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2.背中合わせの世界 ①
始末書。
それが事件処理が一通り終わった後でフェンヴァーンに与えられた課長からの処分だった。
「失礼します」
肩を落とし、しおらしい様子で境界管理局 警備課長室と書かれたオフィスの扉をフェンヴァーンはそっと閉める。
手には課長から直々に渡された真っ白な始末書の規格用紙が10枚。できるまで庁内からは一歩も出さないと、貸与されていた捕追士のバッジを取り上げられた。
しんと静まり返ったリノリウム張りの廊下を歩く。
前を見ても後ろを見てもその先は見えない。廊下の片側の壁には同じような扉と中の組織を示す局課名と班名、または会議室名が書かれた札がいくつも等間隔で並んでいた。
足を止めて嵌め殺しの窓の外を眺める。
深い青の水界を大きなマッコウクジラが泳いでいた。
隣の窓には白い砂漠が広がっていて、オレンジ色に熟れた大きい太陽と黒い小さい太陽が黄緑色の空に浮かんでいた。
また別の窓には氷に閉ざされた王国の城があった。
「この世界は……多重次元で形成されている、か」
展覧会の絵を眺めるように大きな窓の一つ一つの世界を見ながらフェンヴァーンは独りごちた。
今生きているこの現実だけが全てではなく、この世界もまた、多重次元の一つに過ぎない。他の世界は多くの童話や伝承に描かれるように、鏡や水面、箪笥の向こうにも存在している。窓に見える世界は全てそれだ。人間世界から『鏡面世界 』と言われていた。
そこには伝説や神話でしか語られない種族――天使や悪魔、妖怪、妖魔、そして神――が次元の壁を隔てて息づいている。
人よりも格段に力あるそれらの異種族たちによって、かつて人間世界は襲撃と侵略を受け、時に他次元へと誘拐され、時に命を失った。
力なき人間たちは自衛と報復のために鏡面世界 の住人達に対抗する為の様々な呪法を開発し、時に彼らを召喚し、使役し、隷属させた。
そうやって抗争と報復と無秩序が繰り返されること数千年。
今より約三千年の昔、次元の境界を巡る対立と復讐の連鎖を止めるべく、双方の世界にある協定が結ばれた。
銀の契約、またはソロモン法。その名前は七二柱の悪魔族を従えて初めて神と呼ばれる存在との交渉を成し遂げた人間の男の名からとられていた。
契約により人間世界と鏡面世界 という背中合わせの世界には呪的な境界が生まれた。
そしてその境界を維持管理する組織として鏡面世界 側には維持聖府が、人間世界側には秘蹟聖庁が発足した。
フェンヴァーンが所属するこの境界管理庁とは両組織の外局という位置づけになる。
場所は境界上のどこかにあり、双方の世界から様々な種族が出向者として所属している。当然利害関係から身の危険も考えられる。なので防犯上の観点から扉という物理口はない。境界管理庁が定めた身分を示すバッジによって、ありとあらゆる扉、水面、鏡などを出入り口に変えて移動する。だからバッジを奪われてしまうとこの建物の外へは一歩も出られなくなった。
ふと、廊下の先で窓の一つを眺める人影をフェンヴァーンは認めた。毛玉だらけの白いタートルネックセーターに色あせたジーンズといういつもの格好はユーリだ。
「ユーリ」
フェンヴァーンは声をかけて足早に近づく。その姿を認めた彼の手にも始末書用規格書類があった。
ユーリの表情は相変わらずぼさぼさの長い前髪のために伺えない。フェンヴァーンは彼の見ていた窓の外を見る。霧にけぶる墓地だった。
「ここは?」
「霧の里 。妖魔種の故地だ」
ユーリは抑揚なく言った。
普段からフェンヴァーンの話を聞いてはくれるけれども、「ああ」「うん」「はい」「そう」ぐらいしか返事がない。知り合ってもう1年になるのだが、身形の幼さに比べ意外に深みのある声だったことにフェンヴァーンの耳がピクリと動いた。
霧の里では黒いドレスの女性が神妙に白い墓石を眺めていた。
「あれは……亡くなった奴の、親族か?」
「そう」
いつも通りの返事でユーリはじっと窓の外を眺めた。
彼も、墓地の前に立つ吸血鬼族と思われる女性も、表情は乏しい。『古き血族』と呼ばれる種で、比較的寿命が長いせいだ。
吸血鬼族は長すぎる生を、いつからかほぼ故地である霧の里から出ることもなく過ごしていた。変化も刺激も極力少ない中に適応してしまうと、生の実感である感情の泉が枯渇してしまう。彼らが生きる死者 とも言われる理由だった。
「あんたの知り合い?」
「いや」
「じゃあなんでじっと見てる」
「自分の力不足を……忘れないためだ」
ふいっとユーリは窓から視線を逸らす。廊下を歩いていこうとするのを、フェンヴァーンは追った。吸血鬼を冷酷なだけの一族だと思っていたから、彼らでも感じることはあるのだと少々興味がわいた。
「あんた、もしかして弔いに行きたかった?」
「ああ」
「でもその始末書があるってことは、バッジを取り上げられたな?」
「君も、だろ?」
ユーリがちらっとフェンヴァーンを見上げる。
前髪の間から透けるようなプラチナブロンドの長い睫毛と、氷を思わせる透明度の高い青みがかったシルバーの瞳が見えた。それが一瞬だけフェンヴァーンの金色がかった緑の瞳とぶつかる。
ふっと、意識が遠のくような感じをフェンヴァーンは抱いた。熱に浮かされて体がふわふわとしてしまったような感覚。ぽーっとして、顔が少し火照った。
それを見るユーリの瞳がほんの刹那だけ動揺にゆらいですぐに逸らされた。
「あ……それって、俺の、せい?」
「ちがう。今回も勝手に現場へ出たからだ」
ユーリはフェンヴァーンを取り残し、さっさと先を歩いていく。フェンヴァーンは慌てて後を追った。
「あんたって、もしかして現場に出るたびに始末書書いてる?」
「ああ」
ユーリはぶっきらぼうに言った。
死にたがりのユーリ。
それが境界管理局 での彼のあだ名だ。
彼は警備課に所属しているが、フェンヴァーンのような現場仕事の捕追士とは身分が違う。第2局付の弁務官という法律専門官だ。ソロモン法および人間界の法に触れる行いを職員がしていないか、した場合どのように糾弾者に対して抗弁し、社会的信用を挽回するのか。そういった時の法的助言をする立場にある。本来は現場になど出ない。
なのにユーリは現場に出たがる。特に最も危険とされる反境界純血至上主義集団 の関わる事件に。
しかしもともと現場に出るための訓練を受けているわけではないので、彼の命は簡単に危険にさらされる。それを守る者はさらに過酷な状況に置かれるわけだからたまったものではない。そこからあだ名がついた。
このトラブルメーカーが境界管理庁へなぜ採用されたのか、なぜクビにならないのか、その理由を少なくともフェンヴァーンは知らない。知らないがどうにもクビに出来ない理由が組織の上のほうや維持聖府側の御歴々にはあるらしい。
持て余した挙句、人狼は仲間への情が深いんだろ、と身柄がフェンヴァーンヘ押しつけられた。フェンヴァーン自身単独行動 が多く、成果もあげるが被害も苦情も多いから、その足かせとしての意味合いもあった。
「知ってる? 俺たちの事をみんながなんて呼んでるか」
「始末書バディだろ」
「知ってたんだ」
フェンヴァーンはははは、と笑う。実はここまで話が弾んだのは初めてで、それがなんだか嬉しかった。
「ありがたいことに、あんたと組み始めてから減ったけどね」
というのも、何かしようとするとユーリが法的な観点から「待て」をかけるからだ。細々とは言わない。ただ「待て」とか「ダメ」である。それで多少は損害が減ったのだから、上層部の睨んだ犬の躾程度の効果はあった。
フェンヴァーンとしては言われるたびに現場に出る権限がないはずの彼が出ていくのは庁内規則的にどうなんだ、と突っ込んでやりたくはなる。が、始末書を書かされるのは極力避けたいのでそれはそれとして有難く聞く程度の謙虚さはあった。
『フェンヴァーン、ユーリ、庁内にいるか?』
警備課強襲班長の呪声が耳の奥から聞こえて二人は足を止めた。
「Ya! っていうか、出られないからいるしかない」
『課長にバッジを取られたのは俺も同じだ。そういうときこそ昨日のブリーフィング 。警備課第14会議室集合』
「了解」
「すぐに捜査へいけるわけでもないのに?」
『だったらとっとと始末をつけろ。俺は書き終わったからな』
ふふん、と鼻で笑うような口ぶりでトウゴウの呪声が途切れる。フェンヴァーンは肩をすくめてユーリを見た。
「鬼の首を取ったみたいに言うね。自分が鬼族 のくせに」
皮肉めいた冗談を言ってみる。昨日もこの程度の事を車の中でユーリには話していたが、ほぼ無反応だった。
今もスルーされるだろう。
そうフェンヴァーンは思っていた。
「はは……」
小さな笑いが聞こえた。手で隠したユーリの口元が笑っていた。
吸血鬼でも、笑うのだ。
その発見がフェンヴァーンには嬉しくて、ユーリの顔を少々浮かれ気味で覗き込むようにして見た。
「もしかして……昨日の車の中……緊張、してた?」
ユーリは何も言わない。前髪に隠れて視線はわからないが、顔の角度を少しだけフェンヴァーンに隠すように傾ける。その様子がなんだか恥じらっているようで可愛らしかった。
フェンヴァーンはするっとユーリの頬に手を添える。震えてもいなければ、抵抗する気配もない。すべらかな頬はすこしひんやりと感じられた。
「キス……して、いい?」
フェンヴァーンは熱く湿った声でユーリの耳元へ囁く。
顔を上げたユーリの眉間に、深い困惑の皺が刻まれた。
「何の理由で?」
「いや、その、なんか、こう……あんたが可愛くて、たまらなくなった」
「君は可愛いと思った相手には節操なくキスするのか?」
「まあ、その場の、ノリ……で?」
「今、この場の、流れで、どのあたりに、そのノリ、とやらがあった?!」
「俺の中では、あった。いや、ごめん。ここ職場だった。セクハラだな。うん。忘れて」
どうかしている。いつもなら職場でそんな気分になることなどないのに、流れるようにいつものナンパ癖が出た。
フェンヴァーンは自分の性癖が遊び人であるのを知っている。けれども公私はきっちり分けるくらいのけじめは持って居る自負はあった。そのルールを踏み越えようとしてしまった自分を叱りつける。
吸血鬼なのがいけない。おいしそうな匂いがいけない。しかし彼は『餌』じゃない。忘れるな。大切な同僚で相棒だ。
心の内で線引きを仕切直していきり立つ欲望を宥め、ユーリの頬に沿えた手をそっと引き抜いた。
「さ、行こう。第14会議室」
くるっと背中を向けてフェンヴァーンは足早に去って行く。
ユーリはその背中を少しだけ見つめてから、すぐ後をついて歩き出した。
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