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第9話
南の主要都市アルベは、東の森都ヴェルドジェーリュを行くのに必ず通過する商業都市である。商人の出入りの激しいアルベは、北の果ての氷獣の毛皮から、西の王都の流行りの菓子まで、様々なものが入り乱れ、活気に溢れている。
桂樹は緋桐をべったりと背中に張り付けたまま、行きしに使った宿屋の扉を叩いた。
恰幅のいい宿屋の主人は、目付きの鋭い強面の男を覚えていた。ただ、その男の後ろに隠れるようにへばりついたマントを纏った人物には目を瞬いた。
三、四日したらまた来ると、一度彼は宿を引き払っている。その時誰も連れていなかった。アルベは商人も旅人も多い。中には訳ありの者もいる。詮索は御法度なのは商売上常識であるが、宿屋に入ってもなおマントを頭から被っているのはいただけない。宿の安全を守る義務が主人にはある。正体不明の相手に宿は提供できない。
マントを被ってもなお小柄で華奢なのが伺えることから、女性かもしれない。
「お嬢さん、マントは脱いで大丈夫ですよ」
それは、何気ない動作だった。
女性かもしれない相手に不用意に触れるつもりなど、主人にはなかった。ただ、マントを預かろうと主人の肉付きのいい手が緋桐に伸びた。
刹那。
パシンっと、はねのけるように主人の手が振り払われた。
大きな動作で動いた頭から、はらりとフードが外れる。
煌めくような白銀の髪の隙間から、射るような緋色の瞳が主人を睨めつける。
ざわりと店中がざわついたのは、払いのけた音の大きさか、それとも黒づくめから現れた少年の美貌か。
一瞬にして注目を集めた少年の瞳が、不躾な視線に耐え切れずにわかに気色ばむ。
「こら」
視線だけで射殺せそうな怒気を孕む緋桐の銀糸を、桂樹が諌めるように軽く小突く。ついでにと、ごく自然な動作でフードを被せ主人に向き直る。
「すみません、人に慣れていないので……」
愛想はないが、誠実そうに桂樹は主人に頭を下げた。
一見強面で目付きの鋭い男だが、桂樹はきちんとした客である。商業の街として栄え、宿場町としても機能するアルベは、腕っ節のいい荒くれ者が集まることも少なくない。酒場を兼任していれば、質の悪い連中というのが一人や二人はわくものだ。
だが、三日ほど前に宿を取ったこの男は、強面で愛想がない外見とは裏腹に、礼儀正しく身なりもきちんとしていた。その外見から絡まれている場にも出くわしたが、暴力的な振る舞いも一切なかった。それどころか、少し話した後には一杯彼らと飲んでいた。
面倒のない客は大切である。そして面倒のない客の連れもまた、大切である。宿屋に入ってもなおフードを被る理由が、垣間見てしまった美貌ならば理解できる。
「いいえ、いいえ! こちらこそ無作法を!」
途端に訳知り顏になった主人は大きく首を振り、満面の笑みを浮かべて桂樹に部屋の鍵を手渡した。
桂樹はありがとうと礼を言ってそれを受け取るが、主人の笑みに何かしら含むものを見て眉をひそめる。だが問いただすほどのことでもないので、訝しみながらも緋桐の肩を抱いて部屋へと向かった。
主人の笑みの意味は、部屋へと入った瞬間にわかった。
酒場併設の宿屋というものは、総じて値段が安いものだ。経費を抑えたい商人はもちろん、一見の旅人が安く雨露を凌ぐ場所だ。そのせいばかりではないが、客室はどの宿でも質素なものだ。一人用から家族用、雑魚寝上等の大部屋と、部屋の広さに種類はあるが、調度品は必要最低限かそれ以下だ。
桂樹たちがあてがわれた部屋も、他とどう変わるものでもなかった。狭い部屋に無駄に大きな寝台が鎮座している以外は。
存在感を主張する寝台の大きさに、桂樹は深々と溜息を吐いた。
夫婦用の、言わば同衾を強いる仕様の部屋だ。緋桐の小柄さとうっかり露見した美貌のせいで、桂樹は嫁を連れて帰る旅人だと認識されたようだ。普通の客室にはない、簡易ながらも風呂場までついていれば疑う余地はなかった。
元より二部屋取るつもりはなかったが、同衾するつもりはなかった。そう思ってからハタと、天幕では同衾も同じだったかと思い至った。ここで下手に部屋の変更を申し出ても変に誤解を招きそうだった。
とりあえず寝床は確保したと、背負っていた荷物を下ろす。
「緋桐」
呼ぶと、一拍後自分が呼ばれていたのだと気付いたようにゆるりと顔がこちらに向く。緋色の瞳が、先の言葉を待つようにひたと桂樹を捉える。
顔に表情を乗せない代わりに、緋桐の鮮やかな瞳は雄弁に語る。主人の手を払い退けた時のような、あれほどの激しい嫌悪と憤怒を見せたことはなかったが、彼の目はいつだって警戒に満ちている。
「せっかくだ、湯浴みして来い」
手を伸ばして、頭を撫でるようにフードを外す。漆黒のフードから現れた白銀の髪は目に眩しいほどで、知らずに桂樹の群青の瞳が細められる。
「それから君の服を買いに行こう」
不用意に手を伸ばして逃げられなくなったのは、ほんの少し前だ。警戒が緩んでいることに変に浮かれながら、緋桐を風呂場へと追いやる。彼が扉を閉めるのを見届けてから、桂樹は大きな寝台に腰かけて一つ息を吐いた。
考えることが、山ほどある。
東の森都ヴェルドジェーリュまでの道程、日数、装備、食糧。そして一番重要な仕事である、報告書の作成。その特筆事項に、緋桐のことを書かないわけにはいかない。そのために彼を同道しているのだ。
桂樹が見た一切をありのままに書くにしろ、緋桐から経緯が語られることがないので、物としては不出来なものになるだろう。
生き物の棲息を許さない『森 』の中で、木に飲み込まれかけていた少年。ただ美しいだけの木偶のようにも思われたが、今や自立して動き歩き、感情をも見せる。
緋桐の人としての感情の希薄さが目に付くためか、桂樹は未だに『森』の中での出来事を尋ねられずにいた。
カタリと扉が開く音に、桂樹ははっとして思考の淵から戻った。顔を上げると、湯をかぶっただけだろう緋桐が、頭からタオルをかぶってその場で佇んでいた。
うっすらと湯気を纏う緋桐に、桂樹は笑う。
「緋桐、おいで」
猫の子を呼ぶように呼ぶと、彼は意外にも素直に近付いて来た。
側まで来ても、大判のタオルで隠された銀糸の髪も緋色の瞳も見えず、桂樹は寝台に腰掛けたまま彼の頭を引き寄せた。意図を理解した緋桐がわずかに頭を垂れたことに気を良くし、桂樹はわしわしと彼の髪を拭き始めた。
下から見上げると、タオルをかぶったままでも俯く緋桐の姿を見ることが出来た。
上気する頬に、無防備に開いたしっとりと赤い唇。うつむき伏せられた瞳を彩るのは細やかに煌めく睫毛で、典雅に影を落とす。透けるように白い肌はうっすらと色付いて血色がよく、桂樹の大きすぎる衣服からは華奢な左肩を覗かせている。
項から伝った汗が、首筋からつっと鎖骨が作る窪みへと滑った。一筋滑り落ちるだけで溢れた出た雫が、ゆっくりと胸へと滑り落ちていく。
ドクリと腰から背筋に走った何かに、桂樹ははっとして緋桐から手を離した。
俯いていた緋桐が顔を上げ、もみくちゃにされた銀糸の隙間から桂樹の群青色の瞳を訝しげに見つめる。
感情そのものを緋色の瞳に乗せるようになった美しい人形。
それが人であると、桂樹は無理矢理気付かされたのだ。
目が離せなくなる。
繊細で精巧、緻密にして優美に組み上げられたその容貌からではなく、光を宿した明け透けに感情を浮かべる緋色の瞳から。
緋桐の瞳は今も、不思議そうに瞬いているだけだった。多くの人との接触が契機になったのだろう。彼の感情の起伏は、桂樹と二人でいた時よりずっと多い。
こてりと首を傾げた緋色から逃れるようもう一度タオルを被せ、桂樹は寝台から腰を上げた。
彼の回復が早いのは喜ばしいことだが、今は駄目だ。何がどうという訳ではないが、この場所は駄目だと思った。
「よく乾かしておけよ」
低くなりすぎないよう声に気を配り、桂樹は逃げるように風呂場に足を向けた。
ぽつりと取り残された緋桐は、しばらく桂樹の消えた風呂場を見つめた後、ガシガシと自身の頭を拭き始めた。
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