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一 ‐ 3
弱みを見つけてやる、そんなことばかり考えながら、いつもフィオはシンの部屋を掃除した。が、シンの部屋は物が少ないため、日々そんなに時間がかからなかった。
「空いている時間は好きなことをしていていい。本も好きなだけ読んでいいし、果物も好きなだけ食べろ」
とシンには言われていたが、そんなこと使用人がしていいはずがない。
フィオは、さっさとシンの部屋を後にすると、いつも他の使用人たちの仕事を手伝っていた。広大かついくつもある庭の手入れや、食事の配膳、洗濯など。炊事場だけには近づけないが、それ以外ならなんでもやった。
ロア城には皇帝をはじめ、皇妃、側室、その子どもたち、家令と呼ばれる彼らに仕える獣人の貴族たちが大勢住んでいる。フィオの寝床である使用人部屋がある塔も、騎士たちの暮らす宿舎も敷地内だ。それに加えて、他国から来賓が訪れたり、領土のあちこちを支配している血縁たちが顔を出したりと出入りも激しい。毎日何かしらの会合や宴が開かれるため、おかげで仕事が尽きることはなかった。
働きものだねえ、あんたほど元気な子は見たことがない、と使用人仲間や家令たちには半ば呆れながら言われる。偉そうな獣人に媚びを売るなんて、本当ならものすごく嫌だ。だが、目的がある。もちろん一番の仇はシンで、彼を失脚させる、あるいはかなうならこの手で、そう願っている。と同時に、フィオの怒りの矛先は常に獣人たち全員に向いていた。
ヒトをこき使って、生まれ持った優位性をふりかざす嫌な奴ら。自分たち以外の命をなんとも思っていない、獣人とはそういうものだ。
そう思っていたのだが。
「世話を、頼めるか。お前は手先も器用だし、よく気も付くから」
「……これは、雪鷹の雛ですか」
豊穣の祝祭の初日。
血の匂いをさせて帰ってきたシンに、籠を渡された。フィオはその中にいる小さな雛の姿もあわせ、どこから突っ込めばいいのかわからない事態にめまいがしそうだった。
今日から数週間、一年間の豊穣を祈願した祭が国中で行われる。初日は、皇族たちは皆、ジルダの南に生い茂る森に繰り出し、最初に見つけた鹿を狩って云々、というしきたりがあった。シンも、鹿狩り用の正装をして朝方出発した。
フィオたちは城に残り、領土内の皇族たちが一堂に会する宴の準備でてんやわんやだった。気づけば夕暮れが迫っており、凱旋門から大通りを練り歩く皇族たちを迎えるパレードの音楽が聞こえる頃に、なんとか全ての用意が間に合って胸を撫でおろしたのが数分前。
てっきりシンも、つまらなそうな顔──いつもだが──で、宴に参加するのかと思いきや、彼は広間の隅で首を垂れているフィオに手招きして、そのまま部屋に帰ったのである。
宴に出席しないのですか、と目を丸くしたフィオに差し出した籠が、雛鳥の入ったそれだった。
「狩りの最中に、崖崩れが起きた。先日の長雨で地盤が緩くなっていたのもあるんだろうが。それで巣が木から落ちた」
淡々とした声が、城の中心からは少し離れたところにあるシンの部屋に落ちる。宴のための音楽や楽器、声は遠くで溢れているのに、まるで別世界のような静けさだった。フィオは、準備であわただしかった名残で額に流れる汗をぬぐった。
籠を受け取る。ぴーぴーと鳴く雛は灰色の毛玉のなかに少しずつ大人の羽が生えてきている状態だった。まだ到底飛べるような月齢ではないだろう。指を伸ばすと、怖がるのではなく食べ物だと思ったのかついばもうとしてきた。
「餌に虫を探す余裕はなかった……」
落ち込んだ声に思わず笑いそうになり、慌てて歯を食いしばる。狩り用の衣装とはいえ、きちんと正装していて、細身の長身に迫力を宿すシンが、腐葉土に這いつくばってミミズを探すところなど想像できない。
フィオは、シンが自分に食べていいと言っていた果物の籠から、小さな赤い実を捥ぐ。雛の口元に持っていくと、かぱりと開いたそこにあっという間に吸いこまれていった。雛は、もっとというようにぴーぴーと騒ぐ。
「この実があれば、しばらくは。虫やトカゲもいずれは要りますが」
「詳しいな」
「故郷で、」
言いかけて、フィオは首を振った。
言う必要はない。
それより。
ランタンが灯った橙の部屋、静かに見上げる。長い前髪が彼の左目を隠しているので、見えるのは右側の黒い瞳だけだった。髪が白に近い銀色だからか、瞳の黒さがよく際立つ。炎の小さな破片がうつりこみ、彼の白眼がかすかに閃く。
相変わらず、冷たい顔つきに見える。それが類稀なる美貌のせいなのか、自分がそう思いたいのかが揺らいだ気がして、──なぜなら、シンが『冷たかった』ことなど、自分が知る限りないのだ──フィオは慌てて声を出した。
「お声の様子がいつもと違います」
フィオは、怪我をしているのかと問うたつもりだった。
血の匂いがシンのものなら、きちんと手当てをして宴に出なければならないだろう。彼は皇位の第一継承者だ。全領土から皇族が集まってくるこの機会に、部屋で休んでいるわけにはいかない。なら、何か手伝えることはないかと自分から言い出すことで、彼の中でまた信用度があがる、そう踏んだのだが。
「……、母鳥は、助けられなかった」
「え?」
この子の、とシンは言った。
平坦な低い声はいつもと変わった様子がない。そもそもフィオは、シンが声を荒らげている姿を見たことがなかった。常にトーンの変わらない男だ。
それでもより静かに聞えたのは、どこかが痛むからかと思ったが、違ったようだ。
「雛を助けるためか、木と岩の間に飛び込んでしまった。最後まで、子の傍に行こうとしていた」
シンは、怖い顔をしていた。眉間に皺をよせ、まなざしを鋭くし、唇を強張らせて。ああ、とフィオは悟った。悲しくて、悔しいのだ、この獣人は。母鳥の死を悼み、間に合わなかった己を責めている。
「雪鷹は、一年に一度、一羽しか雛を生みませんから」
「そうだな」
そして、雪鷹はツガイを作ると、生涯添い遂げる。フィオは、そう言わずに口をつぐんだ。森では今、この子の父鳥が、妻と子を亡くしどんな心でいるのだろう。
妙な苦々しさが、胸の奥でぐつぐつ揺れている。
この無垢な雛の母鳥が死んだことに対して、悲しみや怒りや世の中への不条理を嘆く気持ちも、もちろん皆無ではない。
が、それよりも。
この男は、彼にとってはとるに足らないであろう鳥を助けるために危険に飛び込み、挙句、救えなかった命に心を砕いているのか?
それは、やはりフィオの思う『冷たい獣人』の姿と、あまりにもかけはなれている。
「雛を助ける時に、お怪我を?」
「……いや、」
シンは珍しく視線を彷徨わせると、わかるのか? と言った。
「わかりますよ。ヒトのおれの鼻にも血の匂いがぷんぷんします」
「そうか。それはよくないな」
手当はしたんだが、と彼は言いながら、自分で棚のほうに歩いていく。薬や包帯がしまってある入れ物を取り出そうとしているのが見えたので、フィオは雛の籠をテーブルに置くとそちらに走った。
使用人である自分の仕事だと思ったからだ。
「おれが」
ポケットから彼にもらった薬を出そうとすると、
「それはお前にやったものだからお前のために使え。こっちを」
そう言って止められる。
横に並ぶと、シンの背の高さに気圧されそうになるが、ぐっと踏ん張った。着替えなど手伝っていれば気にならなかったかもしれないが、ここまで近づいたことは殆どない。こんなことで怯んでいてはだめだ。獣人なんて平気だ、大したことない、そう自分に言い聞かせて、フィオはシンから入れ物を半ば奪い取る。
シンは、頷いたのかうつむいたのかわからないくらい微妙に顔を下げると、ゆっくり服を脱ぎ始めた。マントを外し、クロスメイルをとり、シャツも無造作に椅子の背に放る。
「う、わ」
彼の背中には雑に布がさらしで巻き付けられているだけで、鬱血した皮膚はそれよりも広範囲に及んでいた。
──適当すぎるだろ!
フィオは内心そう思ったが、歯を食いしばる。
「座ってください」
椅子を指すと、シンは大人しくそこに腰かけた。腰の中央部分、ズボンに切り込みがはいっていて、そことベルトの間から大きな尾が生えているのが、ヒトと全然違う獣人らしい箇所だった。身近で見たことは無いので思わず凝視しそうになってしまい。ぐっと堪えた。フィオの腕の長さをゆうに超えるくらいありそうな白銀のそれは、たっぷりとした毛並みを湛えてつややかにランタンの光を反射していた。彼はそれを適当に横に流す。
フィオは、失礼します、と言ってシンのさらしをほどきにかかった。が、結び目が堅むすびでギチギチだ。
「切ってもいいですか」
「ああ」
シンは、これを、とどこからか小さなナイフを取り出し渡してくれた。暗器として服に仕込んでいたものだろう。
「……」
フィオは静かにそれを受け取る。
この人は、と奥歯を噛む。
──おれにこれを渡して、危ないとか思わないんだろうか。
小さいけれど、切れ味のよさそうなナイフだ。
一瞬の隙を突けば、きっとこの距離だ、彼の喉笛を掻き切る、あるいは背中をひと刺しするくらい、自分にだってできるはず。シンがどれほど強かろうが、こんなに油断していて、背中には大きな怪我だってしている。
フィオは、ごくり、と唾を飲みこんだ。
ぴーぴ、と雛の声にハッと目を見開く。そうだ、シンは、あの雛を助けた。獣人は自己中心的で傲慢、冷たい、そんな自分の持っていた印象に亀裂が入った気がして、フィオは慌てて見ない振りをする。まだ自分の中に生まれた揺らぎを直視できない。
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