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されど、君で味を知る。
食事というものが、昔から嫌いだった。
俺は偏食だ。
野菜が嫌いで、肉は好き。魚は――あまり好きじゃない。
じゃあ何なら好きなのかと聞かれると、少し困る。
でも、カップ麺やお菓子が好きな時点で、味覚は死んでるんだろう。
けれど、そんな死んだ舌でも食べないと、母親がヒステリックに叫ぶ。
「お母さんのご飯が食べられないの!?」
その声が今でも耳に残っている。
無理やり口に詰め込まれる、あの感覚。
思い出すだけで吐き気がする。
——二十六歳になった今でも、
あの頃の食卓を思い出すと喉の奥がざらつく。
でも、生きていたら腹は減る。だから食べる。
大学進学を機に家を出て、一人暮らしを始めた。
少しでも母親から離れるために
お菓子なんて食べたことなかったから、好きなだけ、好きなものを食べた。
卒業して、サラリーマンになった。
朝はスティックパン。
昼はカップ麺。
夜は冷凍チャーハン。
そんな生活でも、別に困らなかった。
満たされない胃の代わりに、
ソシャゲの課金で“満足したつもり”になれたからだ。
現実の食事より、
画面の向こうの限定キャラの方がよほど鮮やかに見えた。
――けれど現実は非情なもので、俺は郵便受けから手に取った封筒の中身を見て、固まっていた。
(契約更新料⋯家賃一ヶ月分の六万円⋯高ぇ)
何度見ても、数字は変わらない。
現実を受け止めるには、少し時間がかかる。
(こんな金あったらガチャの十連、六回回せるわバカやろー⋯潮時か、この部屋も)
善は急げと、次の休みの日、不動産屋へ直行した。
カウンターに座るなり、開口一番言った。
「何でもいいから安いとこないですか?」
店員は一瞬、キョトンとしたが、慣れているのか、すぐにマウスを操作した。
「そうですね⋯シェアハウスでも大丈夫ですか?」
「安かったら何でもいいです」
「でしたら、いいのがありますよ?」
そう言い、パソコンの画面を見せた。
そこには、どこか年季の入った一軒家の写真。白い壁に木のドア。
「築二十五年のシェアハウスの一軒家で間取りは4LDK、四人入居で、今一室だけ空いてます」
「へぇ⋯ちなみにいくらですか?」
「三万五千円です」
「えっ⋯やす⋯」
「ちなみに光熱費も込ですね。WiFiも完備とのことですよ」
「え?逆にそれ大丈夫なんですか?」
店員は小さく笑って肩をすくめた。
「まぁ、この物件駅から少し離れてますからね。最低限の設備のシェアハウスだとこのぐらいが妥当だと思いますよ」
「へー⋯そうなんですか」
住所を見る。確かに駅から遠い。
(でもまぁ⋯住めりゃいいか。光熱費込みなら浮いた金で課金が出来りゃいい)
「どうします?ここよりも駅から近い物件もありますけど⋯」
「いえ、ここでいいです」
「え⋯?いいんですか?じゃあ見学に――」
「あっ、それもいいです。ここにします」
一瞬、店員の手が止まる。俺は小さく笑う。
「えっ⋯でも、一度見てからの方が⋯」
「いや、ここで。自分の直感を大事にしたいんで」
「は、はぁ⋯」
店員は苦笑いをすると、契約書を取り出した。
カウンターに淡々と紙の音が響く。
(このぐらい簡単に限定キャラが出ればいいのに⋯)
ペンを握り、名前を書きながら、そんなことをぼんやり考えていた。
「――はい、ありがとうございます。では審査が通り次第、連絡しますね」
「あ、はい」
店員が書類を束ね、封筒にしまう。
(あーあ⋯早くしてくんねーかなー寝たらすぐ審査通ってねーかな⋯)
そんな子供じみたことを考えながら、不動産屋を出た。
数日後、審査が通ったと連絡が来た。
すぐに引越しの準備をした。
と言っても荷物なんてほとんどない。
趣味らしい趣味などソシャゲとゲームしかない。
あとは服とノートパソコン⋯それに食器ぐらい。
(⋯段ボール数個で足りるな)
片付けを中断して夕飯を食べる。
今日の夕飯は冷凍パスタ。ドラッグストアで一番安いやつだ。
「うん⋯多分美味い」
美味しいなんてわからない。でも多分美味い。安くてこのクオリティは素晴らしい。
この節制が次のガチャに繋がると思うと嬉しく思う。
食べ終わると、簡単に洗い片付ける。
布団に潜り込むと、アプリを起動する。
「イベント周回しねーとな」
画面の向こうで推しが俺を出迎えてくれる。
『おかえり、ご主人。今日も元気?』
「⋯⋯元気じゃねーと仕事なんか行かねーよ」
そんな独り言が部屋に響いた。
いつもの日常。けどそれがこの部屋で暮らす最後の日だった。
――――――――――――
「ここでいいですか?」
「あ、そうです。合ってます」
「じゃあ、荷物置きますね」
「お願いします」
格安で頼んだ引越し業者の人間が、段ボールを玄関前に置いていく。
ふと新しい家を見上げる。
写真で見るよりも年季が入っている。
「これで全部ですか?」
「あ、そうです」
「じゃあ、もう行きますね」
「⋯ありがとうございます」
軽トラのエンジンがかかり、ゆっくりと走り去る。
音が遠ざかるにつれて、周囲の静けさが増していく。
玄関前には段ボールが三箱と俺――
「はぁー⋯運ぶか。今日有給取って休みでも明日は仕事だし、さっさとやろ⋯」
そう呟いて、しゃがみ込んだときだった。
ガチャり、と玄関の扉が開いた。
「あの、新しい人ですか?」
扉の向こうから現れたのは、エプロンをつけた同い年ぐらいの青年だった。穏やかに笑うその顔は、男にも女にも見える中性的な顔立ちだ。
「あっ、はい⋯えっと⋯」
「あっ!ごめんなさいこんな格好で⋯」
青年は慌ててエプロンの裾を掴みながら、柔らかく笑った。
「僕はここに住んでいる、鴛鴦 涙(おしどり るい)と言います」
「どうも⋯ご丁寧に⋯俺は烏羽 氷河(からすば ひょうが)です」
「烏羽さんですね!僕のことは涙と呼んでください。鴛鴦って言いにくいでしょ?」
「えっ⋯は、はぁ。る、涙さん?」
「はい!」
(うーん⋯これがシェアハウスの距離感ってやつか?まぁ安いなりには安い理由があるってことか)
少し困っていると鴛鴦さんは置いてある段ボールに目を向けた。
「手伝いますよ」
「い、いや、いいですよ!そんな⋯」
「遠慮なんていいですよ?これから一緒に住む仲ですから」
(うーわ⋯この他人は他人な時代にこんな距離感の人いるんだ。正直、俺なんかにそんな態度取られても困るな)
そうこう考えているうちに、鴛鴦さんは置いてある段ボールを一つ持ち上げた。
確かあの段ボールはゲーム機が入っていて、他のよりも重かったはず⋯
「え、重くないですか?俺が持ちますよ」
「いえ全然!これぐらい余裕のよっちゃんですよ!」
(よ、余裕のよっちゃん!?ふ、古っ!この人いくつなんだよ⋯)
「じゃあ行きましょう。部屋は二階ですよ」
軽い足取りで鴛鴦さんは家の中へ入っていく。
残ってる段ボール二つは軽いので積み上げて持ち上げると中に入った。
中は思ったよりも綺麗で清潔感があった。
最近流行りのリノベーションというやつだろうか。
床は全部フローリングで、壁の色は落ち着きのある白だ。
窓側のレースカーテンがゆらゆら揺れて、キッチンの方からはなにかの料理の匂いが漂っていた。
「一階が共有スペースです。キッチンは好きなように使ってもらって大丈夫です。あとお風呂は時間を決めてるんで、皆が集まったらその辺を相談すると思います。あっ!冷蔵庫のものは絶対名前を書いてくださいね!食べられちゃいますから!」
「え?人のものなのに⋯?」
「書いてないなら人のものじゃないってわけのわからない理論で食べる人がいるんです⋯旭さんって言うんですけど、夜になったら嫌でも会えると思います!」
「は、はぁ」
(人と暮らすって大変なのかもしれない⋯)
来て数分で現実を知った気分だ。
階段を上がり、一番奥の部屋の前で鴛鴦さんは止まる。
「ここが烏羽さんの部屋です。開けてもいいですか?」
「あっ、どうぞ⋯開けられます?」
「大丈夫ですよ」
そう言うと器用に段ボールを片手で抱えたまま、ドアノブをひねり扉を開けた。
部屋の中は六畳ほど。
窓からはやわらかい陽が差し込んで、床が明るく光っている。
家具はベッドと小さな机、奥にクローゼットがあるだけで余計なものはなく、すっきりしている。
(なんだ、わりと住めるところだ)
もっとカビ臭いところを覚悟していたが、全然そんなことはなかった。
「ここに置いても大丈夫ですか?」
「あっ、はい。そこで大丈夫です」
俺がそう言うと、鴛鴦さんは段ボールをそっと床に置いた。俺も持っていた段ボールをドンッと置いた。
「そういえばもうお昼すぎですけど、お昼ご飯食べましたか?」
「え?」
(急に何だこの人⋯)
「まだ⋯ですけど」
「あっ、そうなんですね。よかったらお昼作ってたんですけど一緒に食べませんか?お腹減ったままじゃ荷解きもできないでしょ?」
「いや、そんなの⋯いいですよ。コンビニで何か買いますし⋯」
「ふふっ、遠慮なんてしなくていいですよ?今日はカレーを多めに作ったから余裕ありますし」
「カレー⋯ですか」
「はい。あ、もしかして嫌いでした?」
「⋯⋯いえ」
ぶっちゃけ言うと嫌いだ。
だって俺の嫌いな人参が入ってるから。
何より、料理の苦手な母親がよく作っては、俺に無理やり食べさせていたものだから――。
でも、初対面の人⋯
何より、ひとつ屋根の下で暮らす人の好意を無下にするのはよくない。
「よかった!じゃあ支度してきますね」
「え、あっ⋯はい」
止める間もなく、鴛鴦さんはバタバタと降りていく。
その背中を見送るしかなくて、俺は小さくため息をつく。
(うーん⋯断ればよかったかな。まぁ、でも最悪味を感じる前に飲み込めばいいか)
――どうせ生きるために食べてるだけだし
部屋を出て、階段を降りる。
鼻先に、なにかの匂いを感じた。
(⋯⋯あー、これカレーの匂いか)
久しく忘れていた匂いだ。
昔は、この匂いがする度に気分が重くなったものだ。
思い出すのは甘ったるくて、焦げ臭くて⋯なのにしょっぱさを感じる、カレーと言う名のあの味。
母親のその日の気分で変わる味。
嫌だと言えばヒステリックに怒る。かと思えば泣き喚く、あの光景。
でも、この匂いはそれとは違う。
どこか優しくて、温かい――
俺を出迎えてくれる感じがする。
(不思議だ)
スパイスの香りが鼻をくすぐる。
それを辿るようにリビングへ向かう。
キッチンには鴛鴦さんがいた。小さく鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている。
(⋯⋯こういうのが、家庭の匂いなんだろうな)
ぼんやり立ち尽くしていると、鴛鴦さんがこちらに気付いて、パッと笑った。
「もうすぐできますから、ちょっと待っててください。甘口なんですけど大丈夫ですか?」
「あー⋯はい」
「よかった。この家に住んでる人が辛いもの嫌いだから甘口しか作らないんですよね」
「えっ⋯他の人にも作ってるんですか?」
「はい。材料費はもちろん頂きますけど作ってます。僕、こういうの全然苦じゃないんで」
「へー⋯すごいですね。俺なら絶対しないですよそんなこと」
「ははっ、大体の人はそうですよね。でも僕は誰かのために作るって生きてるって感じがして好きなんですよね」
「⋯そう、なんですね」
独特な考えの人だ。俺には無い。
誰かのために作るなんて、何よりそれをすることで生きてるなんて考えもつかない。
俺なんて自分が生きてることで精一杯なのに――
「はい、烏羽さん!出来ましたよ!」
声の方を見ると、鴛鴦さんが笑顔でカレーの入った皿を机の上に置いていた。
黄色いルーの上には、具がほとんど見えない。
パッと見はとろみのある具がないカレーだ。
「これ、具は⋯」
「あ、これ野菜を全部すりおろして入れてるんですよ」
「え⋯?なんでそんなこと」
「あー⋯さっき話した旭さんって人が、野菜嫌いで野菜だけ綺麗に残すんですよね⋯それでムカついたから徹底的に野菜の形を無くしたら食べてくれるようになったんです!そしたら、なんでも細かくして入れるようになっちゃったんですよね」
「ムカついたのに⋯作るんですか?」
「んー⋯食費もらって作ってるのに残すなんて僕のプライドが許さないというか!もったいないというか!とにかく食べさせてやるぞー!ってなったんですよねー」
真剣な顔をして鴛鴦さんは、手をグーにして力強く言った。
(変な人だな⋯)
俺なら別になんとも思わない。
たとえもったいないという意見があったとしても、自分のことでないからと無視するだろう。
そのまま席に着くと、鴛鴦さんはスプーンを手渡してくれた。
「はい、どうぞ」
「どうも⋯」
スプーンを受け取り、じっとカレーを見つめる。
最後にカレーを食べたのなんて、高校生の時以来――。
何に影響されたのか、母親は隠し味にとインスタントコーヒーをドバドバと、隠しきれない量を入れたカレーを食卓に出してきた。
『コクがあって美味しいわね!』
そう言ってパクパク食べている母親を横目に俺と父親は渋い顔をしてスプーンを動かしていた。
焦げたような苦味と酸味が口の中で激しく喧嘩をして、それを仲裁しようと水を流し続けていた。
けれど、『不味い』なんて口が裂けても言えなかった。
何も言わない、黙々と食べる。
それが俺が家の中で一番に遵守していたルール――
静かでいることが、普通の家庭として成り立つからだ。
(⋯今思うと、あれは''カレー風のコーヒー''だったな)
――これ以上、嫌な記憶を思い出すまいと頭をブンブン振って集中した。
スプーンを皿につけ、ルーを掬う。そして、口に運ぶ。
一口噛む。噛む、噛む――
(⋯⋯⋯あれ?)
苦くない。焦げ臭くない。しょっぱくない。
ごくりと飲み込む。
信じられなくて、二口目を口に運ぶ。
噛む。――やはりえぐみ等、全く感じない。
それどころか――
(⋯⋯お、い⋯しい?)
食事に対して、こんな言葉を使ったことなどあっただろうか?
体がこれは食べても良いものと頷いているような感覚がした。
(そうだ、カレーって⋯こんな味だったんだな)
忘れていた。けど、今思い出した。
胸の奥がキュッとなる。
食事で、こんな風になるなんて初めてだ。
「⋯どうですか?」
はっと顔を上げる。
不安そうな顔をした鴛鴦さんが、こちらの様子をうかがっていた。
「もしかして、お口に合わなかったですか?」
「あっ⋯いや⋯そんなこと、ないです」
言葉がつかえる。
''美味しい''
その一言を言えばいいのに、言えない。
喉の奥で何かがつっかえて出てこない。
「よかった!」
鴛鴦さんは俺にそう言うと、にこりと満面の笑みを浮かべる。
ドキリ――
胸の奥で、小さく鳴った。
胸の奥が熱い。
――何だか恥ずかしくなり、黙々とカレーを口に運ぶ。
食事で、こんなに気分が落ち着くなんて⋯初めてだ。
ちらりと、鴛鴦さんを見る。
ニコニコ笑いながら、カレーを食べている。
(美味しそうに⋯食べる人だな)
――その笑顔を、もっと見たい。
烏羽 氷河。二十六歳。営業職、三年目。
取引先に土下座経験あり。偏食、廃課金者。
そんな社会の片隅にいる人間が、初めて誰かに関心を持った瞬間だった。
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