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第9話
飲みに行った夜以降、眞島は何一つ変わらなかった。何もなかったと言われても不思議ではない。だったらアレはなんだったんだ。俺一人が夢でも見たというのか。
そうこうしている内に眞島が結婚し、俺の夢説は益々濃厚になった。
同じころ俺は部長になり、眞島が一課に返り咲いた。俺が考えたのは、昇格を蹴って一課の課長を続行できないか、だ。
我ながら笑えてくる。同じクラスになりたい女子学生か。
そして今や眞島は一課の課長だ。補佐をすっとばすという大抜擢だった。
気がつくと俺は頬杖をつき、仕事をする眞島の背中をずっと眺めていた。画面がスクリーンセイバーになっている。周りを見ると、もう俺と眞島しか残っていない。どれだけの時間、放心してたんだろう。残業するなと部下に言っておいて自分がこれでは示しがつかない。
俺が動きだすとそれに反応するように、眞島の手が止まった。帰り支度をしながら目をやると、肩が震えているように見える。そして堪えきれなくなったように椅子を回転させると、体ごとこちらを向いた。
「此枝さん、あんた何時間ぼさっとしてんですか」
大笑いしながら仮にも上司をあんた呼ばわりだ。肝の太さが残念な方向に成長した成れの果てだ。
「なんだよ、仕事……してたぞ」
「嘘ですね。遠山課長が挨拶しても無視してた。どうせ俺のこと見て呆けてたんでしょ」
憎たらしいこと、この上ない。大体お前のせいなんだよ。
「そういえばお前んとこ、離婚成立だってな。おめでとう」
精一杯の皮肉を言ってやる。
今日、喫煙室で偶々うわさを聞いた。それからだ、昔のことを思い出して俺がおかしくなったのは。
「お陰様で。部長と一緒ですね」
「……俺を目指すなって言っただろ……」
ニッコリ笑って眞島が立ち上がる。ゆっくりと歩み寄り、デスクに両手をつくと身を乗り出した。いきなり至近距離まで詰め寄られ、じりじりと俺は後退する。
「二人だけでこんな風に話すの、いつぶりですかね。もう思い出せないな」
「おい、どうしたんだよ。正気かお前」
「此枝さん。せっかくなんだからもっと色っぽい話しようよ」
眞島が笑顔のまま近付いてくる。
「もう良く分かりました。此枝さんが物凄い臆病で寂しがり屋のくせに、素直じゃないってこと」
そう言いながら俺のネクタイを掴む。顔に笑顔が張り付いていて、怖い。
「俺ね、人間観察が趣味なんです。いい趣味でしょ。どうしたら此枝さん手に入るかなって、ずっと観察してました。──軌道修正を試みましたが、ご承知の通り惨敗です」
なんだどういうことだ。結局この十年以上、お前の気持ちは変わってないって事なのか。まさかそんなこと有り得ないと思うのに、この状況が裏切る。
「いまなら俺、ちゃんと此枝さんのこと愛してあげられますよ。誰よりも、見てきたから」
嘘だろう?いきなりそう言われて飛び込んで行ける勇気があるなら、十年前にそうしている。
「俺は……本気で人を愛せない」
「浅くて薄い付き合いしか出来ない?」
そんな昔の戯言を憶えていることに驚く。
「分かってるなら──」
「だから観察してたんですって。此枝さんだってずっと俺を見てた。十年です。それが浅い?薄い?」
違いますよね──そう言ってネクタイを引き寄せる。あと、ほんの少しで唇が触れる。
「それでも逃げます?」
そんなのはずるい。逃げ続けてきた俺に対して。だって本当は──。
「また……同じことに……」
だけどそうだ、また繰り返しになるだけだ。この歳で失恋したらもう立ち直れない。
「俺がさせない。一回だけ俺を信じて」
声が自信に溢れている。はっきりと強い意志を持った瞳は見たことがある。あの頃よりずっと頼もしくなった──俺の部下。
その唇に捕えられる。もう、逃げようとは思わない。
「俺が変わっても……怒るなよ」
「なんで怒るんですか。いろんな此枝さん見せて下さい。ここまで見守ってきたんです、どんな貴方でも愛してますよ」
どこにそんな情熱を隠してたのか。よくそんな恥ずかしい事が臆面もなく言える。
こんな俺には、眞島くらいの図々しさが丁度いいのかもしれない。
ずっと眞島が好きだった。十分過ぎる片想い期間も過ごした。
永遠の片想いの先へ眞島が連れ出してくれる──か。
なんだよ、俺は白馬の王子様を待ってたって?
眞島の頬に口づけながら、抑え切れない感情が胸から込み上げてくる。声を出して笑うと眞島は不思議そうな顔をした。
治らないならそれでいい。いっそお前と、極めてやるよ乙女道。
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