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第75話 順調すぎて、困る
日比野は困っていた。
それはもう大いに困っていた。
——自分でも理由がわからないままに。
仕事は相変わらずで、それなりに忙しく過ごしている。
そして高村との関係も、うまくいっていると言っていい。
いやむしろ、仲が良過ぎるくらい。お付き合いってこんなに幸せなものだったっけ…ってくらい、順調だ。
この前だって、
「…ねぇ、そろそろ名前で呼んでもいい?」
高村が、ソファで雑誌をめくる隣の日比野の横顔を少し覗き込むように見て微笑む。
「…え、あぁ…別に、呼んでもいいよ?」
断る理由などどこにもなく、簡単に答える。
高村は少し目を細めて、口を開いた。
「良かった。…慧(さとる)」
そっと愛おしそうに優しく頭を撫でる手も、低く甘い声で呼ばれる自分の名前も、日比野の顔を赤くさせるに十分な破壊力だった。
「………なんか、」
赤い顔を見られたくなくて少し目線を逸らしながら呟く。
「なに?」
「…高村って、甘くてずるい」
日比野が赤い顔を背けて呟く言葉に高村はふは、と声を出して笑った。
「なにそれ。…っていうか、俺も名前で呼んでほしいな」
日比野が高村のほうに顔を戻すと、期待に満ちた目と目が合ってしまった。
一度深呼吸をしてから、
「……翔央(しょう)…、やっぱり恥ずかしいな、これ…!」
さらに頬を赤くした日比野が俯く。
「……前にもやったよな、これ…」
「うん。俺がゲームで勝ったときにね」
あの時はまだこんな関係になるなんて思ってもいない時だった。
「……なんか、ずっと名字呼びだったから慣れないな…。慣れたら慣れたで職場で間違って呼んじゃったらどうしよう…」
日比野の言葉に高村が微笑んで抱きしめる。
「無理に変えなくてもいいよ。日比野のタイミングで。
…でも、会社で間違って名前で呼ばれるの、可愛過ぎるな…ちょっと聞きたい」
髪や耳の辺りをすりすりと撫でられて、日比野は少し身を捩りながら高村の顔を見る。
「お前な…困るだろ?」
「そう?別に気にならないよ」
相変わらずの整った余裕の笑みに、日比野はまた少し頬を染める。
「もう…甘すぎ。本当に…」
「惚れ直したでしょ?」
「うるさい、もう…」
そうして、ふと目が合って——軽くキスを交わす。
そんな穏やかな午後の時間。
…そう、何もかも順調だ。
——むしろ、うまくいき過ぎているくらいで…困っている。
困っているのは、そこから先の——簡単には言えない話だった。
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