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第2話

 俺が生まれた鷲族の村は、高山の断崖絶壁にはりつくようにして、螺旋を描くように高所へ伸びている。鷲族は鳥の中ではもっとも保守的で、伝統を重んじるとされる種族だ。文明が進もうがなんだろうが、鷲族は断崖絶壁を好む。  いちばん下の家から長老の暮らす最上部の家までは目が眩むほどの高低差があり、雨風にさらされた細い道を徒歩や荷車で登るのは獣なら危険と隣りあわせだ。ところが鳥の種族にとってこれはほとんど問題にならない。鳥の姿になって飛んでいけばいいし、鷲族は人の体を保ったまま、腕だけを翼に変えて飛ぶこともできる。  ふつうの鷲族なら。  ふつうの鷲族は、近くも遠くもよく見える目を持って生まれる。鳥の姿に変身すれば、大空を舞いながらも地上の獲物をみつけられるのだ。  あいにく俺はそうじゃなかった。  俺の翼に欠陥はなかった。でも生まれつき視力が弱く、他の子供のように飛ぶことを覚えられなかった。  大昔は俺のような子供は長く生きられなかったらしい。文明のなかった野蛮な時代には、できそこないの雛は長老の命令で岩山から突き落とされていたという。  でも、今はそんなことをするのは野蛮だということになっている。それに俺の場合は、人の姿に変われば眼鏡で視力を多少は矯正できた。  村を訪れた検眼師に最初の眼鏡を作ってもらったとき、世界はこんなにまばゆく、くっきりしたものかと驚いたものだ。それでも眼鏡をかけたまま空を飛ぶのは恐ろしくてできなかったし、鷲の姿でかけられる眼鏡なんて町にも存在しなかった。結局俺は翼で飛ぶ方法を教わりそこね、そのまま成長した。  山の頂上近くには鷲族の寄り合い所がある。翼でなければ行くことのできない場所だ。ここにたどりつけない者はまっとうな鷲族とはみなされない。厄介者として蔑まれながら、人の姿で村の下働きをやりつづけるか、それが嫌なら山を下りて出稼ぎに行くしかない。  十五歳のとき、俺は後者を選んだ。だから秋から春のあいだは都市の工房に住みこんで働いている。  幸い、俺は人の姿になって眼鏡をかければ、かなり手先が器用な方だった。それに鷲族は鳥の中でもいちばん鼻がきく。工房では俺はそれなりにちゃんとやれていると思う。でも、俺が働く都市には鳥の種族があまりいなくて、道でみかけるのはせいぜい鴉くらいだった。  おなじ鳥なのに、俺は鷲族とおなじくらい鴉族が苦手だった。眼鏡をかけている鳥が珍しいのか、鴉の連中は徒党をなして俺をからかいにくるからだ。山を離れて最初の年、鴉の襲撃に俺はすっかり参ってしまい、翌年からは狼族が統治する地区で働くことにした。鴉と狼は仲が悪く、狼の地区に鴉は近寄ろうとしないし、工房にいる鳥の種族は俺だけだった。プライドの高い白鳥族は手先を使う仕事なんかしない。  鴉にさえ会わなければ、俺は都市がけっこう気に入っていた。働くうちにやれることも増えたし、ちゃんと働けば嫌われることもない。でも他の種族の誰かと特に親しくなれるわけでもなかった。  夏の休暇が来て故郷の山に帰るとき、最初の一、二年、俺はすこしだけ期待した。俺はちゃんと稼いでいたし、多少は村の仲間に認められるのではないかと思ったのだ。でもそれは完全に甘い考えで、村で過ごした休暇のあいだ、俺はただの厄介者にすぎなかった。両親が生きていればまだちがったかもしれない。どこまでも厄介者あつかいされるのはそのせいもあったのだろう。  三年目からはあきらめて、夏のあいだは村の下働きに甘んじることにした。こんな思いをするならわざわざ帰らなくてもいいのではないかと思ったこともある。でも夏の都会は暑苦しくてよく眠れなかったし、ずっと獣の匂いばかり嗅いでいると、ときどき頭が変になるような気がするのだ。  砧が最初に来たとき、俺が森をうろうろしていたのはそのためだ。村で他の鷲族にいいつけられる雑用より、森で逆棘の木をひっこぬく方が気が楽だったから、俺は昼間のほとんどをふもとの森で過ごしていた。だから、砧が山に来た目的を――薬になる植物を採りに森へ行くと話したとき、案内してやる、といったのだ。  こうして俺は夏のあいだ、竜人の医者の助手になった。荷物を運び、逆棘の木をしまつし、危険な匂いや雨が近づいたら知らせ、夜はおなじテントで寝る。砧は気前よく給金をくれた。七年経ったいま、俺は完全にこの仕事に満足していた。  竜人の砧は獣とはちがう匂いがする。雨が降る直前の空気みたいな、すこし金臭い変わった匂いだ。でも砧とおなじテントで寝ていても、獣の匂いのように頭がおかしくなるなんて俺は一度も思わなかった。都市ではほかの竜人とすれ違うこともあったけど、砧の匂いは彼らともちがうような気がする。  夏の休暇がはじまるすこし前に、砧は俺に電報を送ってくる。月の宙船がいつ到着するか教えてくれるのだ。俺は砧と駅で待ち合わせて、汽車に乗って故郷の山に行く。  砧が駅にあらわれると、姿はぼやけていても匂いでわかる。俺はほっとして砧を待つが、竜人が近づくにつれ、みょうにどきどきして、理由もなく嬉しくなる。  いつからこんな風になったのか。  もしかしたら最初に会った時からその気配はあったかもしれない。俺は砧の匂いが好きだった。でも最初のうちは、都市で獣の匂いにうんざりしているせいだろうと思っていた。  はじめて砧の助手をした夏は、俺は砧が森で無茶をするたび、あとを追いかけて止めていた。そのころ俺は竜人のことなんか何も知らなかった。月に住む、俺たちよりすごい文明を持っている種族、というだけだ。  いや、そもそも俺は月人についてろくに何も知らなかった。だいたい、俺たちのような鳥の種族――鴉族、鷲族、そして白鳥族と交流があったのは、おなじ月人でも、竜人ではなく天人の方だった。天人は地上の種族のように鳥や獣に変身はしないが、背中に大きな白い翼をもっていて、飛ぶことができる。鳥の中でも白鳥族は天人をことさら崇拝していたが、きっと翼の色が似ているせいだろう。  その一方、竜人は鳥より獣の種族と昔から交流があって、鳥の種族は竜人によそよそしかった。砧を村に連れて行ったとき、長老をはじめ、村の者たちが冷たかったのはこのせいもある。竜人は天人とちがって変身するという噂だった――噂しか聞かなかったのは、竜人の翼も、彼らが飛んでいるところも、誰ひとりとしてみたことがなかったせいだ。  いまにして思うと、俺の村の者はみな竜人の能力をみくびっていた。鷲族の長老が知っていたのは、竜人の翼には羽毛がなく、コウモリのようにぺらぺらした膜でできている、ということくらいだ。そんな翼では鷲族が得意とする空中戦、急降下や錐もみ飛行もできないだろうと思われていた。  でも、砧の翼はそんなやわなものじゃなかった。砧と過ごした夏のあいだ、俺は何度か竜人の翼に助けられた。  きっと俺が砧に対してこんな気持ちを持つようになったのはそのせいなのだろう。砧と森で過ごした二回目の夏、彼の腕に抱かれて、俺ははじめて空を飛んだ。きっかけは俺の眼鏡だった。弾力のある逆棘の木の枝に顔を叩かれ、飛んでいった眼鏡を追いかけたら、崖から転げ落ちそうになったのだ。  いや、あのときの俺は転げ落ちそうになったのではなくて、とっくに落ちていた。なぜなら一瞬考えたからだ――そうか、飛べないというのは、こうやって死ぬ、ということなんだ、と――。  ところが気がつくと、俺は空中に浮かんでいた。頭の上では漆黒の竜人の翼が力強くはためいていた。砧は飛びながら俺の手に眼鏡を握らせてくれ、俺は砧の匂いに包まれて、体じゅうの血がどくどく鳴るのを聞いていた。

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