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1.飢えた狼と誘惑の果実 ②
月のない真夜中の空と海。真っ黒なキャンバスに眠らない製鉄所のライトが遠くで白く線を描く。潮の香りが重く漂い、波の音だけが規則正しく耳を打つ。海風が遠くを眺めるユーリの長い前髪を揺らした。
「こんばんわ、お嬢ちゃん。こんな時間に一人ぃ?」
暗闇の中から声がかかる。足音は6人分。全員男性。彼らの呼気からは酒と、煙草と、血と、懐かしい故郷 の匂いがした。
ユーリは振り返る。人間の目では決して捉えることのできない暗闇の中で、彼ははっきりと対象者の輪郭を捕らえていた。もちろん相手もその中でユーリを視認している。
年齢は平均10代後半から20代半ば。身長はユーリよりも少し高く、比較的筋肉質。タンクトップやTシャツなどの薄手の上からボリュームのあるダウンジャケットを纏っている。ちゃりちゃりという音は彼らの首や耳を装飾する金色のアクセサリーからだ。一人がポケットからスマホを取り出す。その灯りが吹き出物と犬のように長く伸びた髭が目立つ顔を照らした。
「いい匂いしてんね。なんの香水使ってんの?」
「これって香水? 俺てっきり媚薬ふって客誘ってんのかと思ったわ」
「ね、いくら? 金ならあるよ。なんだったら気持チヨクなれるキャンディもあるけど?」
男たちはにやにやと笑ってユーリを取り囲む。すぐに男たちによってユーリは隠されてしまった。
スマホを持った男がライトを無遠慮にユーリへ向ける。目が眩んで一瞬ユーリが顔を背けると、その長い前髪を男の一人が無遠慮にぐいっとかきあげた。
「ん~天使ちゃーんじゃ~ん!」
「え、これって女? 男?」
「ちょっと化粧したら高く売れんじゃね?」
「ね、君、こんなところで立ちんぼよりもいい稼ぎあるんだけど、話だけでもしない?」
「大丈夫だって。怖くないって。俺ら優しい男だからさ」
「ここ寒いじゃん。向こうに車あるし、あったかいところで、ね?」
男たちは次々にユーリの腕や肩を掴んで、彼らが元来た方向へと無理やり連れ去ろうとする。
ユーリは抵抗しない。声も出さないし、嫌がるそぶりも見せない。その上、男たちが全員で彼に力をかけるのだが、微動だにしなかった。
「人を……探している」
ユーリの身体がだんだんと黒く染まっていき、その輪郭が夜の闇の中へ溶けていく。溶けた霧は男たちの包囲網をするりと抜け出て、すぐ近くの別のところでまた同じ形をとった。
「正確には人ではないな。私の同族を探している。この辺りで人間相手に『商売』をしていたようだが、ぷつり、と姿が消えた。お前たち、知らないか?」
灯りのない真っ暗な空間で、男たちはまっすぐにユーリを睨みつける。ぎりっと食いしばった口の端から、鋭い獣の歯が見えていた。
「なんだお前、あいつらの仲間か?」
「仲間ではない。同族ではあるが」
ユーリは静かに言った。
「さらに言うとその同族の越境者どももこの際どうでもいい。それよりも彼らの中に潜入していた者を探している。とりつけたGPSの最後の場所がここだった」
「知らねえな」
「……その口についている血。我が同族のものだな?」
ユーリはすいっと上げた指先で男たちの一人を指さす。
「人間界における越境者及び人間に対する食殺行為はソロモン法第1998条に抵触する。また他の者もその手に、性器に、我が同族と多数の人間の体液の匂いが付着している。お前たち、ここにいた者たちを凌辱と拷問にかけたな?」
「ああ、思い出した。一人、最後まで何も吐かずに命乞いだけして、しくしく泣きながら天国にイッたやつがいたなあ」
「越境者はいいや。妙にしぶとくて」
男達はユーリにむかって下品に笑ってみせた。
彼らが殺したのは越境者側に潜入していた警備課潜入班の内偵捕追士 だった。長くに渡って違法越境した吸血鬼集団に潜入していたため、誰ももう彼について詳しくしらない。けれどもユーリらにしてみれば立場上仲間である。
それを残酷に失った。その事実を前に、ユーリは表情をぴくりとも変えなかった。
「予定へ~んこ~う!」
男の一人がその場には不似合いな明るい声で高らかに宣言して、ダウンジャケット脱いだ。
「誰かしらねえが、そこまで知られちゃあこっちとしても生かしとくわけにはいかねえんだわ。もったいないけど、ここで食っちゃお~ね~」
男は手にしていた赤い球を口へと放り込む。ごくん、と呑み込んだ直後、めきめきと音をたてて男の背中や肩が盛り上がっていった。
鼻から口が前へ伸びて、白い牙を持った口が耳まで裂ける。全身が銀色の獣毛で覆われて、四肢の先に鋭い爪が現れた。
人狼 。
本来であれば人間世界には満月の夜にだけ現れるはずの姿が6体、ユーリの前に立ち塞がった。
「普通の人狼じゃああんたたち吸血鬼を捕まえるのはなかなか骨らしいけど、銀狼は違う」
「牙の一噛みで呪的効果は失われ、急所を食らえば吸血鬼だって必ず絶命するってな」
「そうやって、ここいらにいたやつらは皆やっちまったんだ。力試しでな」
「絶品だったぜ。どんな年若いクソガキでもなあ」
「あんたほどいい匂いなら、きっと極上の味がするんだろうな」
「四肢を噛み砕いて自由を奪ってから、じっくり胎中 を味わってやるよ」
フットワーク軽く6体の人狼がユーリの周りを取り囲んだ。
「さて……どうするかな」
のんびりとユーリは呟く。
この場で本気を出して彼らの命を奪うことがユーリにはできた。新月の夜は吸血鬼にとって最も闇の呪的恩恵を受けることができるときでもある。
ただその場合、問題となるのは対象となる彼らが生粋の人狼ではないということだ。
彼らが飲んだのは魔薬というユーリ達側の世界の違法薬物で、その効果によって白銀種の人狼となったにすぎない。闇夜の恩恵で暴走でもして誤って殺してしまった場合、ユーリはソロモン法の適用によって仲間に拘束される。続く先はこの世の地獄と誰もが恐れる入界者収容所 送りだ。それは避けたかった。
一回くらいなら、死んでみてもいいか。
霧になって逃げる事はできる。ただその状態は一番無防備なので、それこそ銀狼の一噛みで全魔力を封印されてしまう。あとは嬲り殺しになるから銀狼相手では本来は得策ではない。
だが逃げ足の速い獣族の尻尾はすでにつかんでいる。彼らはユーリの瞳を見たそのときに、吸血鬼の呪いにかかった。即効性はないがユーリの体に夢中になっている間に発動させることはできる。もうここから逃げられない。
その間にユーリは嬲られて死ぬかもしれない。それで殺害、もしくは殺害未遂の現行犯は確定する。現在一帯は完全に包囲されている。自分が死んでも警備課の誰かがなんとかするだろう。ユーリはそう考えていた。
そこへギャウン! という悲痛な犬の鳴き声が暗黒の空へ登っていった。
「ニセモノがイキがるなよ。ガキども!」
ユーリが見上げると真っ黒な夜空をバックに、白銀の豊かな毛並みがきらきらと光を放っていた。
体高は優に4メートルを超え、鼻先から尻尾までの長さは6メートルを超える白銀の狼だ。それが体を低く保ち、牙をむき、鼻先に深い皺を刻んで低く唸り続ける。
その姿に、ユーリの背筋にぞくっとした恐れが走った。
「フ、フェンリル……」
「どうして………マジもんが?」
人狼たちに動揺が走った。満月でなければ本物の人狼族が本性をあらわにして現れるはずはないとたかをくくっていたのだ。
ユーリの頭の中へ、直接トウゴウの怒鳴り声が聞こえてきた。
『フェンヴァーン、まだ出ろとは言っていない! 勝手に本性を出すんだったら、捕追士の仮免取り上げるぞ!』
「人間を、仲間を、無残に殺されて、黙ってろというのか!」
『誰かフェンを止めろ! 確保!』
暗闇がわっと動き出す。一見すると人間のようにもみえるが、彼らは人間の持ちえない爪や牙、尻尾、耳、鋼鉄の皮膚、邪眼などを有していた。
彼らが犯人とユーリの元へたどり着く前にふわりとフェンヴァーンが飛び出す。
またギャウンという悲痛な犬の遠吠えが立て続けに6体分、暗闇の中へ溶けていった。
殴りつけ、踏みつけ、たたきつける音も響く。
骨が砕ける音はすぐに水袋が地面をたたく音になる。
悲痛な叫びは助けを求める呻きへと変わっていった。
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