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「先ほどの機転、見事だった」
突然聞こえた声に、ハッとしてフィオが振り返ると、角から姿を現したのは体格のいい狼族の獣人だった。シンも背は非常に高いしフィオに比べると大柄に違いないのだが、祝祭でわんさと集まっているのを見ると彼がずいぶん細身なのが理解できた。
それに対し、鷹揚とした足取りで歩み寄ってくる獣人は身幅がしっかりとあり、豪奢な正装やマントがあまりに似合っていた。濃い茶色の瞳に、威圧感が滲む。
フィオは、慌てて荷物を置いて片膝をつく。
「顔をあげろ。誰もいない」
「しかし」
「命でもきけないと?」
失礼いたしました、とフィオは立ち上がり、胸の前で手を組む服従のポーズで俯く。が、大股でゆったりと近づいて来た獣人は、フィオの顎を掴むと顔を無理やり上げさせた。
「なにか……」
矯めつ眇めつされるのは居心地が悪い。顔を顰めないように平静を装いながらフィオが問うても、相手は答えなかった。
どれだけジロジロ見られても、同じように睨み返すわけにもいかない。目端にうつる彫りの深い顔立ち。近くで話した記憶はない。彼は長い黒灰の髪を前髪ごと後ろに撫でつけており、大きな分厚い立ち耳はシンと同じ形だった。揺れる尾も太く長い。フィオは習った皇族たちの名前を必死に思い出す。血筋を表す胸の紋章はシンと同じだが、もう一つは違う。しかし城の中で見かけたことはないはず。
「私が誰だかわからないようだな」
「申し訳、ございません」
顎を引っ張られているので言葉を発しづらい。そんな様子がおかしかったのか、男は存在感のある鼻筋を自慢するかのようにフンと笑った。
「まあいい。どうせ新入りだろう?」
「はい、城付きになったのは岩冷えの季節からです」
「それまではどこに?」
「使用人学校を出て、騎士様たちの寄宿舎で整備・清掃を」
何を目的に訊かれているのかわからない。唇を傲慢そうに歪めたまま、男はふうんと首をかしげる。
「で、今はシンの部屋付き、と」
「はい」
違和感に眉を顰める。
フィオはしっかりと男を見上げた。相手は皇族には違いないけれど、怯んで怖がっていると思われるのは癪だ。
暗闇だからか、深く穿たれたような瞳孔と視線がぶつかる。
「私は、アッシュ・ラガン・エルドラだ。覚えておけ」
フィオは目を見開いた。
ラガン一族は、この帝国で第二の広さを誇る西の領土を治める皇族だ。領主は皇帝の兄で、先代の近衛隊隊長として戦果をあげたことで有名だった。広間に肖像画が飾ってある。だが、虎族とやりあい左腕と左足を失ったため、皇帝の座を弟である現皇帝に譲り、西の地に退いたはずだ。
その息子が、この男、アッシュ・ラガン・エルドラである。言われてみれば、広間の肖像画と眉や口元が似ている気がした。
そして、シンとは従兄の関係にある。
ぴく、とアッシュは耳を跳ねさせると、フィオを突き飛ばすようにして手を離した。そして踵を返すと、暗い廊下に足音を五月蠅いくらい響かせながらさっさと立ち去ってしまう。フィオには聞こえない足音にでも気づいたのかもしれなかった。
「なんだ……?」
マントの裾まで完全に見えなくなってから、フィオはため息をついて籠を抱えなおした。どっと疲れた気がする。
一体なんだったんだろう。シンの使用人だとしたら、なんだというのだ。
とりあえず城の裏にある洗い場の傍まで運んでしまおうと、フィオが気を取り直して歩き出すと、いつの間にかまたあの白い犬が少し先に佇んでいた。
「お前も宴のおこぼれもらいにきたのか?」
城で豪勢な食事が振舞われると、残飯もおのずと豪華になるため、野犬や鳥、猫たちがたくさん集まってくるのだ。肉を焼くいい匂いがするからか、炊事場の裏なんか犬たちで大賑わいする。この国は狼の一族が治めるからか、皆犬たちには寛容なのだ。
「ごめんな、おれは何も持ってないんだ」
そうフィオが言っても、白い犬は残念そうな顔をすることなく、一定の距離まで近づいて来た。そしてフィオの歩く速度にあわせ、並ぶ、というには少し遠くを進む。
「皇族って、なんでああも、なんか、鼻につく奴らばっかりなんだろうな」
人けがないのをいいことに、ぼやきながら歩く。夜目の利く獣人たちが暮らしているから日ごろ松明などは最低限だが、今は鳥族もいくらか来ているため廊下が明るく照らされていて歩きやすかった。
「喋り方が偉そうっていうか。ヒト相手にっていうより、獣人同士でもそうだろ? 貴族出身の騎士たちはそうでもないからさ、やっぱ皇族っていうか、生まれてから偉そうに他人をこきつかってばっかりだとああなっちゃうのかな」
ハァ、とため息をつく。
やはり、今日は疲れたらしい。肉体、という意味ではない。それなら毎日いつだって走り回っていて忙しい。いつもと違うのは、豊穣の祝祭の期間は、シンや城の皇族だけでなく、他の領土からやってきた人々がわんさかいることだ。
どこで誰に何を見られているか、気にしていなければならない時間が普段よりも格段に長い。
「心配してくれてんのか?」
心なしか近づいて来た白い犬の目を覗き込む。右目が灰色、左目が青という不思議な色違いをしている。アッシュもそうだったが、犬もまた瞳孔が黒く大きく広がっていて、朝に見るよりは優しそうな顔つきに感じた。
頭をフィオの腿に押し付けるようにして懐いてくる。親愛の仕草だ。
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試し読みはここまでになります。
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