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第17話
今回はかなりはっきりと目が覚めた。明るい方に視線を向ければ、薄いピンク色のカーテンに遮られた外の日差しは強そうだった。
一方で、静かにうなり続ける冷房は心地よく、酸素マスクは外されていた。
ぼくはあてもなくじっと天井を眺めた。傷なのか汚れなのか分からない飛び飛びの模様が人の顔に見えたり動物に見えたりするのを、ぼんやりと目に映す。
まだ信じられなかった。ぼくが入院して、そのうえ手術まで受けてしまっているなんて。なんだか狐につままれたみたいだ。
本当にどうなってんの、と思う。
ぼくが頼みもしないのに、ぼくの了承も得ていないのに、当人の知らないうちにこういうことが起こりうるなんて、どういう社会の仕組みでこんなことが可能になっているのか、不可解でたまらない。
だいたい、助けてくれと一心に願っていたときには誰一人の手も差し伸べられなかったのに、死ぬんだと諦めた途端に、突然、運命が大回転したみたいに劇的な変化が与えられてしまうなんて、この世はどうなっているんだろう。
気配を感じて右を向くと、枕元のすぐ横、目と鼻の先でタカハシが寝ていた。組んだ腕枕に突っ伏しているから頭のてっぺんのつむじは見えるけれど、顔は俯いていてよく見えない。寝息と共に背中が大きく上下している。
ぼくよりずいぶん大きなその体に、いとおしく視線を這わせながら、昨夜は疲れさせちゃったよな、とぼくは反省した。
予定していたデートは邪魔されるし、ぼくの身勝手と怪我と失神に振り回されてほとんど眠れなかっただろうし、ここでは医者からいろいろと言われて神経を遣ったろうし、考えれてみれば気の毒で、心底、迷惑かけて申しわけありませんと頭をさげたい気持ちになった。
タカハシの髪から清涼メントールの匂いが漂ってくる。昨夜のセックスで抱きついたときもなんとなく感じていたんだけど、あのときは興奮しきっていたのでそれどころじゃなかったのだな。
ぼくは、せっかくのタカハシとのセックスを台無しにしてしまったのだ。
自らの狂気的な衝動に任せたまま、ぼくのアヌスの奥底にうごめく悟さんの影を、タカハシを使って打ち消そうとした。そんなこと実際にできるわけがないのに…。
右手を動かして、そっとタカハシの髪の先に触れてみる。さら、と音がしそうなくらいに柔らかで触り心地のいい、長毛種の猫みたいな毛だった。
この人が欲しい、と思うやつがたくさんいるのは本当に分かる気がする。
なによりつらいのは、タカハシにとってはぼくもその大勢の中の一人に過ぎないのだということを、いい加減自覚しなければならないことだった。
それはなんかもう、どうせヘコむだけだから考えたくもないし、そんなことを自覚しなきゃならないくらいならぼくは最初から一抜けします、ときっぱり断言したくなるような、むしろそんな中でだってぼくは頑張っちゃいますからっ、なんて言えるような前向きな男の子ならば、ぼくはここまでいろいろと苦悶してないよな、などと思い始めてめちゃくちゃに心が乱れるので、いまはやめておくことにした。
それにぼくはいまじつのところ、そんな心象的な痛みにかまっている余裕などない状態にあった。
麻酔が切れてきたのか、あの錘 のような体の重さはなくなったものの、反するように背中の真ん中あたりがズキズキと痛んできたし、それよりももっと切迫した痛みとして、ちょっと言いにくいことだけれどなんとペニスの中にものすごい違和感と痛みが押し寄せてきていて、頭が混乱しているのだ。
ちょっとでも足を動かそうものなら、もう、ウワッと声が出て飛びあがりそうになるほどの衝撃をくらう。ぼくは軽いパニックに陥り始めていた。なにがパニックって、ここはぼくが悟さんの鞭打ちの痛みから救い出されてやってきたのであろう場所のはずなのに、なんでまた新たな痛みを与えられていなくてはならないんだという、なんとも納得しがたい、怒りに似た感情がふつふつとわいてくるからだった。
我慢していれば治るのかとも思っていたけれど、時が経つほど痛みは増す一方で、ぼくは観念してナースコールを押した。たぶんこの看護婦マークだろうという、ピンクのブザーを押してみた。まもなく病室のドアが開く。
「あらー、起きたのね?」
二十代半ばと思われる看護婦さんで、可愛い声と明るい表情が印象的な人だ。
「ナースコール押されましたよねぇ? どうしましたぁ?」
予想外に朗らかな声に、ぼくは当惑した。
「ここ」が猛烈に痛いんです、と伝えなければならない。が、若くて美人な看護婦さんを前にぼくはソレをどう表現したものか思案に暮れたのだ。かなりどうでもいいことなのに、すごく悩んでしまった。
「あのぅ…」
口ごもっていると、看護婦さんがタカハシに目を遣る。
「お友達、寝ちゃったね。さっきの検温まではがんばって起きていたのに」
くすっと笑う。
検温? タカハシが…したわけじゃないよな。ぼくはいつのまにか検温までされていたのだ。病院てのはつくづくすごいところだと思う。
「あの、ぼく」
「はぁい? どうしましたぁ?」
「さっきから、尿の出る所が、すごく痛いんですけど…」
かなりマイルドに、でもこれなら分かるだろ、という表現を使ってみた。すごく、というところも強調した。とにかくこの痛みをどうにかしてくださいと伝わるように。
看護婦は目をぱちくりさせる。なるほど、みたいな感じで頷いた。
「ああ、そうね。そろそろ抜きましょうね」
えっ…ヌク?
ぼくは焦った。
じつはこの人はこう見えて看護婦のコスプレをしたソープ嬢かなにかなのかとまた頭が混乱した。
「あの…ヌクって…?」
「そっか。説明も受けてなかったんだもんね、キミ。背中の手術のために、尿管におしっこのチューブが入っているのよ。麻酔のせいで、自分でおしっこができなくなっちゃってたの。だから自然とおしっこが出るようにチューブを入れたんだけど、そろそろ抜いていい時間だから、抜きますね」
もうその「おしっこ」というワードが連発される解説だけでぼくは卒倒しそうだった。…アレにチューブが入ってるだと? 嘘だろ?
「じゃ、今から抜きますね~」
掛け布団をばっと剥がれる。
「エッ? ちょ、でもそんなの、い、痛くないんですかっ?」
「まあ。でも一瞬だから。だって、ずっと入れていたくはないでしょ?」
そう言いながらぼくの足を開いたり、いつのまにか着せられていた浴衣の裾を開いたりしてくれている間も、ぼくのソレは猛烈に痛む。ああ、でもなんてあられもない姿だろう。モロ出しだ。タカハシまだ寝ててよ、と心でお願いする。
「はーい、じゃ、抜きますね~。力抜いてぇ、ハイ息吐いてぇ、ふう~」
「…イ? イッッタ!」
なにこれ。痛い、痛い、痛い、痛い、痛い…。首がのけぞる。
「はい、抜けましたよー。先生からも、もう歩いていいって言われているから、自分でおトイレに行ってね。そうしないと、またチューブを入れなくちゃいけなくなっちゃうから。今度は麻酔なしだから、入れるのすごく痛いよぉ? 特に男性はねぇ」
愉しそうに言う。看護婦ってSだったのか。知らなかった。
「点滴はガラガラひっぱって一緒に連れてってあげて」
では失礼しました~と言い残し、ぼくのペニスから出したチューブを片手に朗々と去っていく。嵐のような看護婦だった。
タカハシは変わらない姿勢で突っ伏し、さっきと同じリズムで背中が上下している。こんなに騒々しかったのに起きないなんて、そうとう寝不足なんだろう、可哀想に。
ようやくひと心地ついた気分で、ぼくは再び枕に頭を静めた。まったく。いきなりこんなにひどい目に遭うとは予想外だった。
チューブを抜くのはかなりしんどかったしいまもまだ鈍痛がするけれど、抜いてもらってとりあえずオマタとアタマがすっきりしたのは助かった。これでようやくなにかを考える余裕が出てきた気がする。
考えなくてはならないことは、たくさんあった。
図らずもちょっとばかり救い出されたような形になっている自分の今後について、想像を巡らせなくてはならないと思った。
これが本当に中途半端なままに、また家に戻されるのだとしたら。
そう考えると、気分がどすんと沈む。
ぼくは再び悟さんの奴隷に戻らなければならないどころか、一度逃げだしたぼくを悟さんは二度と許さないだろうし、むしろ怒りは増長しているだけだから、あの人はもっともっと過酷にぼくから自由を奪い、さらに痛めつける方法を考え出すだろう。
あの低温室でのセックスやしなやかで黒光りする鞭、あるいはそれ以上にぼくを罰するのに適したなにかを使って、ぼくにこれまで以上の苦しみを与えるに違いない。
(だから死にたいのか)
一時的にも自殺を免れたいま、再び自分に問うてみる。
お前は、まだ死にたいのか?
本気で死にたいと考えているのか?
だとしたら、なんのために?
やっぱり贖罪のため?
それとも、そんなものは単に悟さんから逃れたいがための、とってつけた方便なのか?
茫漠とした意識の中で聞いた「児童相談所に」という医者の言葉が現実なら、間違いなく彼らはまもなくぼくのところにやってくる。
両親の殺人事件の後でぼくを悟さんに押し付けた当人である彼ら――児童福祉司、児童心理士、代理弁護士と呼ばれる人たちが、またぼくの前にやって来る。
だとしたらその人たちにぼくは、自分が生きたいのか死にたいのか、悟さんから離れたいのか離れたくないのか、伝えねばならない。
今後どこで、どう過ごしたいのか…。
保護して欲しいのかそうでないのか…。
でも、そんなことを、いまのぼくがどう正しく判断できるだろう。
ぼくはつい数時間前まで本気で死ぬつもりだったのだし、死にたい、死ぬべきだと強く信じきっていた。
お母さんのせいで悟さんが苦しんでいるのならば、ぼくは彼への贖罪として、また自分自身が彼から解放されるためにも、死ぬべきなんじゃないかという気持ちをすっかりなくせたわけでもない。
でも、それでも、もう悟さんの許にだけはけして戻りたくなかった。
それだけは事実、本心だった。
そんなことになるくらいならすぐに死んだほうがましだ。
もういっときだって、あの恐怖に身を置きたくない。どうやってこれまで我慢できていたのかまったく理解できない。それほどに、あのマンション、あのリビング、あの悟さんの部屋には、もう一歩だって近付きたくなかった。
タカハシがひとつ、深く息を吸い込んで、横に首を向けた。
ぼくは首をひねって彼を見た。ふぅ、と大きく息を吐き出して彼はまた眠った。
横顔に斜線を引くようにかかっている髪の隙間から、静かに閉じられた瞼を縁取っている長い睫が見える。
高く通った鼻すじと、少しだけ厚みのある整った唇、美しい曲線を描く男らしい顎。
タカハシはなんて綺麗な顔立ちをしているんだろう。毎晩でも眺めていたいよ。
ぼくは感動すら覚えながら、その奇跡のような寝顔をうっとりと見つめた。もう余計なことなど考えずに美しい寝顔を目に焼き付けていた。
やがて、瞼がぴくぴくと動いたかと思うと、タカハシはゆっくりと目覚めた。
それでも眠たそうに、また、ハァと息をつく。
眉根を寄せた、ちょっと不機嫌そうな顔。寝たりない、という感じ。
ゆっくりと上体を起こし、背もたれにもたれてこわばった首を左右に揺らして、片手で前髪をかきあげる。
その一つ一つの動作を、ぼくは貴重な一瞬一瞬として視界に収め、大切な記憶データとして保存する。
タカハシがぼくに気付いた。途端、その口角があがるのを見て、ぼくの胸が熱く鼓動する。
(好き――大好きだよ、タカハシ。好きでたまらない…!)
魔法の呪文みたいに、それだけですべてが癒されるみたいに、ぼくの心は唱えた。
「なんか、そんな顔で見られると、ヤバい気分になる」
それでぼくはきょとんとする。ヤバいって、どんな気分なのかしらん。
「いま、何時だか分かる?」
タカハシがズボンの後ろポケットからスマホを取り出した。
「十一時」
「もうそんな時間…! タカハシ、学校に行かなきゃ」
「今日は休んでここにいる」
鼻にかかった声と、ぼくへと注がれる柔らかな視線に、つい期待しちまいそうになる。そそるような甘さを、懸命にぼくは意識外へ追いやった。
「だめだよ。今日は合唱コンの日だろ。六年間の最後だもの、あんたは出なくちゃ。練習だってちゃんとしてたんだろ、本番にだって出なくちゃ」
「そうむきになるな。また熱があがるぞ。あんなの、出ても出なくても、どっちでもいいことだよ」
生欠伸をして暢気なものだ。
「でも…っ、ぼくのせいで、休んでほしくないんだよ。合唱コンの最後の思い出、作らなきゃ…!」
ぼくは本気で半べそになった。
だって不良のぼくなんかと違って、タカハシは生徒会長まで勤めた人なのだ。きちんと学校の思い出を作るべき人だもの。
真面目な顔になって、タカハシが答える。あの、たまらなくぼくの胸をくすぐるクールヴォイスで。
「そんな思い出より、佳樹のほうが大事だよ」
――――あ?
やだ。
なんて殺し文句を使う人だろう。
絶句したまま頬が熱く燃えあがる。困る人だ、とことん。
「熱がさがってよかったな」
いえ。いまあがりました。と、返しそうになる。
でも、その言葉で、本当に検温まで起きていてくれたんだと分かってぼくはまた新たに胸が熱くなった。
「タカハシは寝不足だね。ごめん、ぼくのせいで」
ぼくたちの間にある問題は何一つ解決されていないけれど、いまはこの甘やかな時間に溺れていたいと思った。
「そう、ぼくのせい、を連発するな。ぜんぶ俺が好きでやっていることだよ」
なんでこう、ぼくを喜ばせてくれるセンテンスばかり言ってくれちゃうんだろう。やっぱり、ぼくが弱っているから気を遣ってのことだろうか。――まあ…そうなんだろう。
でも、あんまり優しくされると自分は特別だって勘違いしちゃいそうで困る。
そしてそうじゃないと思い知ったときのつらさを考えるだけで、ただそれだけで、ぼくは胸が張り裂けそうになるのだから、あんまり期待させるようなことは言わないでほしい。
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