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第四章:離れて気づくもの3

 榎本が言葉と同時に、俺に顔を近づける。夕日が差し込む廊下で、目に映る顔が一瞬煌めいた。射抜くようなまっすぐな瞳――その熱を前に、思考が追いつく前に事は起きた。  ――唇が触れた。柔らかな感触が一瞬、俺の唇に触れた瞬間、視界がぐらりと揺れて驚きに息を呑む。 (待て待て、これは夢なんかじゃない。榎本の唇の感触だ――) 「んっ!」  反射的に、両手で榎本の胸を強く押した。榎本の身体が一歩よろめき、俺たちの唇は離れる。そのまま力が抜けて、俺は廊下にしゃがみ込んでしまった。膝が震えて立っていられない。 「……な、なにを……」  喉の奥から掠れた声が漏れる。唇に残る温度が消えず、頭が真っ白になっていた。完璧な仮面で築いてきたはずの自分が、粉々に崩れ落ちていく感覚――。 「委員長……っ、ごめ、でも……俺、本気なんだ」  榎本の声が耳に届いても、顔を上げられなかった。肩が小刻みに震えている。怒りなのか、動揺なのか……自分でもわからない。ひとつだけ確かなのは――胸の奥で、心臓が荒々しく跳ね続けているということだった。 「榎本……どうして、俺なんだ……」  情けない声が、夕暮れの廊下にこぼれた。榎本はすぐには答えず、俺のすぐ傍に膝をつく。 「理由なんか、いらねぇだろ」  その声は驚くほど、すんなりと俺の耳に落ちた。飾りも理屈もない、俺だけに向けられた衝動。 「お前が委員長だからとか、完璧だからとか、そんなの関係ねぇ。俺自身が、佐伯がいいって思った。それだけだ」  胸の奥が激しく脈打った。「理由がない」――それは、俺にとって最も怖い言葉だった。努力も立場も関係なく、“存在そのもの”を選ばれること。そんな自由を、俺は心のどこかで羨ましく思っていた。  だが、それを受け入れてしまったら――。 「何を言ってるんだ……俺は、そんな対象じゃない」  ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。 「榎本がそう思っても、俺は……俺自身が許せない。だって俺は――」  張りぼてのアルファなのだからと思った瞬間、榎本の瞳が僅かに揺れた。だがすぐ、不敵な笑みを浮かべて言い放つ。 「じゃあ佐伯が許せるまで、俺がずっと隣にいてやるよ」  その真剣さと軽さが同居する宣言に、言葉を失う。夕陽に照らされた廊下に沈黙が流れたが、それはもう冷たいものではなかった。  ――俺は拒まなければならない。頭ではそう理解していた。けれど、心は……。 「逃げんなよ、委員長」  顔のすぐ前まで榎本がにじり寄る。息が触れるほど近い。顎をそっと指で持ち上げられ、逃げ場を塞がれる。 「ダメだ、やめろ……」  掠れた声で抗っても、身体がすくんで動けない。 「嫌なら本気で突き放せよ」  挑発するような囁きに、喉がひくりと鳴った。完璧な仮面が剥がされ、弱さを晒している自分がそこにいた。  そして――また、唇が重なる。反応するより早く、榎本の熱が押し寄せてきた。 (……っ! な、何を!)  再び頭の中が真っ白になる。抗う力も言葉も出てこない。体の芯に走る熱が、理性をドロドロに溶かしていく。短いはずの口づけが、永遠のように感じられた。 「佐伯、俺は本気だよ」  小さな声が、まっすぐに胸を貫く。心臓がぎゅっと掴まれたように痛んだ。  どうにか榎本を押し返して、何とか距離を取った。しゃがみ込んだまま後ずさり、荒い呼吸を繰り返す。胸の奥のざわめきが、どうしても消えなかった。 (俺は……なぜ、拒めなかった……?)  すぐに頭が答えを出す。――榎本はオメガだから。きっとフェロモンの影響だ。それ以外の理由はない。そう自分に言い聞かせる。でも心臓は、その嘘を叩き壊すように鳴っていた。 「……二度と、するな」  震える声で言い放ったが、榎本は一歩も引かない。その瞳はやけにキレイで、ふざけもごまかしもなかった。 「違うだろ。それ、本当は俺だからだ」 「なにを……」 「佐伯、いいか。フェロモンなんか言い訳にすんなよ。俺はずっと、お前を笑わせたくてB組に通い続けた。本気だからだ」  ひゅっと息が詰まる。ストレートな告白が、理性の防壁をいとも簡単に突き破っていく。 「涼。俺は……お前が好きだ。すげぇ好きなんだよ!」  その言葉に、胸がぐらりと揺れた。それでも顔を背け、必死に心を押し殺す。 (違う……榎本だからじゃない。違う……はずだ……!)  でも心臓は、もう答えを出していた。榎本に告白されたことや、ここでキスしたことも含めて、心が歓喜に満たされ震えている。 「それでも認めない。俺は……お前に惹かれたわけじゃない」  必死に言葉を並べる俺に、榎本は一歩踏み込んで言う。 「じゃあ、もっと証明してやるよ」 「証明……?」 「俺が“オメガだから”だって言うんなら、俺の本気を全部見せてやる」  空気が一瞬で甘く、熱を帯びる。榎本が意図的に、オメガのフェロモンを流したのがわかった。 「バカ、やめろ! そんなことをすれば……!」 「問題なんかどうでもいい! 俺は、涼に本気を知ってもらいたいだけだ!」  理性が必死に叫ぶ。でも――胸の奥では別の音が響いていた。理屈では止められない。体が、心が、榎本が欲しいと反応してしまっている。 「涼……」  榎本が俺の名を呼んだ。その声は今までで一番低く、一番真剣で一番優しかった。肩に置かれた手は、驚くほど優しくて――どうしても逃げられなかった。 「なぁ涼。言えよ。“嫌いだ”って。それなら諦めてやる」  震える唇を閉ざしたまま、何も言えない。喉元まで出かかった言葉が、どうしても口から出てこなかった。 「……言わねぇのか」  ふたりきりの廊下は沈黙のままだった。榎本が嬉しげに笑ってさらに近づき、俺の頬を包む。再び唇が重なった。 「うっ!」  前より深く、強く。逃れようとしても、指先に力が入らない。理性ではなく、榎本の熱と匂いが支配する世界の中にどんどん沈んでいく。 (どうして……コイツの言葉に、こんなに……俺は揺さぶられるんだ……!)  ようやく押し返して情けなく床に突っ伏した俺を、榎本は真剣な顔で見下ろした。その瞳に、ふざけは一片もない。 「わかった。無理させるつもりはねぇ。今はな」  不器用な笑みを浮かべながらも、視線はまっすぐ俺を射抜いてくる。 「でも俺は諦めねぇ。お前が拒絶したって俺は待つ。笑わせたくて近づきたくて……その気持ちは消えねぇから」  どんどん胸が熱くなる。否定したいのに、心がそれを拒む。 「榎本……」 「答えは急がなくていい。俺は待つって決めたから」  迷いのない言葉を聞き、夕陽に伸びた榎本の影を見上げながら、唇を噛み締める。胸の奥で鳴り響く鼓動だけが、嘘をつかなかった。

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