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第19話

「あんた、なに言ってんの…? 彼のはずがないだろ…?」  警官をきつく凝視したまま、ぼくは低く唸った。 「タカハシがこんなこと、するわけないだろ?」  猛烈な怒りが炎となって血液を滾らせ、体内をじりじりと焦がす。  タカハシを疑うなんて許せない。彼はぼくのとても大事な人、これ以上にないくらい、ぼくが愛してやまない人なのだから…! 「アホみたいな誤解、してんじゃねぇよ」 「じゃあ、誰なんですか?」  間髪いれずに警官が口を開いた。 「きみはまだ未成年ですし、我々としてはいま、保護者への連絡が必要な段階にあるわけです。ただ、きみには傷害を受けているという診断が下されていて、それが見知らぬ人間からなのか、それとも友人からなのか、万が一にも保護者からなのか、そのケースによって対応が迫られてくるわけです。被害者であるきみが犯人を言ってくれなければ、とりあえず我々としてはこれからきみの保護者に連絡を入れるしかないのですが、それでも大丈夫ですか?」  さすがにここまで理路整然と現状を説明されては、ぼくも二の句が継げない。  いまから悟さんに連絡がいくとしたらそれまでだ。あの恐怖に耐えきれずに、ぼくは近いうちに間違いなく死を選ぶだろう。  ぼくは選ばなくてはならない。  後か、先か。  死か、生か。  従順か、裏切りか。  誤魔化して後退するのか、真実を話して前に進むのか…。 (教えて。誰か)  ぼくには判断できない。なにが正しくて、なにが間違っているのかなど。  喉につかえているものは、ぼくの悟さんへの肉親としてのわずかばかりの慕情なのだろうか。それとももう得体のしれない、自分でも持て余しているようなぼくのなんらかの「こだわり」にとりつかれているせいなのか。 「でも。タカハシじゃない。タカハシにやられたんじゃない。それだけは、本当に…」  ぼくはかぶりを振りながら警官に理解を請うた。警官の視線が険しくなる。 「彼からは今朝がた、お話を伺っています。あなたの背中に傷があるのに気付いたのは夜中過ぎで、その前に恋人としてあなたを抱いた…つまり、そういうことをした、と、おっしゃっていましたよ」 「エッ?」  自分でも驚くほど大きな声を発していた。警官がうろんげに顔をしかめる。 「違うんですか?」  今度こそどう答えればいいのか分からなくて、ぼくは口を噤んだ。  なぜタカハシは、そんな嘘をついたのだろう…。  いや。ぼくの治療のために昨夜のセックスのことは医者にも話したらしいし、ここまできてそのことについて嘘をついてもしょうがないと彼が考えたのは、理解できる。 (でも、恋人って…?)  それはやはり、ぼくに気を遣ってのことだろうか。  つまり優しいタカハシのことだから、宮代に言い寄られてしかたなく抱きましたとは他人に言いにくくて、恋人という設定を善意で使ってくれたのだろうか。ぼくが恥をかかないように、タカハシが自分で恥をかぶってくれて…。 「どうなんです?」  警官が問い重ねる。ぼくはどう答えたものか戸惑った。でも、こんな誤解をされたままではいけない。 「彼はこうも言っていましたよ。自分がずいぶん乱暴にしてしまったので、骨折を悪化させてしまったかもしれない、と」  その言葉で、一気に血の気が引いた。  それじゃまるでタカハシが加害者みたいじゃないか。ぼくは警官にたいして目を剥き、夢中で弁解した。 「それは、違います! 昨夜のは、ぼくが抱いてって彼に頼んだことなんだから! 乱暴にしてって、ぼくが頼んだんです! もっと強く抱きしめてって、ぼくが、彼にお願いしたんです! タカハシへはぼくの完全な片想いだけど、でもどうしても彼に抱いてほしくて、ヤってって言って無理に抱いてもらったのは、ぼくなんです! それにぼくは、彼の恋人ではありません! ぼくがむりやり、恋人でもない彼にさせたんです! だから悪いのはぼくなんです! 彼じゃありません!」  ぼくの突発的な勢いに気圧されたのか、警官は唖然としてしばらく口ごもってから、「はあ…」と困ったように頷いて生返事をした。ぼくの熱意は彼の上を無為に通り過ぎたようだった。 「では話を元に戻しますが。それならばいったい、その背中の傷は誰からつけられたものなのですか?」  ぼくは再び口を閉ざした。いましがた饒舌にタカハシを庇ったぼくの舌は、急にどう言うべきかを見失って上顎へとへばりつく。  …ああ――どうしたらいい。  まさに、逡巡だった。  でもここで告げなれば、悟さんが呼ばれて、ぼくは悟さんの許に返される。それは嫌だ。それだけは。  それだけは、もう、絶対に耐えられない――――!  ぼくは決心した。  自分を真に救えるのは、自分以外にない。 「叔父です」  ようやく、出た。  この言葉が。  冷たい音となって。 「叔父さん」  警官が確かめるように繰り返す。メモにペンを走らせる。 「なにを使われたのかとか、分かりますか? どういう物なのか、とか…」 「鞭です。黒くて、固い…幅広の――」  告げ口みたい。せんせえ、悟くんがぼくをぶちましたぁって。だからぼくは被害者なのにものすごい罪悪感だ。あんたにこの気持ちが分かるかな、おまわりさん。苦虫を何百匹も噛み潰して、咀嚼しているようだよ。まだウゴウゴと蠢いている虫たちをさ。ぼくはたったいまも口の中で噛み砕いて飲み込んでいるんだ。でもぼくは自分を救うためにこの苦杯を飲むとしよう。反吐が出そうな、この苦杯を。 「いつ、どこで?」 「二回されました」  さようなら。  悟さん。  願わくば、もう二度と、あなたと会うことのないように――。 「そうですか。それぞれについてお聞かせください」 「一度は…」  そう。タカハシの家から帰ったその夜に。 「土曜の夜でした」 「ついこの間の?」 「はい」 「どこで?」 「彼のマンションの、彼の部屋で」 「つまり、あなたのおうちですね」  ぼくの思考が、一瞬止まる。 (――ぼくの、うち?)  そうか。あれでもぼくの家だったのか。 「はい」 「どのような状況だったのか教えていただけますか? できるだけ、詳しく」  警官と言葉を交わすにしたがって、心が氷のように冷たくなっていくのを感じた。冷たく、冷たく、凍ってゆく。これまでのわきたった思考が枯れ、死んでゆくのが分かる。  もう庇うまい。誤魔化すまい。悟さんも、ぼく自身も。 「彼のベッドの上で、セックスをしながら…」 「しながら? セックスをしながら鞭打たれたのですか?」 「はい。そうです」 「言いにくいかもしれませんが、もう少し、詳しく…」  それこそ言いにくそうに続ける。 「ぼくが四つ這いになって、彼はぼくの背後からぼくのアヌスに彼のペニスを入れていたんです。男同士では、そういうのをセックスって呼ぶんじゃないんですか?」  ぼくは警官の上に冷めた視線を置いた。警官が困惑したように頬に朱を刷く。 「それは、むりやり、でしたか?」  その質問に、今度はぼくの思考が躓いた。  …むりやり?  ああ、そうなのだろう。彼とのセックスの始まりは、間違いなくそうだった。 (でも、本当に、それだけだろうか?)  分からない…。  違うのかもしれない…。  だってぼくは「感じた」じゃないか。  そうだ、ぼくは感じていた。悟さんとのセックスは痛いばかりじゃなかった。それはほんのわずかの時間ではあったけれども、ぼくは彼のペニスによって快感を得、善がり、身悶えて。…事実、イっていたのだから。ぼくはそれほどまでに色魔なのだから。 (分からない)  あれがむりやりなのかどうかなんて。少なくとも「同意の上」ではなかったにしても。 「ぼくには判断できません」  仰天したように警官が目を瞠る。しばらくたって口を開く。 「では、二度目のこともお話いただけますか? いつ? やはり自宅で?」 「次の日の昼間です。たぶん三時ごろ。彼の職場の、低温室で」 「低温室?」 「寒い部屋です」  死ぬかと思うほど。  警官が絶句した。  吐き出すのはつらい。  つらいけれども、なんて軽くなるのだろう。まるで胃の中の消化しきれなかった、ただただ胸を苦しくさせるだけの食べ物を嘔吐するみたいに。  吐き出してしまえば、それだけぼくは軽くなる。嘘みたいに、こんな赤の他人の警官に話すだけなのに、信じられないくらいにぼくの心は楽になっていく。  ぼくの目から、堰をきったように涙がこぼれた。  次々と溢れ、横になっているから目尻から耳を濡らし、髪を伝って枕へと流れてゆく。 (ごめんなさい、悟さん…)  心の中でぼくは謝る。  ぼくばかりが軽くなってごめんなさい。  ぼくばかりが、こんなふうに楽になってごめんなさい。  ぼくばかりが救われようとして、ごめんなさい。  あなたはまだ苦しんでいるのに。やるせない憤怒と、ぼくにしかぶつけることのできない苦悩を抱えて、そんなふうに苦しんでいるあなたを、ぼくは母と同じように裏切り、見捨て、警察に差し出そうとしている。 「どうしたんですか?」  ぼくが泣き出したので不審に思ったのだろう。警官が怪訝そうな声をあげる。 「ぼくの気持ちなんか、あんたには分からない」  涙と共にわいてきた唾を飲み込み、目を閉じて答えた。これもまたれっきとした八つ当たりだろう。でも許してほしい。憐れな高校生のたわごとだと聞き逃してほしい。この涙は、ぼくの悟さんへのせめてもの謝罪。彼への鎮魂歌なのだから。 「ああ――、そうだね…」  警官は静かに頷いた。

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