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第一話-1

 大人になった地大(ちひろ)くんと再会した時、地大くんに好きになってもらうために、それまでの約十五年で、次みたいな努力をします。 ①まず、中学校と高校で成績上位十人に入ります。そのために、一日三時間勉強します。 ②運動もしっかりして、体をきたえます。ジョギングと筋トレを毎日します。 ③家事もできるようになります。おいしい料理を作れるようになります。そうじも毎日します。 ④結婚しても地大くんを幸せにできるように、お金に困らない仕事をします。  大人になった地大くんは、大人になったぼくを好きになってくれます。そして、地大くんと結婚します。    * * *  ──地大くん。  小学生の頃、三年生の短い間だけ、仲がよかったクラスメイトがいた。大人しいけれど面白くて、無鉄砲な自分をキラキラした目で見ていた。その美しい瞳を、地大はよく憶えている。  ──なに、(のぞむ)?  あれは、いつだったか。放課後の西日が橙色に世界を染めていた。小さな秘密を分け合うように、彼は告げた。  ──地大くん、ぼくね……。  その笑顔に、掴まれた。地大の心臓が、速く鳴る。身体の中でドッ、ドッ、と重い音が響いて、彼の声以外を遮断した。  ずきり  それとは違う、殴られたような痛みが頭の中で響いて、思い出す。  自分はもう小学生ではなくて、二十七歳のいい大人であること。あれからしばらくして、彼は家庭の事情か何かで別の学校に転校していったこと。それ以来、一度も会っていないこと。  ああ、イヤだな。  瞼を持ち上げると、くすんだ天井が映った。  ここは、自宅ではなく、バイト先のゲイキャバのオフィスであること。  全身の筋肉が固まっている。オフィスに置かれた革張りのソファーは、寝心地が最悪だった。それでも、雨風をしのげるのだから文句は言えない。 「あぁ、やーっと起きた」  地大が上体を立てると、隅のデスクに向かっていたオーナーが振り返る。まったく、と棘のある視線を残して、オーナーはデスクへと向きを戻した。  鈍痛に渋い顔をして、地大はソファーから足をおろす。リノリウムの床が冷たい。 「雨降ってる?」 「もう梅雨入りだからねぇ」  窓のないこの部屋から、外の様子は窺えない。しかし、その言葉と蒸し暑さに、地大の全身にかかる重力が増した気がした。  頭の内側からは、疼痛がアラームのように鳴り響く。  いつからだろう。雨が降ると頭が痛くなるのは。子どもの頃はなかったはずなのに、いつから不調をきたすようになったのか思い出せない。  そこから意識を逸らすように、地大は伸びをした。 「だっる」 「ヒロくん、ほらぁ、今日、あの社長来るよ」  あの社長、と言われて、地大の脳裏に上客の顔が浮かぶ。 「ああ、ええと、伊佐治(いさじ)さん? わーい、じゃあキレイにしとかなきゃー」  地大が浮ついた口調で笑うと、オーナーは面倒くさそうに顔をしかめた。 「ちょっとぉ。ヒロくん、お客さんと関係を──」 「持つのはNG。わかってるって。じゃあ、シャワーいってきまーす」  入口付近の棚に置いたお風呂セットを掴むと、地大はオーナーに投げキッスを送った。嫌味のつもりはなかったが、オーナーはそう捉えたらしい。 「ヒロくんさぁ、私物散らかさないで。あと、来月も居座るってんなら、売上から引くよ」  閉まりゆく扉の向こう、オーナーは早口な小言を零し続ける。  がちゃん。  鉄の扉が完全に閉まると、開店前のフロアは奇妙な静寂に包まれた。  夜の店が入るビル街を抜けて、住宅街へと足をのばすと、都心の繁華街には珍しい昔ながらのコインランドリーがある。使い古された洗濯機や乾燥機の音が響く奥に、狭いシャワー室が設置されていて、百円玉を入れると三分だけシャワーが出る仕組みだ。  地大は鍵を閉めて、狭い脱衣所で服を脱ぐ。硬貨の投入口に百円玉を二枚差し込み、熱い湯を浴びると、頭痛が和らいだ気がした。  地大が働くゲイキャバクラ『ガニメーデ』はホストクラブと同じ接客サービス業に分類されるため、客との性的な接触はしない。アフターでホテルに行くことも禁止されている。いわゆるウリ専ではないし、ボーイズバーでもない。ゲイが接客するキャバクラ、そのままの意味だ。  かと言って、近い距離での接客なので身なりには気を遣った。客によっては肩や腰を抱いてきたり、密着して隣に腰掛けることもあった。  気温と湿度が急激に上昇するこの季節、楽しい時間を買いに来た客を現実に戻してはいけない。オーナーは細かいところまで口をすっぱくして注意する。  身体をタオルで拭いていると、ピコン、と通知音が鳴った。画面が立ち上がったスマホを確認する。 『藍原(あいはら)(あめ)()』という表示名に、地大の頬が緩む。祖母だ。  地大は濡れた指のまま、タップして詳細へと移った。  メッセージアプリには、様々な写真が並ぶ。巨大なモスクの入り口、真っ青な海と白い家々の風景、見渡す限りのオリーブ畑、名前も知らない料理が埋め尽くすテーブル。その全てに、笑顔の祖母がいた。 「こっちは毎日新しいものだらけ! 目まぐるしくて、楽しい! 地大はどう? ちゃんと暮らせてる?」  写真の最後についていたメッセージに、地大の指は宙で止まった。  しばらくして、画面上のキーボードを操り始める。 「こっちは友達んちに泊まってるし大丈夫! 迷惑かけてないです! 工事も順調だしね」  現在、祖母と暮らしていた賃貸併用住宅は改築工事中だ。この機会にと、祖母は地球一周旅行に出掛け、地大も自動的に別の場所に泊まることになった。  まさか、バイトをしているゲイキャバクラのオフィスに間借りしているとは言えず、小さなストレスとともに祖母に嘘を吐いている。  メッセージを送信して、画面についた水滴と一緒に罪悪感をタオルで拭った。

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