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二章 * 世界にひとりだけのオメガ
「はあ……そろそろ、か」
部屋の隅に用意されていた椅子に腰かけて読書していた秋弥は、丸い壁掛け時計に目を向け、物憂げにため息をつく。
間もなく正午。所員が時間になると食事を持って来てくれるのだが、部屋に所員が入ってくる時はいつも緊張してしまう。
(この研究所にいる人たちは、ほとんどアルファだからな……ベータの時よりも圧を覚えるんだよな。それに匂い。強い香水をつけているような匂いがして……そわそわしてくる)
オメガになったせいで、秋弥は今まで気づかなかったことに気づいてしまう。
アルファから滲み出る、人を惹 き付けるカリスマのオーラ。
人を本能的に支配しようとする威圧感。
オメガを誘うような、爽やかさと甘さを伴った匂い。
部屋に入ってくると相手の匂いが充満して、秋弥の鼻を通って頭の芯を痺れさせてくる。そうなると力が入れづらくなり、ぼうっとなってしまう。
気を抜けば何をされても許してしまいそうな、支配されたくなるような──あっさり自分を手放してしまいそうで怖かった。
悩ましいのはそれだけではない。
ベータからオメガに変わり、データを取るための検査を受け入れてから一週間が経過した。
毎日行われる唾液の採取にホルモンの検査──採血ではなく、二の腕に小さな丸いシールのようなセンサーをつけて、各種ホルモン値のデータを取る──そして口内の粘膜を採取して調べる遺伝子内のバース因子の検査。モニターで飲んだ新薬は欠かさず飲み、発情期に放つというオメガフェロモンの兆候があれば抑制剤も服用する日々。秋弥にとって日常から隔離された生活は、あまり気分がいいものではなかった。
それに加え、秋弥の頭を悩ますことが毎日あった。
『秋弥くん、もっと大きく口を開けて……そう。ちょっと我慢してもらうよ……ああ、良くできたね』
『センサーを取り付けるから、右腕を上げて……取り付ける場所を探すから、二の腕を触らせてもらうよ。すぐ終わるから……お疲れさま、秋弥くん』
やけに検査に訪れる所員が、猫撫で声で話しかけながら異様に優しくしてくる。検査や薬が終わった後など、よく頭を撫でられてしまう。まるで小さな子に対するような接し方。しかし、その手付きはどこかいやらしい。
気のせいだと思いたかったが、彼らの色めきだった目が秋弥に疑念を与えてくる。それでもハッキリと声に出して拒絶することができなかった。
おもむろに腕を組み、秋弥は小さく唸る。
(俺がオメガだから気になるのかな? それとも俺がオメガに変わったから、アルファの視線がそう見えるだけ?)
正直なところ自信がなかった。ベータだった時と世界の見え方や感じ方が変わってしまい、過剰に意識しているだけのような気もしている。
検査に来てくれる所員たちは誰もが過保護で、それでいて秋弥の身体に触れたがった。検査するのだから身体に触れるのは当然だと思うものの、彼らの行動は行き過ぎていると感じずにはいられない。
頭を撫でた手を肩に回して抱き寄せたり、フェロモンの確認だと言って首筋の匂いを嗅いできたり、耳元で囁きながら腰を抱いたり──思い出した途端に全身がざわつき、秋弥は湧き上がる何かを払うように小首を振る。
(やっぱりオメガになったせいで、俺がおかしくなってるんだ。アルファを誘惑するフェロモンは、抑制剤で抑えているんだから……もっと冷静にならないと)
何度か深呼吸を繰り返して、身体の疼きを鎮めていく。すると今度は布団の中に潜り込んで唸りたくなるような罪悪感に襲われて、頭を抱えた。
(うう……たぶん、俺が聖司さんに訴えれば動いてくれると思うけど……俺が意識し過ぎなだけで、相手に悪気がなかったとしたら……絶対に下手なことは言えない。あからさまに襲われない限り、我慢しないと)
きっと所員たちは緊張を解すために、フレンドリーに接しているのだろう。だから、それをいやらしいと捉えてはいけない。
自分にそう言い聞かせている最中、コンコン、と軽いノック音がする。秋弥が顔を上げて身構えていると、
「おーい、昼メシ持って来てやったぞ」
ドアが開くと同時に、やる気がなさそうな冬真の声が聞こえてくる。相変わらずの態度は面白くなかったが、思わず秋弥の口から安堵の息が溢れた。
ローテーブルに読みかけの本を伏せて置くと、秋弥は立ち上がって冬真の元へと向かった。
「ありがとうございます、冬真さん」
昼食を乗せたトレイを受け取ろうと両手で掴むが、なぜか冬真は手に力を込めて渡すのを拒み、ジロリと睨んでくる。
「……秋弥、オレのことは呼び捨てにしていいって言っただろ?」
いい顔ばかりしてくる所員たちの中で、冬真だけはマイペースに自分を貫いてくる。色目も瞳のギラつきもない。彼の前だけはベータの時と同じ自分で居られる気がして、秋弥は心からホッとする。
ただ冬真の要求は受け入れられないと、秋弥は呆れたように目を据わらせる。
「出会ったばかりの目上の方を、呼び捨てにするなんてできないですよ。しかも助けてくださった恩人なのに。そんな無茶を言われても困ります」
「オレがいいって言ってるんだからいいだろ。頭が硬いなあ秋弥は。頑固者。そもそも敬称って本来の名前に余分なものがついて、口の労力が増えるんだ。効率が悪い。あと敬語もやめてくれ。オレは無駄は嫌いなんだ」
まさか『さん』を付けるだけでいつも文句を言われるとは思わず、秋弥は顔をしかめてしまう。むしろ敬語を使わないほうが失礼になるはずなのに、冬真はずっと自分の持論とワガママを押し付けて敬語を拒む。
相容れない人種。それでも我を通してくる冬真に対して、ふと秋弥は小さく吹き出す。
「ご自身の価値観を強要されても困ります……けど、冬真さんは変わらないから、ちょっと肩が軽くなります」
軽く笑ってから、秋弥はわずかにまつ毛を伏せる。
「……まだオメガになったという実感は持てないのですが、研究所のみなさんのことがベータの時とは違う風に見えて、ちょっと……」
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