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一 ‐ 4
手元に集中すべく、さらしの結び目の横に、ナイフを当てる。
「……何の、お怪我か聞いても」
ど、ど、ど、と五月蠅い心臓を隠すために、フィオは自ら話しかける。
シンは椅子に座って前を向いたまま、崖の傍が土砂崩れを起こして、と変わらない口調で答える。
「咄嗟に巣が見えたから、飛び込んだら、……射かけられた」
「ッえ!?」
べろり、とあて布をめくると、広範囲の鬱血の端に人差し指分ほどの裂傷があった。皮下脂肪の少ない身体ゆえか、痛々しく裂けているように見える。血はかなり乾いて端の方が赤黒い砂のようにぽろぽろ崩れ落ちた。
「打ち身は?」
「巣を抱えてたから受け身がとれなかったんだ。背中から落ちた」
フィオは眼下に広がる大きな傷痕を言葉を失って見つめた。
土砂崩れが起きて、巣を守っただけならまだしも。
「でも……、射かけ、られ、って、参加者は……」
参加者は、友好関係を結んでいる者たちばかり。
「よくあることだ」
なんでもないことのように変わらない口調でシンは続けた。
よくある、とフィオは拳を握り締める。
頭では知っていた。皇族は跡継ぎ問題で頻繁に揉め事が起きるのだと。今の皇帝になってからは随分落ち着いたと聞いたが、シンは前皇妃の唯一の男子。彼がいなくなれば、皇位継承権は親族の誰かに移るはず。
しかし、そうやって知っただけの文字の羅列と、目の前の赤黒い鬱血と裂けた肉が、まだ結びつかない。
フィオは、甕から清潔な水を汲み、綺麗な手拭いを浸して絞る。
「しみますよ」
シンは何も言わなかった。血を拭いている間も、傷についた泥を拭う間も。
肌に細かく刺さった小さな砂や木くずも、フィオは黙って全部取り除いた。シンはやはり一言も発しなかった。呻き声すら。そして気が付いた。彼の背中のみならず、肩や腕には、無数の古傷が走っていた。
「……医者は同行していなかったんですか」
単純に疑問に感じたので問う。フィオは今朝がた見送っただけだが、まるで移住するのかといわんばかりの大仰な隊列で出かけて行ったのを知っている。踊り子や笛を吹くやつがいるのなら、医者だって。そう思った。
「居たが、……面倒くさいだろ。この程度で」
面倒くさい、という意味が分からない。フィオは傷薬を指先で恐る恐る塗り広げながらこっそり顔を顰めた。確かに、命に影響があるような怪我には見えないけれど。
裂傷の部分には当て布を二重にして、新しいさらし布で胴ごと捲けばおしまいだ。座って腕をあげているシンの後ろから、フィオがそれをしようとするとかなり密着しないと手が届かない。逡巡すると、前側でシンが布の端を受け取ってくれた。胸周りに捲いて、また背面でフィオが受け取る。無言が気まずい、変な共同作業だった。
「射かけてきたやつは、わかっているんですか」
沈黙に耐えられなかったのはフィオのほうで、聞いていいのかもわからずにそう口を衝いて出た。単純に気になったのももちろんある。弱みになるかもしれないし、と自分の内側で言い訳をした。
「凡そは」
「捕まえたんですか?」
シンは首を振った。
「なぜ……?」
思わず包帯の最後をぎゅっと結んでしまう。痛くなかったかフィオは慌てたが、左側から見ても前髪でほとんど顔が隠れていてわからない。しかし、覗く口元に変化はなかった。
「弓をひいたのは、どうせ誰かの命令を受けた従者の一人だ。そいつを処分しても、何も解決にならない」
「そいつを逃がしたって解決にならないでしょう」
あ、と思って口をつぐむ。
つい勢いで言い返してしまったが慌てて、申し訳ありません、と頭を下げてさがる。思い込みで喋ってはだめだよ、とじいによく言われていたのに。どうしてだか口が滑ってしまった。先ほどからシンが話す内容が理解を越えていて、混乱しているのかもしれない。
そんなフィオに、シンは、
「正論だ」
と言った。
その声の柔らかさについ顔をあげ、フィオは言葉を飲み込む。
シンは微かに笑っていた。冷たい印象が薄れ、どこか儚げにすら見える。
が、すぐにふいと顔をそむけてしまう。
「言ったろ、面倒だって。俺の命を狙ってるやつなんてごまんといる。そのどれかを、祭を止めてまで暴く意味はない。ひとつ処分すれば、つぎのひとつが現れるだけだ」
やるだけ無駄だ、とまで言われ、フィオは何故かカッとなった。
「そんなこと、ない、ひとつずつ片付けて、そうやっていかないと、何にもたどり着かない! ここで、おれに殺されたっていいっていうのかよ……!」
「それも正論だ。お前が……理由があってそう願うなら、それも良いかもしれない」
「ッ……理由……」
理由は、ある。シンは、フィオの村を滅ぼした軍の一人だった。彼が率いたかどうかはわからないが、あそこに確かに彼は居た。険しい顔で。
フィオの中に焼き付いて消えない、あの赤々とした炎の中のシンと、目の前の諦めに包まれ微笑むシンの姿が、どうしても、どうしても重ならない。フィオが、シンを殺したい理由は、確固としてある、はずなのに。
「それに、地道に努力を重ねるのは、たどり着きたい場所がある場合に限った話だろ」
それこそ正論だった。
「……でも、あなたの進む先には、皇位が、用意されている」
フィオは辛うじて絞り出す。微かに右目を細めたシンは、だからどうした、と言った。
「俺は皇位なんて興味がない。物心ついたら、そう決まってただけだ」
「……ッ」
フィオは使った道具を綺麗な布でゴシゴシと拭き清めていく。皇子に使用人が言っていいことではなかったのはわかっているが、頭の中が煮えていると同時にグチャグチャで、今口を開いたらもっとまずいことを言ってしまいそうだった。
雛も眠ったのか、いつの間にか静かになっている。
数秒の耳が痛いほどの沈黙が落ちて、しかし再び口を開いたのはシンだった。
「他者を武力で制圧して、統治し、血で血を争って……逃れられないのはわかっているが、地位に犠牲に見合う価値を感じない」
恐る恐る顔を上げると、正面の鏡にシンが映っていた。
「……ッ」
彼の表情が何を滲ませているのか。眉間には皺が寄り、目の光は強く。引き結ばれた唇も、先ほどと同じ。
シンは、悲しんでいる。
目を見開いたフィオは、不意に彼と視線が鏡越しにぶつかり、硬直した。しかし、シンは目元を緩めると、柔らかく首をかしげる。
「だが、なぜお前がそこまで憤慨する」
「それ、は」
慌てて目を逸らした。
借りた彼のナイフも、汚れてはいないが丁寧に拭った。今、これでフィオが急にシンを切りつけても、きっとかなわなかっただろう。
自分もまた、数多いる『ひとつ』のどれかに過ぎない、そう言われたような気がして腹が立ったのだろうか。いや、違う、彼は理由があるなら別にフィオに殺されてもかまわないと言った。
目蓋の裏にいる、炎の中見上げたシンの姿と、今の彼が、重なった。
──怖い顔してたのは、悲しかったから……?
フィオの頭の中は、絡まり合った蔦のように混乱を極めていた。
全て持っている皇族のくせに。ずっとそうやってシンを見てきた。なのにどうして彼は、己の命を投げやりに扱うような言動をするのか。もっと不可解なのは、彼が許すなら今すぐ殺してやろうか、そう過るのに行動に移せない自分だった。
「……」
きっと。
彼の話した理屈の根元にある『物心ついたら、そう決まってた』が、瞬時に理解できてしまったせいだった。
自分と、同じ。ただ、人間に生まれただけだ。
「口が過ぎました。お忘れください」
深く腰を折った。後ろでくくった髪が、前に垂れる。石のタイルの埃ひとつない隙間を睨み、フィオはシンの次の言葉を待つ。だめだ、と心の中で繰り返した。だめだ、考えてはだめだ。迷いはいらない。目的は一つでいい。
サンダルを踏みしめる自分の親指の爪が白くなってた。土で汚れている。
シンは何も答えなかったが、顔をあげろ、とだけ言った。
顔を見ることが出来ない。今彼がどんな表情をしているか、知りたくなかった。
なので、目線だけ外したまま言われた通りに背筋を伸ばした。そして、お返しします、とフィオはナイフを返す。刃をこちらに向けた状態で差し出したら、シンは静かに柄を掴んだ。ズボンのどこかにするりと仕舞う。
「宴に出る」
「おれは、こいつを見ています」
「頼む」
シンは機嫌を損ねた様子なく頷くと、新しいシャツを羽織って紺色のマントを片方の肩につけた。ゆらりとそれをひるがえし、いつもと同じ所作で部屋を出て行ってしまう。
ぴーぴー、と雛が鳴いている。フィオは、再度果物を雛に運んでやった。シンが救った、小さな命に。
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