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第五章:壊したい未来、守りたい人3

 その日、胸の鼓動がやけに早かった。家政婦から受け取ったメモを何度も確かめて、俺は街の中心にある高級ホテルの前に立っていた。 (本当に……ここでいいんだよな)  背筋を伸ばして見上げる建物は、まるで別世界みたいだった。スーツ姿の人たちが行き交う中、学生服の俺だけが場違いだ。それでも足は止まらなかった。 (絶対に、今日で終わらせる。佐伯の“偽りの未来”なんて――)  フロントでうまいこと事情をでっち上げ、会食の部屋を探し出す。長い廊下を歩くたび、心臓が爆発しそうだった。  そして見つけた。ルームサービススタッフが出入りするタイミングで重厚な扉が開き、部屋の向こう側から聞き覚えのある低い声が耳に聞こえた。それは、佐伯の硬く押し殺した声だった。 「……はい。両家の関係が良好に――」  その声に耐えきれず、ノックもせずに扉を開いた。ざわっと空気が揺れる。テーブルを囲む大人たち。その中央で、正装姿の佐伯が驚いたように立ち上がった。 「榎本!? お前、どうして――」 「どうしてって……来るなって言われたけど、来た」  口から出た言葉は、勢いだけでできていた。だからこそ止まらなかった。 「佐伯、こんなのおかしいだろ! 本当は嫌なんだろ!?」  ざわめく大人たちをよそに、まっすぐ佐伯だけを見据える。許嫁らしい女性が驚いた表情で立ち上がるのが視界の端に映ったが、今の俺には何も見えなかった。 「この間、俺を知りたいって言ってただろ……なのに、なんで黙ってこんなとこに座ってんだよ!」  いろんな感情が声になって表れる。それは怒りとも、悲しみともつかない。佐伯の瞳が痛いほど揺れた。それでも彼は、必死に冷静を装おうとしていた。 「くだらないことを言ってないで帰れ、榎本。お前がここにいると……本当に全部壊れる」 「壊れていい! そんなもん、壊れて当然だろ!」  自分を偽ろうとする佐伯の心を動かしてやろうとしたら、自然と大きな声が出た。大人たちの視線が一斉に突き刺さる。それでも俺は一歩も引かなかった。 「お前の人生はお前のもんだ。家の名前も、誰かの都合も関係ねぇ! 俺は、お前が本当に笑う顔が見たいだけなんだ!」  会席の場に沈黙が落ちた。その中で、佐伯の肩が大きく震える。ゆっくりと顔を上げたその瞳には、初めて見るほどの感情が宿っていた。 「榎本……やっぱりお前は……無茶苦茶だ」  力なく笑って一歩、俺の方へ踏み出す。 「でも……俺も、本当は限界なんだ」  俯いて呟いた声が、ハッキリと佐伯の気持ちを表していた。許嫁も、両親たちも、何も言えずに見守っている。佐伯はきちんと背筋を伸ばした後、彼らに深く頭を下げた。 「――申し訳ありません。俺は、他の誰かを選ぶことはできません」  佐伯の告げた言葉で、嫌な空気が会食の場に漂う。けれど佐伯の声が耳に聞こえた瞬間、俺の胸の奥で何かが弾けた。 (佐伯のヤツ言った……!)  涙が出そうになるのを堪える。佐伯は顔を上げ、まっすぐこちらを見た。 「俺が本当に離れたくないのは――榎本なんです」  世界が静まり返った。誰も何も言えないまま、秒針の音だけが響く。たぶん、このあと何が起こるかなんて想像もつかない。それでも俺は構わなかった。  佐伯が本心を口にした。それだけで十分だった。俺はゆっくりと歩み寄り、彼の肩にそっと手を置いた。 「自分の気持ち、やっと言ったな」  佐伯は息を詰まらせながら、瞳を細めて小さく笑った。その笑みが、俺のすべてを救った。その瞬間、確信した。俺はどんな未来が待っていようと、もう絶対にコイツを離さない。  俺たちが視線を合わせてほほ笑み合うのを阻止するように、部屋の空気が爆発したように揺れた。椅子が動く音、誰かの短い叫び。許嫁の父親らしい男が勢いよく立ち上がり、テーブルを叩いた。 「なんだそれは! ふざけるにも程があるぞ、佐伯!」  あちこちから怒号が飛ぶ。佐伯の父親も青ざめた顔で息子を睨みつけた。母親が慌てて制止の声をあげるが、もはや誰も止まらない。  けれど、佐伯は一歩も引かなかった。その姿が、眩しいほど彼らしくて綺麗だった。 「申し訳ありません。誰に何を言われても、俺の気持ちは変えられません」 「お前は家の重みをわかっていない!」 「わかってます。だからこそ、誰かを騙してまで幸せを作るような真似を、俺はしたくありません!」  その言葉に、誰かが息を呑む音がした。佐伯の母親が唇を押さえて俯いた。そして、怒鳴る声と視線の嵐の中で――俺は動いた。 「もうやめろよ」  気づいたら、彼の前に立っていた。佐伯の肩を軽く押さえながら、静かに言う。 「これ以上、無理して誰かに合わせる必要なんてねぇ。お前が本当に望んでるなら、俺が一緒に何とかする」 「榎本……」 「うるせぇ親父さんたちの前で言うのもアレだけど、俺はマジで本気なんだよ」  その言葉に、佐伯の目がゆらゆら揺れた。ほんの一瞬だけ、唇の端が震える。 「……ありがとう」  その小さな声だけで、全部報われた気がした。次の瞬間、後ろから怒鳴り声が飛ぶ。 「待ちなさい! 話はまだ――」  でも、もう遅かった。佐伯の手が俺の袖を引いた。驚く間もなく俺たちはその場を飛び出し、廊下を駆け抜ける。ホテルの照明がやけに眩しい。エレベーターを待つ時間さえ惜しくて、非常階段を駆け下りた。  息が切れて、足が震えて、それでも笑いが込み上げてくる。追いかけてくる足音もない。ホテルの外へ飛び出した瞬間、夜風が頬を打った。 「はぁ……はぁ……佐伯っ、マジでやったな」 「榎本……お前が来たからだ。……俺一人だったら、何も言えなかった」  息を整えながら、佐伯が小さく笑う。街の灯りが、その横顔を柔らかく照らした。 「壊れたな、たぶんいろんな意味で」 「壊してよかっただろ。あんな未来、嘘っぱちだ」  言いながら、胸の奥がじんわりと熱くなる。佐伯が、ゆっくりと俺の手を取った。指先が震えていたけど、その握る力は確かだった。 「……もう、離さないでくれ」 「ああ、離さねぇよ」  交わした手の中に、全ての答えがあった。  その夜、俺たちは駅のホームのベンチに並んで座った。電車の音が遠くで響く。誰もいないプラットフォームで、佐伯がぽつりと呟く。 「佐伯、これから、どうなるんだろうな」 「さぁな。お前と一緒に笑える未来なら、それでいい」  そう言うと、彼は静かに目を閉じた。冷たい風の中、握った手だけが温かかった。――どんなに困難でも、今日だけは確かに掴んだ。俺たちの“本当の未来”を。

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