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第1話

       包み紙の音に紛れて  始業のベルが鳴る前の教室は、まだ半分眠っていた。  カーテンの隙間から秋の光がこぼれ、机の角を浅く照らす。  星乃來夢は鞄のポケットに手を入れ、掌で飴の感触を数えた。  包み紙が小さく鳴り、指先に星座の欠片みたいな震えを残す。 「おはよ。ミントとレモン、どっちにする?」  隣の席に差し出すと、友人は寝ぼけた顔でレモンを選んだ。  前の席にはミント。  廊下をうろついていた後輩には酸っぱいやつ。  誰かの口の中で砂糖が溶けていくのを思うだけで、自分の胸の固さがほどける気がする。  だから來夢の朝はいつも、飴を配ることから始まる。  黒板の前を横切ったとき、見慣れない一年が目に入った。  制服の襟はきちんと閉じ、ネクタイの結び目は寸分のずれもない。  名札には、神城。  背が高く、真面目そのものの姿。  視線がぶつかると、睫毛がわずかに揺れた。 「一年生? 転クラス?」  來夢が笑って飴を差し出す。  彼は一瞬迷ったあとで受け取り、深く頭を下げた。 「……ありがとうございます。星乃先輩」  敬語の線が硬く、それでいて震えている。  包みをほどく指は几帳面で、角が擦れる音がやけに鮮明に響いた。  飴を舌にのせるその瞬間、來夢の喉がつられて動いた。  ベルが鳴る。  席に戻るあいだ、背中に微かな視線が触れた気がした。  振り返ると、神城はもう前を向いている。  机の端に残された空の包み紙だけが、ガラス片みたいに光っていた。 ◇  昼休み、渡り廊下は人影がなく、砂の匂いを含んだ風が吹き抜けていた。  來夢はポケットから飴を二つ取り出す。  苺とぶどう。  迷う仕草をして苺を自分の舌にのせ、ぶどうを指先で弾かせながら歩いてくる影に向けた。 「神城くんは、こっち」  差し出すと、彼はわずかに眉を動かし、静かに受け取る。 「……俺なんかが、もらってもいいんですか」 「“俺なんか”って顔じゃないよ。  結び目が真っ直ぐな人は、ぶどう色が似合うの」  神城は黙って包み紙を親指で撫でた。  光沢が指に沿って移動し、紙の端がさらりと鳴る。 「星乃先輩は、誰にでも飴を配るんですか」 「たぶんね。配るの、好きなんだ」 「……俺にも、毎日ですか」  敬語の端が少し強まる。  來夢は笑ってうなずいた。 「毎日がいいの?」 「——はい。できれば、俺だけに」  苺の角が舌で丸くなっていく。  神城はまだぶどうを舐めず、包み紙を四角く折り畳んでいる。  手のひらに小さな四角が整列していく様子が、几帳面すぎて可笑しかった。 「じゃあ明日から“神城くんの分”ってラベル貼っとく」 「ありがとうございます。……星乃先輩」  名前を呼ぶ口の形が、紙よりも丁寧で、震えを帯びていた。 ◇  夕方の教室は、椅子の擦れ跡だけが残っていた。  來夢は黒板の粉を指で払い落とし、ポケットを探る。  残っていたのは二つ。  レモンと——棒付きキャンディ。  包みの上からでも分かる、少し重たい感触。 「今日のぶどう、すごく旨かったです」  入口に神城が立っていた。  敷居のところで足を止め、部屋の境界を越えない真面目さが、見ていて少し笑えた。 「よかった。じゃあこれはレモン」  棒付きの重さを指で示すと、彼の目がわずかに揺れた。  來夢はそれをポケットに戻し、レモンを差し出す。 「明日からは君のラベル、ちゃんと作るから」 「……すみません。いえ、ありがとうございます」  言い直す律儀さが、飴よりも甘い。 「棒付きのは」  彼が珍しく一歩、境界を踏み越えてくる。  來夢は笑って、棒の固さを指越しに確かめた。 「一本だけ、たまたま。特別ってほどじゃない」 「特別じゃないんですか」 「うん。長く舐めててほしい日もあるから」  言ってから自分で赤面する。  神城の耳も淡く色づいた。  包み紙はまた小さな四角に折り畳まれていく。 「俺、明日からも来ます」 「うん。来なよ。——で、お願いって?」 「俺にだけ、ください」  敬語の線がわずかににじむ。  來夢は舌の上の苺の甘さを嚥下し、「明日考えとく」とだけ返した。  四角が一つ崩れ、彼は慌てて拾う。  その不器用さが愛おしかった。 ◇  下校のチャイムが遠くで響く。  階段の踊り場は鉄の匂いを帯び、手すりは冷えていた。  來夢はポケットの中で棒付きキャンディを転がし、角が指腹に当たる感触を楽しむ。  靴音が近づき、神城が段差の下に立った。  見上げる位置関係で、睫毛の長さがはっきり分かる。 「約束の件」 「うん」 「待ちます。……でも、俺は毎日来ます。  ラベルが本当に俺の名前になるまで」  敬語の端が少し崩れ、すぐに戻る。  來夢は包みをひねった。  継ぎ目が月の欠け目みたいにほどけ、砂糖の香りが薄く立つ。 「これは、まだ君のじゃない」  棒の先を軽く宙に振って、すぐポケットへ戻す。  神城の肩がわずかに落ちる。  來夢は一段降りて距離を縮め、視線の高さを揃える。 「でも、明日のぶどうは君の」  それだけを残す。  神城は深く息を吸い、吐息が來夢の前髪を揺らす。 「……ありがとうございます、星乃先輩」  靴音が規則正しく遠ざかる。  來夢は手すりの冷たさで指先を冷やし、ポケットの棒の硬さを確かめる。  答えは、まだ糖衣の奥に隠したまま。  包み紙の角が金属の光を反射し、音もなく指に触れた。 ――第1章おわり―― ⸻ 🌙 次回予告 第2章|放課後の苺味  夕暮れの教室で交わされる、小さな苺の飴。  敬語の後輩が口にしたのは、思わず胸を鳴らすひと言。  ——「できれば、俺だけに」  次回、ふたりの距離がもう一段、近づきます。

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