがわかった。
暁斗は、自らが犯した過ちの、その大きさに、気づき始めていた。
儀式が終わり、虚 な目で、寝台に横たわる迅の、その左手を見る。
手甲 で隠されていない、その白い肌。
暁斗は、そっと、その手を、取った。
迅の身体が、びくりと、硬直する。彼は、反射的に、その手を、引こうとした。
しかし、暁斗は、それを、離さなかった。
彼は、その、左手の甲に刻まれた、一本の、青黒い線を、じっと、見つめた。
「……痛むか?」
「……いや」
「そうか。……だが、これは、痛かっただろう」
「……よせよ。珍しいからって、こんなもん、じろじろと……」
「俺は、お前が、刺青刑 を受けた時の、調書を、読んだ」
その、静かな一言に、迅は、息をのんだ。
「だから、知っている。お前が、なぜ、これを刻まれたのかを」
「……!」
暁斗の言葉に、迅は手をひこうとした。だが、暁斗はそれを許さず、その、罪人の印が刻まれた手の甲を、まるで、聖遺物 にでも触れるかのように、自らの顔に、ゆっくりと、近づけた。
「これを見れば、世間の者は、お前を罪人だと蔑むだろう。でも、俺だけは、知っている」
そう言いながら、その烙印 の上に、慈 しむような、柔らかな口づけを、落とした。
迅は、息を呑んだ。
「これは、お前が俺を信じて、俺に真を捧げた証 だ」
暁斗は、その手を、自らの頬へと寄せ、その、冷たい肌で、迅の手の甲の熱を感じるように、瞳を閉じた。
そして、目を開き、真っ直ぐに迅を見つめて、告げる。
「神氣 は、魂の形を増幅するのだ。もしこれが、俺がお前に会ったために、お前の魂が増幅された結果だとしたら、お前がこれを刻まれたのは、お前の魂がすでに俺を選んでいたからだ。誰に強いられたわけではなく、お前自身が選んだ道だ。俺は、それを誇りに思う」
それは彼だけが知る、本当の真実を。
「この印があろうとなかろうと、迅は、迅だ。罪人などではない。お前は今も昔も変わっていない。俺の、迅だ。そうだろう、迅」
その、あまりにも絶対的な、肯定の言葉。
迅は、言葉を返せなかった。
ただ、暁斗の手を握り返すことしかできず、彼の、その、固く、閉ざされていたはずの心の壁が決壊した。
(ああ、暁斗)
(俺はお前に敵わない)
(俺はお前が知っててくれればそれでいい)
(心の底からそう思う)
(暁斗、俺の神。俺の光)
その、琥珀色の瞳から、大粒の涙が、次から次へと、溢 れ出し、その、美しい顔を、濡らしていく。
それは、彼がこの墨が入った十歳の冬に、たった一筋だけ流した、涙とは、全く違う、温かい、そして、どうしようもないほどの、安堵 の涙だった。
その手の甲に刻まれた印は、もう「罪」ではなく、「誓い」になっていた。 彼は、その夜、自分の最も哀しい過去ごと、一人の人間に完全に受け入れられた安堵で、魂の奥底は満たされた。
しかし、屏風の向こうに侍る紅典の姿が、その満たされた魂の表面に、冷たい影を落としていた。
(―――刺青は消えた。だが、監視は残った)
迅は、暁斗の公の理 が、自分との私的な愛に優先されたという事実に、深く、そして、静かに拗ねていた。 彼は、王の愛を信じられたからこそ、その屈辱を許せなかった。 儀式が終わり、虚 な目で寝台に横たわる迅の、その琥珀の瞳の奥には、情は見えず、冷たい距離だけが横たわっていた。
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