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第四章:離れて気づくもの4
榎本の言葉が、頭から離れなかった――「待つ」あのときの真剣な声が、何度も何度も脳裏で反芻される。胸の奥に小さな火種のように残っていて、息をするたびに疼いた。
でも俺は、その感情を必死に押し殺した。自身の家柄を考えれば、オメガとの関係などあり得ない。ましてや、“偽物のアルファ”と陰口を叩かれてきた俺が、オメガに惹かれるなんて知られたら――佐伯家の名は地に落ちる。そんなこと、絶対に許されない。
そう自分に言い聞かせながら迎えた週末。塾の帰り道、夜風に頬を撫でられながら歩いていたそのときだった。街灯の下に、見知った顔が数人――俺を待ち構えるように立っていた。
「よう、青陵の委員長さんよ」
「また会ったな、“張りぼてアルファ”」
青陵高校の周辺で幅を利かせている、他校の不良アルファたち。以前絡んできた連中が、わざわざ人数を増やして再び現れた。
「最近よぉ、オメガのガキとつるんでるって話じゃん?」
「アルファの委員長様がオメガに夢中? 笑わせんなよ」
他にも榎本のことを告げられたせいで、胸の奥が冷たく凍りついた。
(なぜだ……榎本とのことが、学校外で噂になっている?)
「くだらない。俺は急いでいる、どけ」
いつも通りの冷たい声で突き放したつもりだった。だがその瞬間、ひとりがニヤリと笑い、スマホを掲げてみせる。画面には廊下で榎本に距離を詰められて、焦った顔をした俺の姿が表示されていた。
盗撮という、明らかに悪意を感じさせる行為――あのとき誰かが物陰から撮影し、外部に流出させた。ひとえに俺を陥れるために。
「なぁ、これが広まったらどうなるかな? “名門・佐伯家の跡取りが、オメガに手ぇ出してる”ってよ」
喉がひりついて足がすくむ。反論する言葉が出てこない。これは非常にまずい。それでも、この最悪の状況を打破する手立てを考えていたら。
「てめぇら、何やってんだ!」
背後から怒鳴り声が辺りに響き渡った。慌てて振り返ると榎本が必死な様相で、全力でこちらに駆けてきていた。迷いなく不良のスマホを叩き落とし、拳を振るう。
「佐伯に手ぇ出すんじゃねぇ!」
喧嘩慣れした体が迷いなく敵にぶつかっていく。その姿は、普段の軽口とは別人のようだった。だが人数差は圧倒的だった。榎本ひとりでは到底持ちこたえられないのが、容易に想像つく。
胸の奥が、ざわざわと波打った。
(……俺は、また何もできないのか?)
榎本は一歩も退かず、拳を振り続けていた。しかし複数人から腹に蹴りを受け、顔面に拳を食らい、身体がよろめく。
「っ……ざけんな……まだだ……!」
血を滲ませながら、それでも榎本は立ち上がろうとする。その姿が、俺の胸を灼くように刺した。
(榎本やめろ。そんなボロボロになってまで……俺なんかのために……!)
体が大きく震えた。押し殺してきた衝動が、堰を切ったように噴き上がる。
「榎本やめろっ!!」
気づけば、夜道に俺の声が響いていた。次の瞬間、身体の奥底からアルファ特有のフェロモンが迸る。いつもより濃密で圧倒的な支配の匂いが周囲に満ち、空気が一瞬で変わった。
「なっ!?」
「ぐっ……動けねぇ……!」
不良たちが重たさのあるフェロモンを前に一斉に体勢を崩し、その場に膝をつく。抗えない圧力を感じて、あちこちから呻き声が漏れた。
目の前の状況に、俺自身が一番驚いていた。自分に、ここまでのフェロモンを放つ力があったなんて。でもそれ以上に榎本を守りたいという思いが、すべてを突き破った。
「佐伯……?」
血のにじむ口元で、榎本が俺の名を呼ぶ。目を見開き、呆然と俺を見つめていた。
「俺は……誰にも、お前を傷つけさせない」
それは強がりでも仮面でもなく、心の底から漏れた本音。不良たちは次々と退き、やがて夜道から姿を消した。残されたのは、息を荒げる俺と榎本だけ。
「佐伯……なんで、今まで隠してたんだよ」
榎本は苦笑しながら汗で濡れた額を拭い、血を舌で舐めとる。
「本当は、すげぇアルファじゃねぇか……」
その言葉に、胸の奥が詰まった。“偽物”だと決めつけていた心が、僅かに揺らいだ。
不良たちの気配が完全に消えた瞬間、張り詰めていた力が一気に抜け落ちる。視界がゆらゆら揺れ、喉が焼けるように乾いて。
「っ……は、ぁ……」
上半身が大きく揺れて、膝が勝手に折れた。
「おいっ、佐伯!?」
榎本が慌てて駆け寄り、俺の肩を支える。彼の体温がやけに熱い。
「やべぇ……無理してフェロモンを放ったから、その反動か?」
俺は答えられなかった。ただ息を荒げ、意識を繋ぎ止めるのに精一杯だった。
「……っ、情けないな。お前に助けられるなんて」
「バカ言え。情けないわけあるか!」
榎本は俺の腕を肩に回し、しっかりと体を支える。俺の放ったアルファの匂いがまだ空気に残っているのに、榎本は眉ひとつ動かさず、むしろそれを受け止めてくれた。
「佐伯、今度は俺に守らせろ。今くらいは俺の番だろ」
普段は騒がしくてうるさいくらいの男が、このときだけは静かに真剣に言った。その声が、胸の奥に深く沈んでいく。
(俺なんかを、こんなふうに……)
情けなく崩れた自分を、それでも榎本はまっすぐに支えてくれる。そんな存在が、胸の奥でどうしようもな熱くなっていた。
「佐伯大丈夫だ。俺がいるから」
耳元で囁かれたその声に安堵して、榎本に体重を預ける。視界の端で、街灯の光が滲んで見えた。
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