9 / 9

第9話

飲みに行った夜以降、眞島は何一つ変わらなかった。何もなかったと言われても不思議ではない。だったらアレはなんだったんだ。俺一人が夢でも見たというのか。 そうこうしている内に眞島が結婚し、俺の夢説は益々濃厚になった。 同じころ俺は部長になり、眞島が一課に返り咲いた。俺が考えたのは、昇格を蹴って一課の課長を続行できないか、だ。 我ながら笑えてくる。同じクラスになりたい女子学生か。 そして今や眞島は一課の課長だ。補佐をすっとばすという大抜擢だった。 気がつくと俺は頬杖をつき、仕事をする眞島の背中をずっと眺めていた。画面がスクリーンセイバーになっている。周りを見ると、もう俺と眞島しか残っていない。どれだけの時間、放心してたんだろう。残業するなと部下に言っておいて自分がこれでは示しがつかない。 俺が動きだすとそれに反応するように、眞島の手が止まった。帰り支度をしながら目をやると、肩が震えているように見える。そして堪えきれなくなったように椅子を回転させると、体ごとこちらを向いた。 「此枝さん、あんた何時間ぼさっとしてんですか」 大笑いしながら仮にも上司をあんた呼ばわりだ。肝の太さが残念な方向に成長した成れの果てだ。 「なんだよ、仕事……してたぞ」 「嘘ですね。遠山課長が挨拶しても無視してた。どうせ俺のこと見て呆けてたんでしょ」 憎たらしいこと、この上ない。大体お前のせいなんだよ。 「そういえばお前んとこ、離婚成立だってな。おめでとう」 精一杯の皮肉を言ってやる。 今日、喫煙室で偶々うわさを聞いた。それからだ、昔のことを思い出して俺がおかしくなったのは。 「お陰様で。部長と一緒ですね」 「……俺を目指すなって言っただろ……」 ニッコリ笑って眞島が立ち上がる。ゆっくりと歩み寄り、デスクに両手をつくと身を乗り出した。いきなり至近距離まで詰め寄られ、じりじりと俺は後退する。 「二人だけでこんな風に話すの、いつぶりですかね。もう思い出せないな」 「おい、どうしたんだよ。正気かお前」 「此枝さん。せっかくなんだからもっと色っぽい話しようよ」 眞島が笑顔のまま近付いてくる。 「もう良く分かりました。此枝さんが物凄い臆病で寂しがり屋のくせに、素直じゃないってこと」 そう言いながら俺のネクタイを掴む。顔に笑顔が張り付いていて、怖い。 「俺ね、人間観察が趣味なんです。いい趣味でしょ。どうしたら此枝さん手に入るかなって、ずっと観察してました。──軌道修正を試みましたが、ご承知の通り惨敗です」 なんだどういうことだ。結局この十年以上、お前の気持ちは変わってないって事なのか。まさかそんなこと有り得ないと思うのに、この状況が裏切る。 「いまなら俺、ちゃんと此枝さんのこと愛してあげられますよ。誰よりも、見てきたから」 嘘だろう?いきなりそう言われて飛び込んで行ける勇気があるなら、十年前にそうしている。 「俺は……本気で人を愛せない」 「浅くて薄い付き合いしか出来ない?」 そんな昔の戯言を憶えていることに驚く。 「分かってるなら──」 「だから観察してたんですって。此枝さんだってずっと俺を見てた。十年です。それが浅い?薄い?」 違いますよね──そう言ってネクタイを引き寄せる。あと、ほんの少しで唇が触れる。 「それでも逃げます?」 そんなのはずるい。逃げ続けてきた俺に対して。だって本当は──。 「また……同じことに……」 だけどそうだ、また繰り返しになるだけだ。この歳で失恋したらもう立ち直れない。 「俺がさせない。一回だけ俺を信じて」 声が自信に溢れている。はっきりと強い意志を持った瞳は見たことがある。あの頃よりずっと頼もしくなった──俺の部下。 その唇に捕えられる。もう、逃げようとは思わない。 「俺が変わっても……怒るなよ」 「なんで怒るんですか。いろんな此枝さん見せて下さい。ここまで見守ってきたんです、どんな貴方でも愛してますよ」 どこにそんな情熱を隠してたのか。よくそんな恥ずかしい事が臆面もなく言える。 こんな俺には、眞島くらいの図々しさが丁度いいのかもしれない。 ずっと眞島が好きだった。十分過ぎる片想い期間も過ごした。 永遠の片想いの先へ眞島が連れ出してくれる──か。 なんだよ、俺は白馬の王子様を待ってたって? 眞島の頬に口づけながら、抑え切れない感情が胸から込み上げてくる。声を出して笑うと眞島は不思議そうな顔をした。 治らないならそれでいい。いっそお前と、極めてやるよ乙女道。

ともだちにシェアしよう!