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第30話―湊―

 新生活に向けた買い物を終えて、母と別れる。  約束の時間までは、まだ少しある。  今朝、自分から指定した場所。 ――いつもの公園で――  他の場所でも良かった。  駅前の喫茶店。  通学路にあるファストフード店。    それでも、なぜかそこがいいと思った。  守られなかった約束を交わした場所。  あの日、自分が向き合うと決めた場所。  肌に触れる風は、まだ冷たさを残していた。  空が、淡い茜色に色づいている。  ポケットの中にあるスマホを握る手に力が入る。    もう少しで公園が見えてくる。    入り口に差し掛かったところで、足が止まった。  あの場所に座る人影が視界に入った。  眩しそうに目を細めたまま、時が止まったように僕を見ていた。 「……湊……」  何か月ぶりかの声。  スマホを通してじゃない、本物の声。  その声に誘われるように、足を一歩、一歩と進める。  早く行きたい。それなのに、思うように進まない。 「……久しぶり……」  ようやくたどり着いて、絞り出せた言葉はそれだけだった。 「……ああ」  蓮が笑った。  少し困ったような、泣きそうな、以前とは少し違う笑い方だった。  僕は何も言えないまま、蓮を見つめる。 「……座るか?」 「……うん」  自分が今どんな表情をしているのか分からない。  蓮が横にずれて、できたスペースに腰を下ろす。 「……元気だったか?」 「あんなにメッセージ交換してたのに、それを聞く?」  蓮の言葉に思わず笑ってしまう。 「メッセージでは何とでも言えるだろ? 実際会わないと」  そう言って、蓮が笑う。  少しだけ笑い合ったあと、僕たちの間に小さな沈黙が流れる。 「……湊」  少しだけ低い声で呼ばれ、体を硬くしてしまう。 「……なに?」 「お前に言わなきゃいけないことがある」  蓮の声から笑みが消えた。  膝の上に置いた手に力が入る。  悟られないように、ゆっくりと息を吐いた。 「……そうだね。君は僕に謝らなくてはいけないね」  いつか言った言葉を、蓮の顔を見てはっきりと告げる。  一瞬、蓮の視線が揺れた。  やがて、所在なさげに伏せられる。 「ああ」 「君が勝手にいなくなったこと」  何も知らされず、先生に突然告げられた日のことが脳裏に過り、思わず目を閉じる。  思い出すだけで、胸の奥がじくじくと痛む。 「……うん」 「連絡を絶ったこと」  何度もメッセージを送った日。  反応のないスマホを見るたび、気持ちが沈んだ。  自分がいけなかったのだと思った日もあった。 「……うん」 「……僕が……どれだけ待ったと思ってるの?」  自分でも声が掠れているのが分かった。  蓮の目は伏せられたままだった。 「……ごめん」  蓮の力ない返事に、僅かな苛立たしさを覚える。 「……ぼ……僕がどれだけ傷ついたか分かってる?」  感情的にならないようにすればするほど、言葉が詰まる。 「……ごめん」  蓮の言葉に、何かがふつりと音を立てた。   「……言っていたよ? 僕は冬真さんじゃない。君の中にあるのは憧れの残滓だと」  思わず語尾が強くなる。  責めたいわけではないのに、そういう言い方しかできなくなっていた。 「……ああ」 「……それなのに、君は僕の中に冬真さんを見ていた……」  蓮は何も言わない。 「あの時、この場所で君はなんと言った?」 「……お前と向き合うと……ちゃんと見ると……」  手で顔を覆ったまま、蓮が力なく呟く。  その肩が小さく揺れた。  蓮の表情は手に隠れて見えない。  それでも、行き場のなかった感情が口から零れていくのを、止められなかった。  いま僕はどんな顔で彼を見ているのだろう。  蓮は僕の視線を受けたまま、何かに耐えるように目を閉じた。 「何度も伝えた気持ちを……なぜ信じてくれなかったの?」  聞くことが憚られていた言葉が、するりと出た。  確認するのが怖かった言葉。  乾いた唇が、僅かに痛む。 「……湊を信じていなかったわけじゃない……自分が信じられなかった部分があったんだ」  黙ったまま、彼の言葉の続きを待つ。 「確かにお前と冬真さんを重ねていた。自分に向けて欲しい笑顔も、かけて欲しい言葉も、本当は冬真さんに求めていたものを、お前に求めてた。……だから、お前に『代用品じゃない』と言われて……自分がどれだけ勝手だったのか、気付かされたんだ」 「……」  分かっていたことなのに、その言葉が胸を抉る。  呼吸が浅くなるのを感じた。 「お前が、ここで俺に言ってくれた言葉は嬉しかった。冬真さんへの感情がなんなのか、ちゃんと考えなきゃいけないと思ったんだ。だから、待って欲しかった」  蓮は僕の視線から逃れるように前を向き、ゆっくりと話しはじめた。  正面にあるブランコの軋む音が、悲しげに聞こえる。 「そのタイミングで引っ越しの話も出た……家から離されるくらい、俺はあの家を乱してたんだと思った」  「そんなことない」と叫びそうになる。  その言葉を、必死に喉の奥にしまい込んだ。 「お前の気持ちに応えて、それでもやっぱりお前の隣にいる資格がないってなったら……」  蓮は一度、言葉を切り、ゆっくりと息を吐く。 「滑稽だろ?……それが怖くて、お前から逃げたんだ……」  膝の上で組んでいた手を額に当てる。  その手は微かに震えていた。  罪を告白するような姿に、胸が締めつけられる。 「……ばかだね」 「返す言葉もない……」 「……君はまた、冬真さんのことを、僕との間に引きずって……」  一度、目を閉じる。  心臓の音が響き、吐く息が震えていた。 「それで……勝手に僕の気持ちを無視した……」  それでも蓮は俯いたままだった。 「あまつさえ、僕が君を必要とするかどうかまで勝手に決めた」 「それを決めるのは、君でも神でもない」  蓮の肩が僅かに動く。 「……僕自身だ」  自分を否定されたような悔しさに、声が震えた。  うなだれていた蓮が、ゆっくりとこちらに顔を向ける。   「……ああ」 「蓮、お願いだから僕の気持ちを勝手に決めないで」 「……ああ」 「逃げないで」 「……ああ」 「一人で抱え込まないで」 「……ああ。ごめん」  そう答えた蓮の、震える肩に手を置く。 「……本当に、次はないから」 「……気を付ける」 「……でも、僕の傷は癒えていないよ」  蓮がゆっくりと顔をこちらに向ける。 「……癒す手伝いをさせてくれ」 「できる?」 「できるさ」 「……じゃあ、僕は君を信じるよ?」 「信じてくれ」  蓮が真っ直ぐ僕を見つめる。  今まで向けられたことのない眼差しに、視界が揺れる。 「……ああ……ようやく……僕を見てくれたね」  笑って言っているはずなのに、涙が溢れてくる。 「……ごめん、待たせた……」  止めることのできない涙を、蓮が拭ってくれる。 「……本当に、待たせたな……湊……」  蓮は僕を見つめたまま、しっかりとした声で名前を呼んだ。  僕はただ、頷くことしかできなかった。  ただ名前を呼ばれただけなのに、こんなにも胸に響くとは思わなかった。  怒りも、寂しさも、悲しみも、消えたわけじゃない。  それでも今、蓮が確かに僕を見てくれていることに、僕は震えていた。  気付けば、茜色だった空に、藍色が滲み始めていた。  混じり合った色が、静かに、夜へと溶け込んでいった。

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