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第2話 居心地が良いのは
カラダと心が解き放たれたように軽い。
優しい光に包まれた温 い宙を、フワフワ漂っているようで心地が良い。
ずっと、このままここにいたいな……
突然、何かが自分に向かって降って下りて来た気がして、崇人はハッと驚きながら目をパチリと見開いた。
ふかふかのベッドに体が沈む感触。シーリングファンのついた見慣れない天井。淹れたてのコーヒーの匂い・・・・・
(え、えっ!?・・・・・どこだ?ここ?)
不安な気持ちが一気に襲ってきて急いでベッドから飛び起きた。体を起こすと同時に、すぐに視界が歪んで頭がクラクラした。まるで船酔いになったみたいに気持ちが悪い。勢い付いて飛び起きたものの、崇人はヨロヨロと脱力して再び力なくベッドへ沈み込んだ。
「起きた?」
頭を少し上げて見えた視線の先にあるキッチンから、見知らぬ男の人がマグカップを片手に近づいてきた。
黒いTシャツとパンツスタイルの背が高くて肩幅の広い男。シンプルな格好ゆえにスタイルの良さが際立つその外見に、崇人は「誰だ?」と思いつつも、ドキリと胸が高鳴って固まってしまった。彼は側まで来ると、ベッドの脇に腰を下ろして崇人の顔を覗き込んだ。
「まだしんどいだろ。だいぶ回復したみたいだけど。このままゆっくり寝てていいよ」
優しく静かに微笑むと、崇人の額に手を当てて熱を測った。大きくて安心する、温かい手のひら。その人肌の温度が心地よくて、思わず素直に言う事を聞いてベッドの中でうずくまる。
「コーヒー淹れたから、飲めたら飲んで。スッキリして目が覚めると思うよ」
ベッド横のサイドボードの上に、運んできたマグカップを置いた。湯気が燻 って香ばしい良い香りが崇人の鼻腔をつつく。
横を向いた彼は、端正で凛々しい顔をしていた。
くっきりしたシャープな顎のラインに、形良く突き出た喉仏。放射線状に美しく広がった睫毛が頬にうっすらと影を落としていて、まるでモデルさながらの絵になる雰囲気の持ち主だった。後ろで無造作に束ねられた肩にかかるくらいの髪の毛から、ぱらりと前髪の束が落ちて、彼の涼しげな奥二重の目元にかかった。崇人はその様子を心臓が今にも飛び出しそうな程ドギマギしながら見つめていた。
(こんなカッコいい人の家で、僕は一体何を――)
彼を見つめながら、うっすらと記憶が蘇って来る。けれど、今は頭痛がして断片的にしか思い出せない。
着の身着のままあのBarから逃げ出して来て、凍える様な寒さに耐えきれず一刻も早く家に帰りたかった。でも、歩いても歩いても何故か駅まで辿り着けなかった事までは覚えている。
それから頭がぼんやりグラグラして全てがスローモーションに感じていた時、そうだ。誰かが僕を担いで暖かい所へ連れて行ってくれたんだ……
「あの!朦朧としている僕を助けてくださったんですよね。ごめんなさい。実は、記憶が殆どなくて……ご親切にありがとうございます。見ず知らずの僕を介抱してくださったなんて」
思い出そうとしてるうちに、崇人は自身の置かれた状況にハッと気づいた。呑気に寝ている場合じゃないと必死に体を起こしてからお礼を伝えた。社会人としてあるまじき行為だ。人様に迷惑をかけた上、見知らぬ人の家で今こうして親切にもてなされているなんて!図々しいにも程がある。顔から火を吹きそうなくらい恥ずかしい。
「え……昨日の記憶、全然ないの……?」
彼は一瞬固まった後、しばし何かを考えてから、恐る恐る聞いてきた。崇人はコクリと静かに頷く。
「すごく心臓がドキドキして、寒いのに体がなぜかとても熱くて苦しかったのは覚えています。でも、すみません。この場所に連れてこられたのはうっすら記憶にあるぐらいしか今は思い出せなくて……今の今まで、僕は熟睡していたんですか?」
「いや……なんて言うか……」
疑う素振りもなく素直に話す崇人を目の前に、彼はバツが悪そうにしながら視線を泳がせた。一旦下を向いてから顔を上げると、崇人の目を見ながら正直に伝えた。
「まぁ、アレだよ。あんた、薬盛られてたんだよ。恐らく催淫剤と睡眠薬が混ざったやつだ。この辺りはそういうレイプドラッグみたいなのが蔓延してるから……」
「ド、ドラッグ!?」
「意識が朦朧としてたろ。薄手のジャケットとシャツだけの格好のまま、うちのマンションの前で蹲ってて、低体温症になりかけてたよ」
「そんな……ほ、本当に?僕、昨日はひとりでBarへ飲みに行って――お酒で記憶が飛ぶなんて今までなかったんです。初めて入る店だったけれど、一杯だけしか飲んでいないし。だから、僕も何か変だなって思って……店を出てからどうやってここまで来たかも正直覚えていないんです」
崇人は酷く驚いた様子で声を震わせながら答えた。気づかぬうちに自分が犯罪に巻き込まれそうになっていた上に、下手したら死んでいたかもしれないという事実にショックの色を隠せなかった。
「まぁ、この辺は治安が良いとは言えないから。一見で手当たり次第の店に飛び込んで入るにはリスク高いエリアだよ。……それで、相当危ない感じだったから水飲ませて吐かせたんだけどさ。全部を抜けきることは出来なくて、その――」
思わず彼は再び下を向いて口籠もった。
真剣に話の続きを待つ崇人に気圧されて、気まずそうにしながら話をつづけた。
「催淫剤がどうしても抜けなくて。それで……あんたがどうしようもなく発情してて、誘ってくるから……手だけ使って、その……色々処理したよ」
その言葉に崇人はガンっと面食らって、言葉を失った。
発情?処理?
思わずベッドの中を覗きこんで自分の下半身を恐る恐る見た。スウェットを着せられているし、別に体も気持ち悪いところがない。むしろなんだか清々しいくらいだ。
昨日、この人にここを触られた?手でされた?見ず知らずのこの人に?混乱する崇人をよそに彼は話を続ける。
「言っとくけど、無理矢理した訳じゃない。そこは勘違いしないで欲しい。かなり辛そうだったし、あんたがあまりにも必死だったから……ま ぁ、覚えてないんなら、それはそれでいいよ」
リョウは感情を露わにする事なく、飄々と伝えた。
こんな事、この人にとっては日常茶飯事なのか?物凄く落ちついて淡々と話しているけど、僕にはあまりの衝撃で頭の中が整理できない。
だけどいくら記憶がすっぽり落ちているからといって見ず知らずの他人に、しかも助けたくれた恩人に僕自らお願いして性処理させていたなんて、信じられない。一体どうしたらそんな大胆な事が出来るというんだ。
崇人は血の気が引いた真っ青な顔をして、ヨロヨロともたつきながらベッドの上に正座した。
「僕の名前は本田崇人 です。高校で、数学の教師をしています。この度は……大変ご迷惑をおかけいたしました。社会人として、まして教職の身でありながら取り返しのつかない失態をしでかしてしまい、何と言ったらいいか――本当に、本当に申し訳ありませんでした!」
ベッドの上で頭を垂れて必死に謝った。緊張と羞恥で頬が紅潮する。それから自分自身でも訳の分からない、説明のつかない恐怖が急に腹の奥底にズンッと重くのしかかってきた。色んな感情が入り混じって、思わず声が震える。
結果として常軌を逸した行動を取ってしまった事実をはっきりと言葉にされて、不甲斐なさに自分自身が今、一番失望している。
なんて事をしでかしてしまったんだ僕は……
あの時に魔が差したんだ。ずっとずっと心に秘めて耐えてきたのに。どうして叶わぬ夢見たんだ。あの店に行けば『人生がきっと変わる』と、なぜ信じてしまったのだろう!
青ざめる崇人のその様子を見て「ぶはっ」とリョウは吹き出した。肩を震わせながら笑うその笑顔は、最初に見せたクールな印象とは違って無邪気な少年のように親しみやすい表情をしていた。
彼の意外な反応に、崇人は拍子抜けした。ぽかんと口を開けて、ただ苦笑する彼をしばし見つめるしかなかった。笑うと眉尻が下がるのを、不謹慎ながらも思わず「可愛いな」と思ってしまう。
「あんた、この世の終わりみたいな顔してるよ。ふふっ。はははっ!なんだよ、その顔!」
思いがけずツボに入ったようで、リョウは明るく笑った。一通り笑い終えると、崇人へ優しく微笑みながら話した。
「あんたにしたら記憶もないし、そらショックだよな。別に俺は手伝った事を気にしてないし、何か悪い事しようとも考えてないから安心して。それより、あんたが乱れた姿はすごかったよ。役得だったかもな」
崇人は真っ青な顔から一気に茹蛸の様に赤面した。
(……すごい?僕がすごかったって?嘘でしょ。何が?どんな風に?えええ!?)
『すごかった』その言葉に動揺して崇人の頭の中は更に混乱した。返す言葉が出てこない。
ごくりと唾を何度も飲み込んでは返事の言葉を探して焦るばかりだ。しばらく沈黙が続いた後、崇人はぬくいシーツの温度を感じてベッドを占領してしまったことに気づく。
「あのっ!僕がベッドを使ったせいで、貴方は眠れていないですよね?すみません……」
「いや、そこのカウチで寝たよ。俺、ショートスリーパーだからそんなに寝ないし、別にどうって事ないよ」
ベッドの対角線上にあるカウチを指差す。黒のレザーがピンと張られ、スタッズでパイピングされた、持ち主の様にカッコいいカウチだった。ただ、いくらなんでも、さすがにここで寝るのは快適とは言えない。崇人は自ら地雷を踏んだとますます恐縮してしまう。またしばし沈黙が流れた。
「・・・・・本当に色々ごめんなさい。あの、折角淹れていただいたのでコーヒーいただきます。飲んだらすぐに帰ります」
崇人はおずおずとサイドボードのマグカップに手を伸ばす。ふと、そう言えばこの人の名前を聞いていなかった事に気づいた。
「あの、名前・・・・・お名前、伺ってもいいですか?」
「俺?あ、えっと・・・・・『リョウ』だよ」
「『リョウ』さん」
「『リョウ』でいいよ。あんたは『タカヒト』だろ?覚えたよ」
思いがけず自分の名前をあっさり口にされ、またしても心臓が止まりそうな程に高鳴って頬が赤くなる。外見だけでなく、声も良いのは狡い。
少し低い、けれど甘く耳に響く。ほろ苦いチョコレートみたいな声だと思った。
「俺はこれから仕事があって。15時にはここを出ないといけないんだけど、それまではゆっくりしてていいよ。着てた服と鞄は、そこの棚の上に置いてあるから」
崇人は目の前の壁に掛かった時計へ目をやった。
『13時5分』
カーテンが締め切ってあったせいか、今が朝か夜かも気が付かなかった。よくもまぁ、図々しく人様の家でこんな時間までスヤスヤ寝ていたものだ。崇人は慌ててベッドから飛びでて着替えを取りに向かう。焦りすぎて足元がよろけてもたついた所を、再びリョウが抱き止める。
「そんなに焦らなくていいよ。時間は十分にあるし、別に後ろから襲ったりはしないから。俺はキッチンに行ってるから、どうぞここで着替えて」
そう冗談めかして言いながら抱き止めたリョウの腕の温度が、とっさに掴んだ崇人の指先にじんわり伝わった。思わず見上げた顔が近い。じっと見つめて視線を逸らさないリョウの瞳に自分の顔が映って見えた。彼が僕を直視している事実に、思わず我を忘れてしまいそうで心臓が急に早鐘を打つ。崇人は自分の中で何かが始まる予感がして、綻んだ表情を隠そうと必死に下を向いた。
彼の事をもっと知りたい。話したい。そして、もっと触れたい――不謹慎な状況にも関わらず、そう思わずにはいられなかった。
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