5 / 6

一章 * 養い子ベータの純心-4

 再び目覚めた時、あまりの気だるさに秋弥はまぶたを開けることすら億劫(おっくう)だった。 「……うっ……」  薄く目を開いた瞬間、(まぶ)しさに秋弥は思わず(うな)る。  手の甲でゴシゴシと目をこすってから、身体を横たえたまま辺りを見渡す。  特に飾り気のない殺風景な部屋。しかし心なしか部屋が広くなっているように見えて、秋弥はしきりに瞬きする。 (ここ、通された部屋じゃない?)  ゆっくり身体を起こしてみると、白い壁やフローリングの床は変わっていないが、ドアの数が三つに増えていることに気づく。出入り口と思しきドアはひとつだけ。あとの二つはそれよりも幅は小さく、ノブを回して開けるタイプのものだ。部屋の隅には白い水面台があり、透明なコップが置かれ、薄い水色のタオルがかけられている。 (どうなっているんだ? それに俺、どれだけ寝ていたんだ? 今、何時なんだろう?)  状況がわからず、秋弥の鼓動が速まっていく。嫌な汗がじっとりと手の平に滲み、焦りから呼吸が浅くなっていく。  不意に冬真の説明を思い出し、秋弥は枕元に目を向ける。  先端にボタンがついた、小さな筒状のコールボタン。安堵の息をつきながら手を伸ばし、ギュッとボタンを押し込んだ。  小さな電子音のメロディがしばらく流れた後、ブツ、と途絶える。そして女性の声が聞こえてきた。 『高良秋弥さんですね? 体調の急変でしょうか?』 「い、いえ、体調は大丈夫です。あの、モニターで薬を飲んだ後に眠ってしまって、起きたら違う部屋にいて……状況がよくわからないのですが」  すぐに返答はなかった。無言の中に息を詰める気配がして、嫌な予感が秋弥の中にジワジワと広がっていく。  妙に緊張が高まる中、ようやく答えが返ってきた。 『……緊急の事態が起きてしまったため、高良さんの安全を考慮して隔離させていただきました』 「緊急の事態?」  尋ねながら秋弥は寝ていた時の異変を思い出す。  身体の熱もめまいも、体内のうねりも、夢にしてはリアルだった。加えて誰かにのしかかられながら触られる感触も、そこから助け出すような抱擁も、しっかりと覚えている。  やはり何か起きていたのだと確信していると、コールボタンから答えが返ってきた。 『これから詳しい説明を幸崎所長からお話させていただきますので、しばらくお待ちください。部屋に誰も入ることができないようロックがかかっておりますが、トイレとバスルームは備えておりますので、どうかご自由にお使いください』  幸崎所長──聖司の名が出て、秋弥の顔から少しだけ力が抜ける。  聖司が状況を把握して動いてくれたなら、もう大丈夫だ。なぜ未だに隔離されているのかはわからないけれど、不安がっていても仕方がないと、秋弥は自分に言い聞かせる。  大きく深呼吸してから「わかりました」と返答して、コールボタンから手を離す。静まった部屋の中、自分の(どう)()が秋弥の耳に延々と響き続ける。  何もする気になれなくて、秋弥はベッドの上に座り込んで思案するしかなかった。 (俺に何が起きたんだろう? 身体が熱くなったりめまいがしたのは新薬のせいかな? でも、あの感触は……)  ドクン、ドクン、と心臓が落ち着かない。思わず自分の身体を抱き締めた瞬間、覚えのある匂いがした。  温もりを感じる木のような匂い。冬真の匂い。  嗅いだ途端に秋弥の身体から力が抜け、思わずベッドに倒れ込む。 (なんか、まだ身体の調子がおかしい……お腹の奥がむず痒いような……でも、この匂い……落ち着く)  初対面の、態度が雑で好ましいとは思えない相手の匂い。それなのに今はこの匂いをずっと嗅ぎたくてたまらない。  何度もゆっくりと鼻から息を吸い、かすかな匂いを鼻の奥まで届けて堪能する。口から息を吐けば微かに舌が甘く痺れて、それがまた欲しくて息を吸う。  そうして秋弥が匂いを味わうことに夢中になっていると、ドアの向こうから(まば)らに足音が聞こえてくる。コツ、と手前で足音が止まった直後、ドアが自動でスライドして来訪者の姿が明らかになる。  家では見かけない白衣姿の聖司。胸ポケットの(つや)やかな漆黒の万年筆がよく映えて見える。目が合うと鋭い目つきがフッと和らぎ、その一瞬の表情に秋弥の胸はときめく。だが、同時に下腹部の淫らな疼きも膨らむ。  恋慕よりも品がなくはしたない衝動に戸惑う秋弥に、聖司が穏やかに話しかけてくる。 「待たせて悪かったね、秋弥。調子は大丈夫かい?」 「……っ、は、はい、大丈夫です、聖司さん!」  聖司の声で秋弥はハッと我に返り、慌てて身体を起こす。  目の前の光景に、秋弥の身体が強張る。  部屋の中に聖司を始め、何人もの白衣を着た所員が入り、全員が秋弥に目を向けていた。聖司は職場にいるせいか、家での穏やかな空気はなく、微笑で感情を読ませない顔になっている。他の所員たちは緊張したように表情が強張り、伝わってくる空気がやけに重い。  なんとも言えない圧迫感。複数の人間が違う香水でもつけているのか、柑橘(かんきつ)系やムスクなどバラバラの匂いが秋弥の鼻に届き、少しずつ悪心を生んでいく。  最後の一人が部屋に入ってきた時、その顔を見て秋弥の強張りがわずかに解ける。どこか面倒くさそうに顔をしかめ、集団の後ろに並んですぐ、口に手を当てながら大きなあくびをするマイペースな冬真の姿。やっぱりこの人はいい加減で、苦手な人だと秋弥は心の中で呆れる。ただ、彼のおかげで冷静になれた。  完全に足音が途絶えた後、聖司が口を開く。 「このような事態になってしまって、我々もまだ動揺している。詳しいことは調査をしないとわからないのだが……実は君が新薬を飲んだ後、高濃度のオメガのフェロモンが出ていることを確認したんだ」  自分の話をしているはずなのに、オメガという単語が出てきて目を見張る。思わず秋弥は身を乗り出し、聖司に困惑の表情を向ける。 「オメガのフェロモン? あの、俺、ベータですけど……」 「ああ。ずっと一緒に住んでいるから、よく知っているよ。けれど新薬の副作用で寝ている間、君の身体はオメガの発情期と同等のオメガフェロモンを放ち始めたんだ。つまり──」  聖司は一度言葉を区切り、秋弥と目を合わせてから言葉を続ける。いつもより低い声で、ゆっくりと聞き間違えないように。 「秋弥、君の身体がオメガに変化した」  オメガ──絶滅したはずの第二の性。  にわかに信じられず、秋弥は何度も瞬きしてから口を開く。 「そんな……俺がオメガになったって、どうして?」 「詳しいことはわからない。ただ秋弥に飲んでもらった新薬が、遺伝子にあるバース因子の変動を起こしてしまったらしい」  バース因子とは、遺伝子に含まれる第二の性を決定するもの。  身体能力とカリスマに恵まれるアルファ因子。  アルファを強く誘惑するフェロモンを放ち、子を孕む機能に長けるオメガ因子。  そして平均的な能力のベータ因子。  この三つの因子のうち、一番多い因子が第二の性を決定する。ほとんどの人間は生まれた時から第二の性は決まっているが、ごく稀に成長期の影響でバース因子が変動して、ベータがアルファになったり、アルファがベータに変わる者が存在する。  しかしオメガ因子は他の因子と比べて変動しにくい因子で、七十年前の絶滅時にオメガだけでなく、オメガ因子を多く有したベータも死に絶えてしまった。  今この世界にいるのは、オメガ因子を少なく有し、成長期の変動があってもオメガに変化することはない者だけ──と、秋弥は高校の生物の授業で習ったことを思い出す。 (俺がオメガに……)  すでに消えた、知識としてしか知らない性。心の底でアルファに望まれる性だと羨ましく思っていただけに、この現実が夢のようだった。秋弥がまったく実感を持てずにいると、聖司が深々と頭を下げた。 「秋弥が新薬を飲んだ後に眠った時、オメガへの変異が始まってしまったらしい。その時に発情期に出るほどの量のフェロモンが発生し、その匂いに気づいたアルファの所員が寝ている君を……襲ってしまった」  俺を襲った? まさか……。  ふとリアルな夢を思い出す。誰かに押さえ込まれ、身体を弄られていた感触が生々しくよみがえり、秋弥は思わず自分の身体を抱きしめる。  秋弥の動揺に気づいた聖司が顔を上げ、眉間を申し訳なさそうに寄せる。 「幸い、被験者の様子を見回っていた乙川君が、異変に気づいて助けてくれた。彼にはどれだけ感謝しても足りないほどだ」  ちらりと秋弥が瞳だけを動かして一番後ろを見ると、冬真が視線に気づいて小さく笑いながら胸元で手を振る。反応が軽い。冬真の様子だけを見ると深刻ではなさそうな気がして、秋弥の胸に広がった不安が薄まる。  聖司が冬真に向けて感謝の会釈をした後、秋弥を真剣な眼差しで見つめた。 「秋弥の身体を変えることになって、本当にすまないと思っている。まだ検証はしていないが、今ならベータに戻すことは可能かもしれない」 「そう、ですか。それなら良かっ──」 「だが研究者としてワガママを言わせて欲しい。どうか、このままオメガでいてもらえないだろうか?」 「……え?」  聖司からの思わぬ申し出に秋弥は目を見張る。 「今回のことは偶然に発生した事故……しかしベータから完全なオメガに変化する方法を確立することができれば、多くのアルファが救われるかもしれない」 「救われる……」 「昔はオメガのフェロモンに振り回されないために、使われていたアルファ専用の抑制剤。オメガが絶えた今は、オメガを求める本能を鎮めるために利用されているが……頻度が高ければ身体に負担がかかる。そのせいでアルファの平均寿命は縮み、精神を病む者も珍しくない」  ベータよりも優れた能力、容姿、カリスマ性を持つアルファは誰もが羨むもの。だがアルファになりたいと思うベータは少数だ。  オメガを求めてしまう本能に心が病み、薬を過剰摂取して次第に心身が衰弱してしまうアルファの問題は、時折ニュースで流れている。  不意に聖司が身を乗り出し、秋弥の右手を両手で握り込んでくる。その時、ふわりと聖司から匂いが漂い、秋弥の目が(くら)んだ。  柑橘系の爽やかな匂いに、濃厚なバニラの甘さが混じり込んだような香りに──腰から力が抜け、危うく倒れそうになる。どうにか気合を入れて身体を起こし続ける秋弥の手を、聖司はゆっくりと親指で()でながら告げた。 「秋弥が嫌だと言うなら、無理強いはしない。ベータを選んだとしても、君は私の大切な家族のままだ」 「聖司、さん……」 「けれど、もしオメガを選んでくれるならば──」  そっと聖司は秋弥の耳元に顔を寄せ、優しい声色で(ささや)く。 「私は君を、誰よりも大切にしよう。私の人生をかけて」  秋弥の目が大きく見開く。  今よりも大切……家族を超えて……もしかして──。  一瞬、甘い夢が脳裏をよぎる。しかし心の中で首を横に振ってから、秋弥は思考を巡らせる。 (これは大切なことなんだ。オメガを研究すれば、アルファの人たちが苦しみから解放される……ベータのパートナーがオメガになれたなら、今よりも強く結ばれる。同性同士でも子どもが望める)  わずかに聖司の顔が動き、秋弥の目に視線を絡める。  何も言わず微笑みながら秋弥の答えを待つ彼の目は、どこか熱く、誘うような色が混じっている。  ゴクリ、と。秋弥は大きく喉を鳴らした。 (この身体を研究し終えたら、俺は聖司さんの番になれるかもしれない)  アルファがオメガのうなじを()むことで、番という関係を作ることができると、秋弥は授業で聞いたことがあった。強く繋がり合う関係。話を聞いた時は羨ましいと思って、すぐに自分には無縁の話だと諦めた。  ベータという当たり前が、世界で唯一のオメガに変わる。  不安がない訳ではなかった。  それでも今まであったものが変わってしまう恐怖より、その先に見えてしまった希望は、秋弥にとってあまりに抗えない光だった。 「わかりました。聖司さん、俺の身体で研究してください。必要なことなら、どんなことでも受け入れますから」 「秋弥、ありがとう。その言葉を聞けて嬉しいよ」  フッ、と聖司が柔らかに微笑む。瞳の奥まで優しく溶けた、本当に嬉しくて笑っている顔。その顔が見られただけでも、オメガでいることを決断して良かったと秋弥は心から思う。  しかし──聖司が白衣のポケットから取り出した物を見た瞬間、喜びに温められた胸の奥の一点がひやりとした。  鍵付きの黒い革ベルト。  大型犬に着けるような幅の広いベルトの左右を摘み、聖司は秋弥の首へと近づけていく。 「じゃあ秋弥の安全のために、この首輪をつけてもらうよ。この研究所にはアルファが多い。いつ君のフェロモンに負けて襲う者が現れてもおかしくないからね」  スッ、と聖司が目を鋭くさせ、背後で待機している所員たちに視線を送る。  何人かが気まずそうに目を逸らしたことに秋弥は気づく。  そして他の者たちの目には熱が宿り、高くなった温度のまま秋弥に視線を送っていることも──ただ一人、冬真を覗いて。  秋弥に首輪が巻かれた時、冬真が苦笑したのが見えた。  心なしか「あーあ、やっちゃったな」と言いたげで、秋弥の心が激しくざわつく。 (……いや、俺は間違っていない。これは聖司さんにとって大切な研究で、アルファの人たちにとっても切実なものだから……)  カチッ、と首輪に鍵をかけた音がした後。聖司は秋弥を覗き込みながら頭を撫でた。 「これで大丈夫。襲われても番になってしまうことはないよ。君は誰にも奪わせない」  満足げな笑み。そんなにオメガを研究したかったのかと思うと、秋弥も嬉しさで口元が綻ぶ。  聖司の力になれる。ベータの自分だったら、こんなに喜んでもらうことなんてできなかった。今の自分に誇らしさすら感じていた。  でも胸の奥が痛む。  オメガにならないと、聖司をここまで喜ばせることができない現実を突きつけられて──。

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!