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一 ‐ 2

 フィオには嫌いなものがたくさんあった。  ひとつは、銀色の髪の男。  炎が燃え盛る理由は、それだけ薪となるものがたくさんあるからだ。フィオの村は、大きな炎の燃料となって消えた。だから、フィオの嫌いなもののもうひとつは、炎だった。  当時、フィオは十一歳だった。村を襲った皇国軍の喉笛ひとつでも食いちぎって死んでやりたかったけれど、じいとばあが泣きながら隠れていろ、生きるんだ、と言ったから、泥水に這いつくばることしかできなかった。親代わりの姉が連れていかれるのを見ているしかできなかった。ヒトの雌は器用で便利だから、使用人として重宝されると後から知った。  大きな衝撃を受けると、記憶というものはぐちゃぐちゃになって、粉々になって、ばらばらになって、勝手にくっついて、濃くなって薄くなってしまうらしかった。  それでも。  フィオの瞼の裏にはっきりと焼き付いているのは、ぬらぬらと化け物のように身震いしながら幾重にもなる炎のなか、無慈悲を体現したかのような冷たい形相で立っている銀色の髪の男の姿だった。細部はわからないが、深い緋色のマントは皇国直属の軍の象徴だ。頭部には、獣人であることをはっきり示す大きな耳が生えていて。 「おはようございます、シン皇子。間もなく朝食のお時間でございます、本日は十の時より西地区の灌漑設備を担う大工とのお打ち合わせがございます」  フィオは、ロア城の紋が入った大きなドアの前に立ち、大きな声を出す。最初に言われた。いつだって好きに入ってきていい、と。だがそんなことを言われても、急に飛び込むのは気がひける。しばらく待ってから、 「失礼します」  と言ってドアに手をかけた。  今に限らず、エルドラ皇国は常に跡取り問題で揉め事が絶えないと聞いている。世継ぎ候補が幼いうちに身内によって暗殺されたなんて話も、使用人になるための学校で習った。  シンは現皇帝の第一皇子である。窓もドアも開けっ放しで、怖くないのだろうか、と初日は思った。広すぎる部屋に足を踏み入れ、広すぎるベッドの上でもぞもぞと動いている物体を睨みながら、フィオは調子に乗ってるからだろうな、と昨日と同じことを思ってイライラした。  シン・ロア・エルドラ──エルドラ皇国第一皇子であり、騎士団の副団長。社会勉強と鍛錬のために副団長の座についているらしいが、単純に彼の実力はこの大陸でも五本の指に入るという。  なんと、城には彼の首を討ちとれるようなものはいないそうだ。十代の若かりし頃に全部始末したという『武勇伝』は、使用人であるヒトたちの中ではある種常識らしい。  アルファの獣人たちはその能力のみならず、美貌も兼ね備えているのが常と言われている。実際にシンはフィオの目から見ても、まるで作り物のような整った美しさを持っていて、特に他の獣人たちからも抜きんでているように思えた。長い前髪で顔の片側が殆ど隠れているのも、何を考えているかわからない神秘的な様子を演出しているようにすら見える。  げんに、使用人たちのなかでも、 『シン様って本当にかっこいい』 『睫毛が氷みたい』 『あんなに美しい獣人、見たことない』  と常に評判だった。  フィオからすれば、だからこそ、ただただ冷たい印象しか感じない。  ──フン。ただのだらしないケモノのくせに。  フィオは身体を起こしたシンのほうは見ずに、彼が食事に使うテーブルを片付ける。夜食にしたらしい果物のヘタが残っている皿と、使われた形跡のないナイフ、フォークを盆に載せる。なんでも丸かじりするのだって、皇族としてどうかと思うが、そんなことを口出しできるような立場にはもちろんない。  シンはアルファ獣人であり、この国の皇子なのだ。  一方フィオは、辺境の村からこき使われるためだけに連れて来られた、ただのヒト。  ヒトでも、オメガならばアルファの獣人たちの子どもを産むために重宝され破格の優遇が待っているというが、フィオはベータだ。十八になっても発情期は来なかったので、そういうことになる。  この世界では、獣人に比べて、ヒトの能力は低いとされている。か弱くて、身体も小さい。世界を分割して支配する国々は皆獣人たちが王座についており、ヒトたちは使用人として、あるいは町の片隅で、辺境の地で、細々と暮らしていた。  そんなこの世の『当たり前』も、フィオは嫌いだった。  ばあの作る籠の強さや、姉の刺繍の美しさは、獣人には真似できないものだ。げんに、国を支配している皇族や軍隊は皆獣人たちから成っているかもしれないが、壁を塗り、皿を作り、服を縫い、便利な道具を編み出すのは彼らに仕えているヒトの仕事ではないか。  なのに、ヒトだというだけでこき使われ、オメガだとかベータだとか、第二の性で勝手に区別されて扱いを変えられる、そんなのはあまりにも理不尽すぎる。 「……お前、朝食は」  起き上がったシンは、いつものごとく裸で眠っていたようだ。フィオが目を逸らしてしまうのは、決して彼の美貌がどう、というわけではない。獣人である彼の、彫刻のように鍛え上げられた身体を見てしまうと、フィオのなかのどうしようもない苛立ちが増す。どう鍛えたって、敵う日などこないのでは、と。  この男は、かつてフィオの故郷を襲った皇国軍に所属していた仇だ。  のんびりとした動作で下着やズボン、シャツを纏うシンの隙だらけの姿が傍にあると、目の前の小さなナイフでもいい、突き刺してやりたい。フィオはそんな衝動に駆られる。  だが、今ではない。  シンは、強い。彼が訓練試合をするところを目にしているフィオは、痛いほどよくわかっていた。今の自分が、彼の不意をつくことなど、到底できはしないと。  ぎゅ、と拳を握り締めると、今朝切ったばかりの左手が痛んだ。使用人仲間に包帯は巻いてもらったけれど、力を入れないほうがいいのを忘れていた。 「どうした。怪我、したのか」 「お気になさらず。おれは先にパンをいただきましたので」  シンの左目は長い前髪で隠されているため、右目だけが静かにこちらを見ている。それに気づかないふりをして、フィオは明るく答えた。なぜかこの皇子、ことあるごとに、朝食は摂ったのかとか、晩はしっかり食べたかとかどうでもいいことを聞いてくる。使用人の食事を気にしてどうするというのだろうか。  フィオがシンの専属の使用人になったのは、一週間前から。前任者が腰を痛めたから急にそうなったので、もしかしたらフィオのことを信用しきっていないのかもしれない。フィオが痩せているせいで、頼りにならないとか、急に倒れたら面倒くさいとか思っているに違いない。  ──見てろ……。  彼に負けないぐらい己を鍛えて、いつか必ず故郷の仇をとる。  それが、今のフィオにとって生きる目的だった。  達成のために、一歩ずつ前進している。使用人の養成学校では、誰よりも優秀な成績を取り続けたし、使用人になってからもフィオはヒトのなかでずば抜けて仕事も早いし色々なことによく気が付くのだ。だからこのロア城専属の使用人になれた。  フィオがそんな風に決意をかためていることなどつゆ知らず、シンはゆったりとした足取りでテーブルに近づいてくる。開けっ放しの窓から小鳥が飛び込んできて、椅子に座ったシンの頭や肩にとまった。  臆病な鳥たちのはずなのに、何故かシンのことは怖くないらしい。ちちち、ぴぴ、と可愛らしい声で鳴きながら、テーブルや肩を行き来する。きっと食べこぼしのパンくずを貰えることを学習しているからだろう。  シンは右目を眠そうに細めて彼らを見下ろしていた。喋りかけることも、撫でることもない。ただそこにいるのを許しているだけだ。  フィオは片付けたものを抱え、お辞儀して部屋を出る。ちょうど朝食を載せたカートを押した使用人のナラがやってきたので、挨拶して持っているものを交換した。  部屋に引き返し、ぼーっとしているシンの前に朝食を並べて、フィオが先に一口ずつ食べる。数分黙って待つ時間が苦痛だった。調理している人々も衛兵の前で食べているはずだから、安全には違いないとは思うが、念のためだという。 「変化ありません」 「そうか。いつもすまない」 「……お役目です」  なんで謝ってくるのかも本当に謎である。そもそも毒が入っていたら、こんなに小鳥たちが集まってこないだろうとも思う。  シンがゆったりとした所作で朝食をとり始めたのを見届け、フィオはベッドのほうに行った。シーツを新しいものに替えて、ベッドメイキングをする。そういえば今日も窓を開けたままで寝ていたようだから、部屋には風が相当な強さで吹き込んでいる。寒くはないのだろうか。それとも、狼の獣人だから、多少の寒さには強いのだろうか。  そんな風によぎり、フィオは知れずと奥歯を噛み締めた。仇敵なのに、気にかけるようなことを考えた自分にむかつく。風邪でもひいて拗らせて死んでくれたら、手間が省けるのに。  いや、違う、この手で断罪してこそ、意味があるはず。  薄手のブランケットを畳みながら、フィオは怒りを誤魔化すように広いバルコニーのほうを見遣る。城下の街並はすっかり目が覚めているのか、煙が幾筋も立ち上って、風に靡いていた。耳をすませば、ヒトのフィオの耳にも喧騒が聞こえる。  奥の部屋のクローゼットから、彼の普段着を用意する。皇族付きだと着替えを手伝うことも仕事のうちらしいが、シンは基本的になんでも一人で済ませるようで、フィオが手を貸したことは無い。 「医者に見せたほうがいいんじゃないのか」  手のことだろうか、フィオは部屋の掃除に取り掛かりながら、 「問題ありません……血が臭いますか」  もしかしたら、と思って問うたら、案の定彼は頷いた。さすが、狼族の鼻はごまかせないらしい。 「これを」  差し出されたものを、右手で受け取る。仇になにかもらうのなんてまっぴらごめんだ。けれど、逆らって機嫌を損ね、この仕事から外されては元も子もない。  フィオは、手のひらに置かれた袋を見る。美しい刺繍が施された小袋の中には、貝殻細工の小さな容器が入っていた。 「なんですか」 「痛み止めの効果がある薬だ。膿も防ぎ、怪我によく効く」 「……」  そんな薬、高価に決まっている。容れ物からして、滅多にお目にかかるような代物ではないだろう。  いりません、と突っぱねる前に、シンはこちらに背中を向けてしまった。 「何か、ほかにご用命は」 「問題ない。ありがとう」  あろうことか、使用人に礼だと? 「行ってくる。医者が必要ならいつでも家令長に言えよ」  無視したかったけれどフィオは、わかりました、と意識してハキハキ答える。従順な使用人だと思われなければ。 「ああ、あと今日はまだ冷える。温かい恰好しとけよ」 「? それは、ご命令ですか?」 「……、まあ、そのようなものだ」  フィオは唖然としてしまった。  騎士たちの平服と変わらない、シャツとズボンに着替えたシンが部屋を出ていく。マントをつけていなくても、風を切っているように颯爽と見えるのは均整の取れた身体や高身長のせいだろうか。ブーツの硬質な足音が廊下を遠ざかっていった。 「やっぱり、変な奴……」  彼以外の皇族たちは、仕事があろうがなかろうがいつも着飾っているから、そんなところも変わった皇子だ。マントも謁見の際しかつけないし、基本的に城のなかで豪勢な食事や宴、ボードゲームに興じるのではなく、部屋で難しそうな本を読んでいるか、馬場で馬の世話をしたり訓練場で剣をふるったりしてばかりだった。  簡単にいうと、シンは他の皇族たちと全然違うのだ。  フィオはシン付きに任命されてから一週間、偉そうに命令されたことが一度もない。それこそ、やれ靴を履かせろとか水を持ってこいとか、そういうことまで全部やらされると覚悟を持って来たのに、だ。掃除や片付け以外の世話らしい世話といえば、朝に弱いので起こす必要があるのと、声を掛けなければ夜中まで本を読んでいることくらいか。  もっと振る舞いを考えなさいと、現皇妃がシンに向かって言っているのを、フィオも何度も耳にしている。先輩の使用人たちいわく、皇妃はシンの義理の母親だから冷たくあたっているらしい。  ──そんなの、どうでもいい。  皇子様らしかろうが、らしくなかろうが、フィオにとって関係のないことだ。  ただ自分は、彼の傍で弱点になりそうなことがないかを探る、そのためにここにいる。

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