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1.飢えた狼と誘惑の果実 ①

 口づけは、甘い血の味がした。 「は……っ……ん」  ちゅっと湿った音をたててて、名残惜し気に唇が離れる。遠くで汽笛の甲高い音が聞こえた。 「大丈夫か? ユーリ」  埠頭の倉庫の影で、フェンヴァーンは壁につけた腕に体重をかけて立つ。彼と壁の間に立つユーリは彼よりも少々背が低い。それが与えられたキスで腰砕けになって、さらに低くなった体を冷たいコンクリートの壁に預けていた。  赤茶けて手入れもされずにのびのびに伸びた前髪と太い黒ぶちの眼鏡。その仮面に守られた白い頬をほんのりと赤く染め、ユーリは唾液で艶めく口元を拭ってからこくん、と頷く。あちこちに毛玉がついただぼだぼの白いタートルネックのセーターの胸元から、甘い、甘い匂いが漂っていた。  その匂いにフェンヴァーンはそれとなく生唾を呑む。少々タイトなパンツの中は窮屈に張り詰めていた。 『準備はできたか?』  警備課強襲班長であるトウゴウの呪声が直接脳へ響く。  フェンヴァーンはちっと小さく舌打ちして、同じく頭の中からオールグリーンだと答えた。  ユーリは少し乱れた灰色のダッフルコートの襟元を寄せてフェンヴァーンの懐からするっと離れていく。  バニラかバラにも似た濃密で蕩ける甘い痕跡がその場に残った。  吸血鬼の誘因香だ。  それを引き出すためには何らかの興奮が必要だった。  理性を失うほどの狩猟本能か、あるいは骨抜きにする性的欲求か。前者をたきつければその場にいる人間が恐惶に陥って気が狂ってしまう恐れがあった。  だからキスをした。  フェンヴァーンがその手の技術については局内では最も巧みだ。誰もが太鼓判を押していた。トウゴウからはだったら天国が見られるほどの極上の本気をあたえてやれと命令された。  命令を受ける側のユーリが何を思ったか、フェンヴァーンは知らない。  嫌悪、拒絶か。  好意、歓迎か。    それくらいは、感情が動くときに立ち上る微かな汗の匂いで人狼なら大体わかる。けれどももともと吸血鬼というのは誘因香を引き出すのだって一苦労なほど、汗などをかきにくい種族だ。さっぱりわからない。  ここに至るまでに車の中で、少しは親密さを深めてリラックスさせようとそれとなく話を振った。だが普段通りの「ああ」「うん」「はい」「そう」すら返事はない。ノリの悪さに無口と無表情。何を考えているのか本当にさっぱりわからないまま現場の待機場所にたどり着いた。  持ち時間は5分。躊躇っている暇はなかった。愛の言葉はおろかムードもへったくれもなく雄同士で向き合う。ユーリは上から言われるまま同性の、それも妖魔種なら誰もが嫌う獣種臭い唇をすんなりと受け入れた。  任務上のことだ。フェンヴァーンは呪文のように心の内で繰り返した。  季節に関係なく代わり映えのない服装に、ズボンはいつ見ても同じジーンズ。地色は青かなんかだったのだろうと思われるスニーカーは薄汚れて元の色はもうわからない。白い頬に目立つ雀斑。肉付きの悪そうな細い身体にペタンコの胸。  何より業務上の相棒(バディ)。  性的にそそられる要素は何一つもない。  上からの命令。だから本気で女を堕とすつもりのキスをするだけ。  感触そのものは男でも女でも変わらない。中途半端に下半身が(たぎ)ったら仕事終わりに即クラブへ出かけて、ナンパした人間の女の子相手に口直ししよう。ここへ来るまでの車の中でずっとそう思っていたくらいだ。  なのに交わした唇は極上に柔らかく、甘く、芳醇な血と肉の味がした。そこいらの上等な雌なんか足下にも及ばない。  完璧な人の姿に隠した獣の本能が涎を垂らした。業務上の行為だ。フェンヴァーンは理性的に言い訳しながら、らしくもなく余裕を失って夢中になった。  目の前の冴えない男を腰砕けにしたら、すぐさまセーフハウスに攫って、閉じ込めて、文字通り食らいつくしたい。その欲望に耐え続けた。  そしてそれは何もフェンヴァーンに限らなかった。獣族種にとって、妖魔系上位種(吸血鬼)は最高級の『餌』だった。

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