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第16話

 朧な意識の果てで、男の低い声が静かに流れてくる。 「とにかく――――処置できてよかった――――間に合って――――」  壊れた体温計みたいな機械音が一定に時を刻んで、ぼくの耳に不快に纏わりつく。 「もう少し――――ひびが深かったら――――脊椎神経を傷めて――――半身不随どころか寝たきりに――――それに肋骨も――――本当によく連れてきてくれたと――――」 「はい」  ――――あれ?  ぼくの全部の指がくるんと丸くなった。  これ、タカハシの声だ。 「それより心配なのは――――栄養失調による極度の――――特に、メンタル的な深いダメージが――――」 「ええ、そうですね」  ぼくは彼が大好きだから、こんなに朦朧としていたって彼のちょっとした声でも聞き逃すまいとする。  だからいまも、ぼくを再び引き込もうとする猛烈な睡魔を追い払おうと必死になった。ほんのわずかだけ、瞼を開けられそうな気がした。  でも眠い。すぐに眠気に負けそうになる。なんで体も瞼も、鉛のように重いのだろう。 「とにかく、まだ本当のところは――――ね、だから――――たとえ学校の先生にも言わないように――――分かるね?」 「はい」  タカハシがいるということは、ここは天国じゃない。  あれほど苦しんだのにぼくは死んでいない。なぜだ。 「彼はまだ十七歳だし――――児童相談所に――――それまでは、さっきも言ったとおり誰にも知らせずに――――」  …児童相談所。 「それまで俺は、ここにいてもいいですか?」 「もちろん――――なにしろきみは――――張本人だから」  ここでぼくは、はさみで切ったみたいに意識がなくなった。  次に意識が戻ったときも、まず感じたのはさっきと同じ、ピッ、ピッ、と鳴り続ける機械音だった。  そしてシューシューという大袈裟に篭る息遣い。  今度は瞼を開けることができた。うっすらと見あげた視線の先にあるのは、クリーム色の狭い天井に、無機質な蛍光灯。左の空間にごちゃごちゃとした背の高い点滴だのの医療器械。さすがに病院にいるのだなと見当がついた。  感覚だけが覚め、意識は茫漠としていた。それでもここはぼくの絶対に来たくなかった場所なのだということを思い出す。  そう。来たくなかった。なぜなのか…。  それを突き詰めて考え始めれば、猛烈に疲れそうでいまは考えたくない。でもこうやって実際に病室のベッドに横たわり、布団へと深く身の沈んでいる状態になってみれば、あまりにすべてが安穏としていて平安だった。なにをぼくはそんなに怖れていたのだろう。  ここは居心地がいい。安心できる。ぼくを鞭打つ人もなく、少なくともいまは、ぼくのことを人殺しの子だと白い目で見てくる人もいない。休んでいていい、存在を許す、と言われている感じがしてありがたい。さっきまでは不快だった、ピッ、ピッ、とぼくの隣りで生真面目そうに音を繰り出す機械も、いまはぼくの安息を守る毘沙門天みたいに思われなくもない。まったく現金なものだ。  ぼんやりと天井を見あげてしみじみと思った。ここはなんていままでのぼくからかけ離れた平穏な場所なのだろう。 「佳樹」  ごちゃごちゃとした器械のない方、つまりベッドの右側から名前を呼ばれた。声でタカハシだとすぐに分かった。  首をひねって彼を見る。ひねるときに物質的な抵抗があって、自分が酸素マスクをしていることに気付いた。シューシューと呼吸が煩かったのはそのためだ。  タカハシは制服を着ていた。椅子に座っているのか、ごく近くに顔がある。手が伸びてきて、ぼくの前髪の生え際を彼が何度かかきあげた。慈母のような柔らかな手つきだった。 「汗をかいているな」 「…そう?」  シュー。シュー。シュー。  ほんとに煩い。声も篭ってしまうから言いづらい。まるで海中でボンベをかついでいるみたい。 「少し熱があるんだよ。どこか痛いところはないか」  優しく温かなまなざし。穏やかな声。ぼくの産毛まで柔らかく捕らえる指先。  ぼくがいま独り占めしているそれらが心地よすぎて、ぼくは軽く首を振ったあとで、ふうっと目を閉じてしまう。また一気に眠りへと落ちそうになって、慌てて目を開けた。もっとタカハシを感じていたい。  タカハシの指先は時を忘れたようにぼくの前髪をかきあげ続ける。ぼくの汗で手がベタベタしちまわないかしら。ちょっぴり心配になった。  ぼくたちはしばらくそうやって見つめ合っていた。静かな、穏やかな時間が過ぎる。タカハシは相変わらずなにを考えているのか読み取れない表情をしている。でもぼくはだんだんと、これがタカハシの素の表情なのだと分かり始めていた。  別に気取ったり意地悪をしてポーカーフェイスを纏っているわけではなくて、彼はぼくなんかと比べたら落ち着いた人間だし、たぶん気質だって激しやすいぼくと違って穏やかなのだろうから、だからこんなふうに飄々と見える顔をしているのだろう。  でもなにがどうあれ、ぼくはこの顔が大好きなのだった。  大好きで、大好きで、頭の裏っかわの底の方からその気持ちが込みあげてきて胸を押しつぶし、気が遠のくくらいに好きでたまらないのだった。  それはもちろん初対面のときにも感じたようにパーツが整っていて良い、というのもあるかもしれないけれど、そういうことよりかむしろ彼を知るにつれてますます感じられる全体的な男っぽくて大人びている、頼りがいのある落ち着いた感じとか、一方でどこか野性的でスレた雰囲気とかが、どうにもこうにもぼくを惹きつけて離さない引力になっているのだ。そういう強烈な魅力にぼくはどうしたって抗えなくて、いまも襲いかかってくる眠気に対抗するように、彼を見つめてしまう。 「ごめん」  その静かな表情がいっとき崩れた。ぼくは、ん?という顔をしたのだと思う。 「ひどい抱き方をして、ごめん」  それがとても悲しげでつらそうなので、ぼくは懸命に首を振った。 「ぼくが、頼んだことだよ」  むしろあれはぼくが勝手に荒々しくしただけのことだった。まるで半狂乱みたいになって、タカハシの気持ちもろくろく考えずに。 「そうじゃなくて…。いや、実際、あんなに乱暴にしたのもすごく後悔しているけど…。もっと、気持ちの問題でさ」  言いにくそうに言葉を切る。 「ぼくのこと、嘘つきの淫乱だと思った?」  さすがに淫乱はいきすぎた言葉だったのか、タカハシが驚いたように目を開く。ぼくはかまわず続けた。 「気にしないでいいよ。その通りだから」  タカハシの瞳に、さっと影が落ちる。 「違うだろ」  強く諌めると、いったん止めた手を再び動かしてぼくの額を撫でる。 「俺たち、もっと話さないといけないことがたくさんあるな。でもいまはゆっくり休め。俺、ずっとここにいるから」  ここにいる。  タカハシが、ここにいてくれる。それが、なんて安らかで、安心なことなんだろうと気付いて、いまさらながらにぼくは驚く。こんなことを言ったら動揺させちまうだけかな。ためらいがちに声をかけた。 「タカハシ」 「うん?」 「ぼくを抱いてくれて、本当にありがとう」  ぼくの言葉に、やっぱりタカハシは困ったように瞳を揺らした。泣き虫佳樹君はそんな自分の陳腐な台詞に感動しちゃって鼻がつうんとする。恥ずかしいよな、勝手に盛りあがっちゃってさ。でもほんとのことなんだもの。眠る前に言っておきたかった。 「もっと、あんたと話してたい。でもぼく、すごく眠いんだよ、いま」 「ああ…だろうな。麻酔が効いているんだ。さっき看護婦が点滴に足してた。背中を少し手術したんだよ、おまえ」  そうなのか。  いったいどんな手術だったのだろう。 「起きるまでここにいるから、ゆっくり寝ろ。な?」 「うん」  ぼくはおとなしく目を閉じた。  タカハシがおでこをさする。さすり続ける。指先がそっと、瞼もさすった。 「タカハシ、…好き」  ぼくは呟いた。涙がこぼれた。  光の先から歌が聞こえる。  こんどこそ、安堵の涙だった。

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