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第18話

「お邪魔します」  病室のドアが開いて白衣の男が現われた。  四十くらいの背の高い細身の男で、四角い黒縁眼鏡の奥からまっすぐな視線をぼくに遣す。 「ナースからお目覚めになったと聞いたので…。挨拶が遅れました、橘(たちばな)です、昨夜、あなたの外科手術を担当しました。あなたの場合、ちょっとケースがケースなだけに、早急にお話しないといけないことがいくつかありましてね。お疲れのところ申し訳ないし、嫌な気持ちになるかもしれないけど、我慢して聞いてください。ええと、救急隊によると、あなたの財布に保険証があったそうで――名前と年齢は、これであっていますか?」  ぼくのことがいろいろと書かれているらしきプリントを見せる。 「はい」 「昨夜は、どうやってここに来たか覚えています?」 「いいえ…」 「救急車で来たんですよ。彼が通報してくれましてね」  「彼」のところでなんとなく他意のありそうな視線をタカハシへと送り、すぐにぼくに戻す。 「連れて来られたときの症状をお話しますと、背中の切り傷と打ち身がひどいのはご自分でも分かっていたと思いますが、CTの結果、脊椎と肋骨の複数箇所に亀裂骨折が見つかり、緊急手術をおこないました。脊椎は中を走る神経を傷めるとたいへんなことになるので、保護用プラスチックをあてがう手術をしたんです。それにしても、こんなにたくさんの骨折をしていて、かなり痛んだでしょう? いまは胸部にギプスをはめている状態ですが、もう歩いたりしてもいいので。ただし骨折の場所が場所なので、あまり激しい運動は控えてください。それから血液検査の結果ですが、血球数が減少気味なのが気になるのと栄養失調の症状があって、これは点滴で様子を見ましょう。連れて来られる原因となった失神ですが、過呼吸が原因と考えられます。心療内科の診察を予約しましたので、のちほどナースに日にちと時間を伝えさせますね。それで、こういう状況でたいへん言いにくいことなのですが」  と、いったん言葉を切る。 「あなたには被傷害の疑いがあります。つまり、第三者から暴行を受けた疑惑です。となれば医師として警察への通報が義務化されておりますので、昨夜のうちに通報しました」  ――通報。 (ああ…)  呆然と医者を見あげた。やっぱりこうなってしまうのかと、苦い蜜を吸ったみたいな気分になった。 「なにか質問はありますか?」 「…いえ」 「警官が来ましたので、あなたの症状を伝えましたところ、彼、高橋さんも聴取を受けられて」  また、チラっと、まるで見てはならないものを興味半分で見るような奇異のまなざしでタカハシを見る。 「あなたにもこれから警察の聴取を受けていただいて、児童相談所へ連絡をとろうと思っています。あなたの場合は骨折の場所が場所なので、少なくとも二週間程度の入院が必要となります」 「はい…」  ぼくは数時間前に混濁した意識の中で考えたことを反芻した。 (病院に来たくなかった――なぜなのか――)  その問いの答えが、いま医師の言葉となって具体的な形で次々と提示されるにつれ、気分が塞いだ。  こんなふうになるのが嫌だった。  こんなふうに大袈裟な、おおごとな、入院、警察、児童相談所、そんなのが厭わしかった。だって、その先に来るものは? 悟さんはどうなる? ぼくの行きつく先は…?  行きつく先は、施設だろう。それがどうというわけではない。けれど気持ちがそういう現実にまったく追いついていないのだ。  医者が出て言ったあと、ぼくはタカハシに訊ねた。 「昨夜、あの先生と話してたね?」 「聞こえたのか?」 「うん。少しだけ。なにを話したの?」 「佳樹の治療に必要なことだよ」  タカハシは顔色一つ変えず、落ち着いて答える。  タカハシは大人の男だ。ぼくのほうは不安で不安で、心臓が圧し潰されそうなのに。  ぼくはすがるようにタカハシの手を握った。 「もしかして、話たりした? 昨夜の、ぼくたちのこととか」  ――いいや、話してないよ。という返事がほしかった。なのに。 「ああ、話した。どういう状況だったのか、訊ねられたから」  心臓を鷲掴みされて、捻り潰された気分だった。まったく、どれだけ迷惑をかけているのだろう、ぼくは。 「ごめん。嫌な思いをしたろ?」 「別に…。俺のことより、いまは自分の体を治すことだけを考えろ」  諭すように言う。でもいくら飄然としたタカハシだって、男の後輩とのセックスを医者に伝えるのはとても気まずかったろう。  そろそろ本格的に自己嫌悪に陥りそうだった。ぼくは昨夜、とことん自分のことしか考えていなかったのだと痛感した。  男性の警官が入ってきた。  制服を着て髪を短く刈りあげた三十くらいの、型どおりのおまわりさんだった。 「宮代佳樹君?」  ぼくはベッドで横になったまま頷いた。警官は鋭くタカハシを見る。 「すみませんが、席を外してもらえますか?」  視線と同じく棘のある響きだった。  頷いたタカハシが部屋を出て行き、ドアが閉まり、警官と二人だけの空間になって、ぼくの胸にはタカハシの不在による寂しさと不安が押し寄せた。  ――そして欠乏。  ぼくの凹みを満たしてくれていた、温かなカバーの欠乏。  剥き出しにされる、ぼくの癒しがたい闇――――。 (怖いよ、怖い…)  助けて、タカハシ。  ずっとそばにいて。ぼくから離れないでよ――――。  甘ったれたぼくが彼を求めて叫ぶ。  警官は警察手帳を見せ、自己紹介した。 「それでは背中の傷について、お聞かせ願います」  ぼくはといえばもうすでに、なにもかもをほっぽり出して逃げたい気分になっていた。  つい昨日まで、こういう筋書きになったら絶対に面倒だとなんとなく思っていたことが次々と現実になっている。  「医師の診断によると、その背中の傷は第三者によるものだそうです。その記憶はありますか?」 「はい」 「では単刀直入にお訊きしますが、それは誰からされましたか?」 「――――」  はいと即答してしまったことを後悔した。 『叔父です』  そう答えることは簡単だし、それがいま一番、なすべき正しいことなのだろう。それはぼくにも分かっている。でもいまのぼくには、あまりにもいろんなことが一気に押し寄せていて、なにをどう、どこまで伝えるべきなのか、自分のなかでまったく消化できていない。 (もしここで悟さんのことをぶちまけたら、彼はどうなってしまうのだろう)  まるで安っぽい刑事ドラマみたいな筋書きで、ぼくなりに考えてみる。  彼が警察に捕まるとして。例えば傷害罪みたいな罪で。  そうしたらどんな刑罰を受けるのだろう?  罰金いくら? 執行猶予何年? 懲役何年?  もし懲役を食らったところで、悟さんはその先何年も塀の中にいるわけじゃないのだから、何ヶ月だか何年だかぼくは法律に詳しくないから分からないけれど、おそらくそれほどの長期間ではなく戻ってきて、執念深い彼の中で、ただひたすらぼくへの憎悪が積み重ねられていたとしたら?  ぼくへの復讐などというものに彼がしつこく執念を燃やし続けて、その機会を覗うようになっていたとしたら?  なんといっても彼は十七年もの間、お母さんへの憎しみを忘れずに、子供のぼくへとこうやって怒りを吐き出している人なのだ。絶対に執念深いに決まっている。ぼくはずっとそれにびくびくして暮らさなきゃならないんじゃないか…?  なにをどう答えたらよいのか分からずにいたぼくだけれど、おそらくただダンマリを決め込んでいるようにしか見えなかったのだろう。語気を強めて、警官が続けた。 「では質問を変えます。きみはいま、ご両親と同居されていますか?」  その愚問に、ぼくはちらりと警官に目をやった。  この警官はぼくの名前を知っているくせに、ぼくの両親の事件のことも調べずにのこのことここへやって来たのだろうか。それともこれは、それを知っていての誘導尋問なのか? 「いいえ」 「では、どなたと同居されているのですか?」 「叔父です」 「二人暮し?」 「はい」 「その人が、きみの保護者ですか?」 「はい」  不愉快だった。走りたくないレールに引っぱっていかれる機関車みたい。 「いいですか。本当にこれはとても大事なことですから、正直に答えてください。この件に関して、我々は考えうる限りのさまざまなケースを念頭に入れています。その中で、どれが事実なのかをこれから精査して判断しなくてはなりません。だからあなたには、虚偽なくあったことをすべてお話していただきたいわけです。あなたにこのようなことをした人物については、身近な人や、あなたと接触した人物、一人一人を疑わなくてはならないわけです。とくにあなたは、裸でお友達の家から運ばれてきたのですからね」  その言葉に、ぼくは突然、鋭いものを胸に突きつけられたような感覚がして、愕然と警官を見あげた。  警官は真面目な顔つきで頷いた。分かったでしょう、というふうに――――。  バカなぼくはそれでようやく気付いたのだ。タカハシが疑われているってことを。

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