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第20話
今から児童相談所と学校に連絡を入れて、明日また来ます、と伝えて警官は出て行った。
ぼくはまたしばらく天井を見つめ、いよいよぼくも施設への道を歩み始めたなと自覚する。
数ヶ月前、お母さんが逮捕されたときも引き取ってくれそうな親戚は悟さん以外にいなかったのだから、今度こそぼくは福祉の世話になるしかない。まあ、それでもいい。それが本来のぼくらしい在りかただ。
ようやくの思いで体を起こした。トイレ行かなきゃな。またあんなの入れられちゃかなわねーもの。
背中は打撲の痛みというよりは、術後の切られた痛みのほうが強くなっている。
タカハシはなかなか戻ってこない。お昼でも食べに行ったのか、それとも、やっぱり学校に行く気になったのか。
トイレから戻ったぼくはベッドの端に腰掛けて、腕に刺さった点滴の針をなんともなしに眺めた。ぼくの気持ちを置き去りにして、時間だけがどんどん過ぎていく。
でも物事が進むときというのは、往々にしてこういうものなのかもしれない。
こちらの気持ちなどおかまいなしに、出来事ばかりが先へ先へと進む。いつのまにか頼りない筏 に乗せられて潮流に放り出されているような、自分ではどうしようもない渦潮に巻かれてひたすら呑み込まれていくような、心許なさ。
(あのときだってそうだったじゃないか?)
母が父を殺し、警察だの区の職員などが来て、他に引き取りてのないぼくは悟さんに預けられた。
引き取られたその日の晩に、ぼくは力ずくで彼のものにされた。でも心と体の痛みにいくら泣いて叫んだって、誰も助けになど来てはくれなかったじゃないか。
(なんて孤独だろう)
人間なんてものは所詮突き詰めれば誰だって孤独なのだろうけれど、でもたった一人引き取ってくれた悟さんからはあのような仕打ちを受け、まして他の親戚からは引き取り自体を拒絶されたくらいに、そんなにもぼくは要らない人間なのだろうか。そんなにもぼくは忌避されるべくして存在し、だれからも欲せられず、愛されずに生きなきゃならないのだろうか。
(寂しい人間だ、ぼくは)
もっともこんなことをいちいち考えてペシミズムに陥っているなんて、ぼくはただの甘ったれなのだろう。世の中にはもっと不幸な目に遭ったり大きな病気のもとでも、必死に希望を見出して生きようとしている人たちがたくさんいる。自らの不幸にばかり目を向けているぼくは、だからこそいっそう無価値な人間に成りさがっているに違いない。
感覚は侘しく浮遊する。
どこまでも、どこまでも。
分かってる。
タカハシがいないのが寂しいんだ。ぎゅっと掴んだあの手のぬくもりが恋しくてならない。
ぼくはいまこのときも、タカハシを欲していた。ひとりではもう、どうにもこうにもだめな気がした。
それでも警察の連絡から一時間も経たないうちに担任と教頭が来たのには驚いた。
揃って悲壮な顔つきをして、これまで虐待に気付けずにいてすまないと何度も謝罪し、今後は児童相談所と警察と協力してきみを全力で支えてゆくから、と力説した。今日はこれ以上は疲れるだろうから、明日また寄りますからね、と言い残して帰っていった。
なにをそんなに謝るのだろうとぼくは不思議でしかたなかった。だって、ぼくがひた隠しにしていたのだもの、知らなくてあたりまえだろ。だからなんとなく、この謝罪はなにかしら問題が起きた場合の彼らなりのテンプレみたいなものなのだろうと理解した。別に心がこもっていないとかじゃなくて、そういう型どおり、なんだろうなと。まったくかわいげのない生徒だよな、うん。
まもなく児童福祉司も来た。
塚原と名乗る五十くらいの小太りのおじさんで、とりあえず今日は顔見せだけで、医師と警察から詳しく話を聞いてから、また明日以降来るからね、と、人懐こい笑顔を浮かべて病室を出て行った。
明日以降、ぼくは忙しくなりそうだ。なんか嫌だな、めんどくせーよと、薄らぼんやり考える。
施設に入るなら入るで面倒なことなしにとっとと入れてほしいんですけど、と言いそうになる。なにを偉そうにだよな、つくづく。
せっかくぼくのために来てくれたそういう大人たちに向かいあってなお、ぼくは出ていってしまったきりのタカハシにばかり思いを馳せていた。
座っているのも疲れたので再びベッドに横になると、ずっと枕元にいてくれたタカハシの不在がより顕著になって、いっそう寂しさが募る。
そして自分で自分が可笑しくなる。――なに、本気になってんの、と。
忘れちゃならないよ。
タカハシはぼくのものじゃない。
どんなに彼が親切だろうと、どんなに彼が甘い言葉を使おうと、現実には、ぼくは彼がセックスをしたたくさんの相手の一人。たまたま、そのあとで失神しちゃっていろいろとお世話になっちゃって、加えてとんでもなく厄介をかけてしまっただけの、ただの後輩。
なのに、なにをぼくは、いつのまにこんなにも、彼を愛してしまっているのだろう?
なんでこんなにも彼に依存してしまっているのだ。
ここでまた、泣きそうになる。
ほんとに泣き虫だな。自分で自分が嫌になる。でももう泣くまい。泣いたってしょうがないんだから。泣いて状況が良くなるってんなら、みんな泣いてるよ。
ぼくは、ぎゅっと唇を噛んだ。
静かにドアが開いた。タカハシだった。もう病院にはいないと思い込んでいたから、ぼくは心底びっくりして目を見開いた。
「タカハシ…!」
「どうした?」
飄々と答える。ああ、タカハシだ。
起きあがろうとすると、急いで近寄って助けてくれる。ぼくは体育座りになって、タカハシはベッドサイドの丸椅子に座った。
「戻ってくれてありがとう。もう帰っちゃったのかと思った」
「ラーメン食ってきたんだよ。病院だからかな、薄味だったけど、ダシが利いていて旨かった。次は一緒に行こう。最上階の食堂でさ、屋上にも出られて気持ちよかったぞ。日よけの屋根もあってさ、気持ちよすぎてベンチで居眠りしちまった」
「うん」
そうだよね。タカハシ、今日はめちゃくちゃ寝不足だもの。
タカハシがいてくれるだけで、病室がぐんと明るくなった気がする。冷房に冷やされて沈んでいた白い壁までが、喜んで頬を染めているみたいだ。
「途中のロビーで塚原さんと警官に会って、また少し話してきた」
「そう」
迷惑かけて、ごめん。もう何度も言われるのさえ鬱陶しいだろうから、心の中で謝る。
「おまえ、警察に嘘をつくなよ」
突然そんなことを言うから仰天した。
「どんな嘘、ついてた、ぼく?」
なにを警官に話したっけ。なにかタカハシを怒らせるようなことを言っちゃったかな。なんだかもう、あまりよく思い出せない。そうだ。悟さんのことをチクったんだよ、とうとう。苦虫を噛み潰しながら。
タカハシが低い、漏れた吐息のような声で静かに答えた。
「俺は恋人として佳樹を抱いたんだけど」
それでぼくの呼吸が止まった。
ゆうに三秒くらいは、軽く。
「嘘」
勝手に言葉が飛び出す。
「そんなの、嘘だ」
体温が変わる。でも冷えていっているのか熱くなっていっているのか、分からない。
「なんで嘘だって思う?」
落ち着きはらった調子でぼくの顔を覗きにくる。それでぼくはちょっと呆れる。…なんで、って。理由はたくさんありすぎだよ、先輩。
「あんたはいまきっと、ぼくに同情してるだけなんだ。怪我して、病気かもしれなくて、虐待されてて、可哀想だって同情してるだけなんだ。そんなの、恋って呼ばないんだよ?」
タカハシが眉をひそめる。
「同情? そんなのと好きだって気持ちを、俺が混同すると思っているのか?」
思わぬ反論に言葉を失う。
そりゃ、ぼくなんかに比べたら何倍もタカハシのほうが恋愛には詳しいんだろうけど。…だけど。でも。
「でも。ぼくはあんたが男とセックスをしているのを、つい先週見たばかりなんだよ? 昨日だって他のやつを家に連れ込もうとするのを目撃したしさ。しかもあんたは、彼にぼくのことをただの後輩って紹介したんだよ。それに、この間はあんたが教えてくれたんじゃないか。もう十人以上とセックスしてるって。誘惑に弱くて、可愛いやつから誘われたら断れないんだって、あんたがぼくに教えたんじゃないか。それなのに、昨夜はぼくを恋人として抱いたというの? そんなの、信じられないよ。どう信じろっていうの。じゃあ、あんたにとって恋人ってなに? あんたは、誰でもすぐ恋人にしちゃうの? でも、ぼくは少なくとも、そんな軽々しく自分のことを恋人だって呼んで欲しくはないよ!」
ぼくはまくしたてた。タカハシは顔色一つ変えずにぼくを見つめている。
「それにぼくは、そんなに期待してないんだよ、タカハシ。あんたの恋人になろうとか、これ以上あんたとどうこうなろうとか、全然、考えていないの。そりゃ、あんたのこと本当に、狂いそうなくらいに好きだよ。でも、もういいと思っているんだ。一度だけ。一度だけで、充分だったんだ。一度だけ、あんたに抱いてもらえさえすれば、ぼくは諦めて、心穏やかに――――」
死ねる、と。そう、思っていた。
「だけど、こんなふうに中途半端に期待させられている方が、何倍もぼくには酷なんだよ。なんでぼくにそんなに優しくするの? ぼくが可哀想だから? 不幸な境遇だから? だけど、そういうのがぼくにとっては一番つらいの。だって、同情で、可哀想だと思われて優しくされて、好きだなんだと勘違いされるのは、一番、嫌なんだ。だってそれはぼくじゃないんだから。ぼくの魅力なんかじゃないんだから。そんなのはすぐに心変わりするだろ? その方がずっと、ぼくには耐えられないんだよ…! そんなんで、傷つきたくはないの。だから、お願いだから、そんなに期待させないで。…もういい。もう、いいから。ぼくはもう、充分に、多すぎるくらいに、あんたにしてもらったんだから。だから、もう、そんなに…」
ぎしっとベッドが鳴り、顔が近付いてきた。
はっとするまもなく唇を塞がれ、優しく食まれた――甘いリズムを刻むように――――。
途端に、涙が盛りあがる。だめだ…泣いちゃ…。
「嫌だ」
背けた顔を、タカハシが追いかけてくる。手でぼくの後頭部を押さえ、無理にでも唇を重ねようとする。ぼくは目一杯に唇を引いた。
「ぼくは、信じないよ…!」
ぼくはそれほどバカじゃない。信じるものか。タカハシがぼくを好きだなんて。そして絶対に泣くものか。これ以上、同情されないためにも。
力で負けて唇が重なる。ディープじゃない。ただ、強く押しつけられるだけの。
「ん! ん! ん!」
泣きそうな声で非難の音を洩らした。それでようやく離れる。
ぼくは息を荒げて、ほんの近くの唇を見つめた。その唇がゆっくりと開いて、呟く。
「それでも好きなんだ、佳樹」
呻くような、ようやく声帯を押し開いて出てきたような、苦しげな声だった。タカハシはひたむきな目をしていた。
「おまえがいま言ったことの一つ一つに言い訳ができるなら、それに意味があるのなら、いくらでもそうする」
ぼくは、その顔を睨みつけた。
「言い訳なんかいらないよ。ぼくが欲しいのは、あんたの本心だもの。こうやってぼくを可愛がってすぐに飽きるんなら、いまのうちからそう言って。ぼくもそのつもりでいるから」
タカハシのまなざしが険しくなる。
「そんなわけないだろ」
「嘘」
「なんでそう、うそうそって言うかな」
信じろって言う方が無理だ。ぼくは恨めしく見つめ返した。反して、タカハシの瞳は次第に甘い光を帯びてゆく。ぼくの抗えない色に染まってゆく。
「おまえが好きだ。これが俺の本心だよ」
だからぼくは。こんな甘言にほだされて。
身も心も蕩けそうになって。
胸が苦しくて。途方もなく嬉しくて。
タカハシが唇を重ねながら囁く。こぼれた言葉が息となって、ぼくの体を侵そうとする。
「好きなのは佳樹だけだ。これからはもう、おまえ以外、誰とも付き合わないから」
ほら。やっぱり言い訳に聞こえなくもない。
でも。それがなんだっていうのだろう。
言い訳を言ってくれているんだよ。ねえ。ぼくのために。ぼくなんかのためにさ。そうは思わないか?
言い訳は嫌だって、言い訳なんかするなって偉そうに罵るぼくに。こんなふうに、真剣に言い含めてくれているんだ。
何度も唇を食 みあい、心地よさに目を閉じた。
抗えない。
好きだ。
好きでしょうがない。
もうたまらないくらいに。
その思いでいっぱいになる。
「愛してる。俺の恋人になれ。な?」
懸命に口説いてくれる。嘘みたいな幸福に酔いしれた。
これまでタカハシが何人にこの言葉を使っていようとも。いまは、いまだけは、ぼくだけのものだ。
唇が濡れそぼっていく。唇の合間から舌がぼくの舌を求め、味わおうとする。
タカハシの手がぼくの手を探り当てて強く握る。
「大事にするから。ずっと」
この最高の約束が、いつか壊れようとも。
二人の唾液が唇をびしょ濡れにして、溢れて顎へと伝うのを感じながら、ひたすらキスを続けた。
吸い付くたびに卑猥な音がして、それがなんだかいやらしくて、感情と欲望がどんどん高まっていく。腰のあたりが熱く疼きはじめる。吐息に吐息が重なり、昂りながら唇を貪りあって、さらに乱暴に舌を絡めあった。
「なんで――? なんで、ぼくなんか…?」
そんな問いもタカハシの唇が奪い去る。
乱れ定まらない思考もひと呑みにしてしまうような、力強いキス。
突然、ドアが開いた――――。
「点滴を…え? あッ、ごめ~ん!」
ピンクが声をあげる。ぼくたちは弾けるように体を離した。
「…ちょぉおっと、ごめんねぇ~。点滴の様子だけ、見させせてね~」
サササと近付いてきて、点滴の袋をなにやらいじっている。ぼくは火を噴く顔で、慌てて俯いた。
「お邪魔してごめんね~」
むしょうに愉快そうな声をあげる。ぼくの腕も手にとって、点滴の刺されている部分に異常がないかを確認する。
見られた。信じられない。恥ずかしくって顔をあげられない。
タカハシはどんな顔をしてるだろう。タカハシのことだから平然としてたりして。
「お邪魔しましたぁ。どーぞどーぞ、続きして! アハ、ホント、ごめんごめん」
歌うように言い残して去ってゆく。
ぼくは、ちらっとタカハシを見あげた。余裕綽々で笑っている。さすがだ。
ぼくも思わず笑ってしまう。唾液だらけの顎と唇を手の甲で拭いた。タカハシがまた体を寄せてくる。
「まだ、するの?」
「もちろん。もっともっと。全然足らない。すごく嬉しいから。だってこれ、俺の初めての両想いだから」
またまた仰天する。
初めての両想い…? そんなわけないくせに。うまい嘘、つかないでほしい。
「おまえだけだ」
ああ、また、あの声だ。
ぼくの心を掬うようにあっというまに奪ってしまった、深くて、優しい、ぼくの大好きな声。
再び唇を重ねられた。
その言葉を信じたいよ。
そして、生きたい。
あなたを信じて、あなたと生きていきたい。
ぼくを抱こうとして背中に回った腕が、そこの傷を思い出したようにためらいがちに動いて静かにおりた。
代わりにぼくが彼の背中に腕を回す。体温と共にぷんと学ランの匂いがする。頬にタカハシの柔らかな髪をくすぐったく感じた。その耳元で囁いた。
「治ったら、たくさん、抱いて」
「もちろん。今度は、大切に抱くから」
そしてぼくのバラードが消えてゆく。
ずっと遠い空へと。
ぼくの中で悲しみと苦しみを奏でていた、あのバラードがとけてゆく。
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