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一 ‐ 1

 白銀が、閃く。  身体が縮こまる。恐怖で、ではなかった。フィオは、手触りだけで上質さが伝わってくる滑らかなシーツに指をたて、奥歯を割れそうなくらい食いしばる。  いっそ怖いほうがマシだった。頭の中に残ったほんの少しだけ冷静な部分が、今更のようにそう喚く。けれど、もう遅い。 『助けて』  そう叫んだのは、他ならぬ自分。 「ッ……ァ、あッう!」  ばちん。そう音がしそうなくらいに弾けたのは快楽だ。それが、苦しいほどに埋められている尻の奥からなのかそれとも。  牙が、うなじの皮膚を食い破ったからなのか。  ゆらり、と揺らめく炎はベッドからは遠い。それなのに、身体中を埋め尽くす快楽のなか、冷たい水を垂らしたみたいにフィオの心を冷やした。そういえば、今夜は稀に見るほど美しい満月が、黒い夜空に煌々と輝いていたはず。そんなことが思い出せるくらいには、落ち着いてきたらしい。 「は、ッぁ……」 「大丈夫か」 「……ッ、う、る、さい……ッ」  間髪入れずに背後から聞こえたシンの低く艶やかな声に、思わず怒鳴り返す。声を張ったつもりだったけれど、悲鳴みたいで情けなかった。  大丈夫かって?  大丈夫なわけがない。  だって、自分はついさっきまで、ベータだったのだ。 「う……、うう」  ぼたぼたとシーツに水滴がこぼれて、フィオはしかし、力を入れすぎたあまり痺れていた手で何とか顔を拭った。涙なんて、絶対にこぼしてなるものか。  と、思っていたのに。  情けなく、泣いてしまった。  呼吸に合わせて腹の奥がぐずぐずと波打つけれど、気づけば先ほどまでの気が狂いそうな渇望は少し遠ざかっている。  ──ツガイに、なったから?  フィオは、四つ這いのまま指先で己のうなじに触れてみた。ぬる、と滑るのは血が滲んでいるからだろう。オメガの発情期中に、アルファがうなじを噛むことによって、ツガイは成立する。ヒトの子でも、獣人の子でも知っている、この世界の法則だ。  そして、この世界のアルファは皆獣人だ。  フィオは、肩越しに後ろを振り返った。のろまに結合を解くシンの頭から伸びる、白銀の分厚い耳が見える。ふくらはぎや足の裏がくすぐったかったのは、彼の腰下から生える、太い尾がかすっていたからだろう。シン・ロア・エルドラ──狼族の獣人で、このエルドラ国の第一皇子だ。  それだけではない。 「落ち着いたのか?」 「……」  応えるのは癪だが、無視することもできない。シンは皇子であり、ヒトであるフィオが仕えるアルファ獣人だ。どんな状況になったとしても、使用人の、ましてヒトの自分がアルファ獣人に向かって口答えをしたり、反抗したりすることは許されない。  そんなことはわかっているが、フィオには例え今宵の恩人であったとしても、シンに対し素直に振舞うことはとうていできない理由があった。  自分のことをベータだと信じてやまなかったフィオは、この美しい満月の夜、急にオメガの発情期──ヒートに襲われた。年を経てから来たせいか、そもそもそういうものなのかわからないが、気が狂いそうなほど激しい欲の波に飲まれて溺れていたフィオは、身も世もなくシンに助けを求めた。  そしてシンは、使用人にすぎないフィオをツガイにした。ここ数日、彼に仕えていて生まれた予感が強まる。その美貌と寡黙さのせいで冷たく見えるこの獣人は、もしかしてお人よしなのかもしれない、と。  だが、それでも。  それでも。 「……、水を、持って来よう」  シンはそういうと、ローブを羽織ってベッドから降り、皇子のくせに自ら水差しのほうへと歩いていく。いつもなら、使用人であるフィオの役目だ。  フィオはベッドに倒れ込みながら、白銀の毛並みをたたえる尾がローブの裾を持ち上げ揺れるのを睨みつける。うなじをもう一度掴んだ。熱くて、腫れているような気がする。  この首にあの牙が食い込んだ瞬間から、自分はシンのツガイとなった。その事実を噛み締めるたび、フィオの目はカッと熱くなり、喉は引きつった。  ヒトが獣人たちに見下されるばかりのこの世界で、それでも矜持と目的をもって生きてきた。それなのに、あろうことかその獣人に、よりにもよってシンに助けられるなんて。情けない。あまりにも情けない。  なぜなら、シン・ロア・エルドラこそ、かつてフィオの村を滅ぼした仇にほかならないからだ。  ──ひと月前。  嫌いなものはごまんとあった。  けれど、フィオは多くのヒトや獣人が嫌う早起きが苦ではなかった。鳥が目覚めるよりも先に寝床から飛び出して、他の使用人たちが目を覚まさないように足音を消し部屋を横切る。  フィオはエルドラ国皇子であるシンの使用人なので、基本は彼に関わる仕事に従事している。フィオは、シンの弱みを握るために、真面目で忠実な使用人でいることを心掛けてはいた。そのため本来ならすぐにシンの部屋に行ってもよいのだが、それと並行してやらなければと思っていることがある。  鍛錬だ。  ひんやりとした廊下には、まだ芽吹きの季節を告げるには冷たい風がたむろしているが、裸足のまま駆け抜けた。  ここ、エルドラ国ロア城の東に位置する塔は、城内で比較的重要度の低い扱いだ。おかげで見張りの衛兵はいない。フィオは使用人のなかでも自他ともに認める優秀さを誇るが、時折元気すぎて、やれ落ち着きがないだの品格がないだのと教育係に怒られる。そのため、全力で城の中を走れるのは、急ぎの用事でも言い遣っていない限り、夜明け前の今だけだった。  ランタンのひとつもない外廊下だが、全く暗くないのは薄青い外の光のせいだ。フィオは獣人ではないから夜目は彼らほど利かず、夜は蝋燭を持たないと何も見えない。城を成す石が全て灰黒色だからだろう。 「おはよう」  梁の裏のまだ眠そうな鳩たちに声を掛け、フィオは廊下の柵を蹴った。石の隙間に指をかける。腕の力と背中のばねで跳びあがり、上の階の柵の下を指でとらえる。欠けた岩に再び足の指をひっかけて上へ。足の裏もしっかり用いながら、フィオはいつもの道のりで外壁を登っていった。身体を鍛えるにはもってこいだった。  休憩に使える足場にたどり着く。城仕えに選ばれて日は浅いが、日々の鍛錬の成果でここまでは楽々来られるようになった。問題は。 「ッハァ!」  フィオは、大きく呼吸をして気合を入れた。  塔は、円錐型のてっぺんに、輪切りにしたりんごの半円を乗せているような形をしていた。最後、その外にむかってゆるく弧を描いている壁を、虫のように登っていくのが最難関だ。  東の山脈のふちが、薄らと光り始めている。その光を乗せた風が柔らかく吹き、汗の浮いた肌を心地よく冷やしていった。そんな中、腕だけではなく、背中や身体の芯が熱くなっていく。フィオは十八歳だが、ヒトのなかでは背がやや高く、しかし華奢なのが悩みだった。限られた時間の中で、筋肉をつけて、身体を鍛えなければならない。  強くなって、やらなければならないことがあるからだ。 「よっしッ……!」  柵の根元に手が届く。今日は最速を記録したのではないだろうか。フィオは喜びを抑えて、ぐっと身体を引きあげようと力を込めた、が。  ガコッ、と音を立てて左手で掴んだほうの石が割れ崩れた。心臓に氷の剣が突き立てられたかのように緊張が貫く。右手一本で辛うじてぶら下がる。落下していった石が、地上に届く音がようやく聴こえて、その意味にとてつもない恐怖を覚えた。  歯を食いしばり、右腕で身体をできるだけ持ち上げていく。左手を伸ばし、尖った石の端を掴む。熱感があったが、気にしている余裕はなかった。  落ちたら、死ぬ。  こんなところで死ぬわけにはいかなかった。自分には、強くなって果たしたい目的がある。 「っぐ、ゥッ!」  両腕で身体を引き上げる。頬を石に擦りつけるようにして身を捩った。  不意に、影が差す。 「わ!」  身体が軽くなって、浮いた。放り投げられたかと思ったけれど、そんな強さもなく。どさりと全身を横たえることができた。  ゼェゼェと嫌な音を伴う息が、胸を破裂させんばかりに跳ねる心臓と相俟って苦しい。フィオは激しく噎せこみ、チカチカする視界に何度も目を擦った。 「おまえ……」  ようやく落ち着いて顔をあげると、すぐそばには白銀の大きな犬が佇んでいた。  そうか、とフィオは腰紐から伸びてヨレた背中の服を引っ張って戻す。 「おまえ、助けてくれたのか」  犬は、特に何も反応を見せない。が、フィオにはわかる。彼が背中の服を噛んで引っ張り上げてくれたのだ。犬の大きさは、小ぶりな鹿ほどあるのでフィオの体重を持ち上げるくらい余裕なのだろう。  後ろ手をついて座り込んだまま、フィオは、はぁぁ、と大きくため息をついた。  顔の横に熱を感じ、視線を向ける。  日の出だった。  空気がひとところに温かくなる。  エルドラ国の領土は、口を開けた獅子の横顔に似た形をしている。ロア城は、ちょうど獅子の口角あたりに位置していた。なので、東のほうを見れば鬣に当たる立派な山脈を遠く望むことが出来る。険しい稜線から、太陽が顔を出して世界を眩く照らしていた。紺色だった空はいつのまにか光に端から染まり、星たちの影が薄く遠ざかっていく。  フィオは立ち上がり、壊れていない柵の傍まで近づく。草原を風が吹きわたるのが、波打つ緑でよくわかる。かつてこの塔は見張り台であり、広場が設えられているのは砲撃のために武器が並べられていたからだと習った。今やこのエルドラには、そんなものが一切必要なく、こうやって朽ちるに任せている。なぜなら、この見渡す限りのすべてが、エルドラの領土だからだ。  すっかり目覚めた鳥たちが、青々と高い空を気持ちよさそうに飛んでいる。フィオは、やっと落ち着いてきた心臓を左手で押さえようとして、いて、と手のひらを見た。 「さっき、切っちゃったのか」  咄嗟に掴みなおした石が、尖っていたのだろう。  ゆら、と近づいて来た白い犬が、おもむろにひとなめする。フィオの手の平ほどもありそうな大きな舌が這ったあとは、血と砂が拭われていた。 「おまえ、こんなとこまで来れちまうなんて、すごいな」  フィオは右手で犬の頭を撫でた。犬は心地よさそうに目を細めると、尾を揺らした。やはり、尾をしっかり揺らすのは狼ではないから、犬なのだろう。  この白い犬は、エルドラの首都であるここ、ジルダに連れて来られてからフィオの前にたびたび現れる。最初は、その体躯の立派さから、ジルダの北の渓谷に住む狼かと思った。けれど、一帯に棲む狼たちは皆灰色の体毛だ。この国を治める皇族の狼族獣人たちが皆灰色狼であるのと同じ。  子供の頃、一度だけ白い狼か山犬か、幼獣を見かけたことがあるけれど、あれはフィオの故郷の近くでの話だ。フィオの生まれ育った村は、ここから馬で何日も走らなければならないほど北の果てにある。  白い獣に縁があるのかも、と思いながら、フィオは、何とも言えない顔でじっとしている犬の首元を撫でた。ふわふわで、それでいてみっしりと毛が詰まっている。光の当たり方によっては、銀色にも見えた。  艶やかな毛並みといい、人慣れの具合といい、恐らく皇族の誰かが飼っているのだろう。物珍しい生き物を所持することを自慢とする連中は多い。 「そろそろ行かないと」  フィオは大きく伸びをした。雄鶏たちの鳴く声がし始めている。城が目覚める時が来た。  つん、と鼻先で左手を押された。手当てをしろと言っているのだろうか。フィオは白い犬の、何を考えているのかちっとも分からない目を覗き込もうとしたが、ふいと翻ってあっさりいなくなってしまった。  深呼吸をする。今日もこの城の使用人としての一日が始まる。

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