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第五章:壊したい未来、守りたい人6

 佐伯を会食の場から連れ出して、数日が経った。なぜか学校では、その出来事の噂が広まっていた。 「佐伯の家、許嫁との顔合わせが破談になったらしいよ」  そんな囁きを耳にするたび、胸の奥が小さく痛む。あの日、あの場で“全部壊した”のは俺だ。結果的に佐伯が自分の意思を貫けたことは嬉しい。だけど誰かを傷つけたこともまた、紛れもない事実だった。  だから俺は決めた。逃げずに、ちゃんと謝りに行こうと。  日曜の午後。佐伯家の重厚な門の前に立った瞬間、喉がひどく渇いた。何度も深呼吸しても、鼓動は落ち着かない。 (……すげぇ怖い。でも、行くしかねぇ)  呼び鈴に出たのは、顔見知りになった家政婦だった。彼女は驚いた顔で迎えてくれる。 「榎本さん……?」 「すみません、突然。例の件で佐伯の……お父さんに謝りたくて来ました」  案内された和室の応接間には、静かな気配が漂っていた。重厚な時計の音が、やけに大きく響く。しばらくして現れたスーツ姿の男性――佐伯の父が現れる。背筋の通った姿勢と、佐伯によく似た冷静な眼差し。けれどその奥には、どこか疲れの色が見えた。 「榎本くんか。今日は何の用だ?」 「あのぅ……先日は本当に、申し訳ありませんでした!」  その場で深く頭を下げる。目を閉じたまま、額が畳に触れそうなほどに。 「俺のせいで、許嫁との顔合わせを台無しにしてしまって……。でもあのまま黙っていたら、きっと佐伯が苦しむと思って。だから……」  震える声が、空気の中で溶けた。しばらくの沈黙のあと、低く落ち着いた声が返ってきた。 「顔合わせの件は、確かに行き過ぎだったかもしれない。しかし破談を決めたのは私ではなく、涼本人だ。あの場で本人が宣言しただろう?」 「確かに……そうですけど、でも俺が引き金を――」 「あの後、涼が私に謝罪をした際に榎本くん、君の名前を何度も出した。“彼の前では、嘘をつきたくない”と言ってね」  その言葉に、胸が強く締めつけられた。あのときの佐伯の震えた声が、頭の奥で蘇る。  佐伯の父は少しだけ視線を伏せ、紅茶のカップを指先でなぞった。 「――あの子の生まれについて、少し話そう」  佐伯の出生を知ることができることに俺は息を呑み、黙って頷いた。 「涼の“生みの親”は、私の秘書をしていたオメガの男性だった。当然、家が許さない関係だった。私は佐伯家の次期当主としての立場に縛られ、彼はただの部下。そして、私は彼を守り切れなかった」  最初と比べて、声がか細く震えていた。厳格な父親だと思っていたその男の表情に、一瞬だけ人間らしい影が落ちる。 「涼が生まれた後、彼は体を壊した。それでも無理を押して働き続け、私と一緒になれないまま……数年後に亡くなった。彼が残したのは、“あの子を普通の子として育ててほしい”という手紙だけだった」  きっと佐伯は、生みの親であるオメガの親を守りたかったはず。だから頑なに「誰かのために強くあろう」としたのか。もしかして誰かを守ることが、彼の中で“生きる意味”になっていたのかもしれない。 「私は、あの子に同じ孤独を味あわせたくなかった。だから“家”を、形として与えた。だが、それがあの子の重荷になっていたのだろう」  静かな告白だった。その言葉を聞きながら、俺の中で一つの覚悟が固まった。 「……俺たちの立場は違うかもしれない。だけどやっぱり……佐伯の傍にいたいです」 「君にはわかるのか? あの子の背負っているものが」 「わからないです。でも、理解しようとは思ってます。どんなに時間がかかっても」  その言葉に、佐伯の父はふっと瞳を細めた。 「君は正直だな。かつて私が愛した人に、どこか似ている……」  短く息を吐いて、彼は小さく笑った。僅かに寂しげで、けれどあたたかい笑みだった。その微笑に見惚れていたら、扉の向こうで足音がした。 「父さん……榎本?」  佐伯が扉の前に立っていた。俺の顔を見て、驚きと安堵が入り混じった表情を浮かべる。 「悪い、勝手に来た」 「いや……来てくれて、ありがとう」  短い会話。それだけで俺は十分だった。佐伯と目が合った瞬間、心の奥が静かにほどけていく。  佐伯家からの帰り道、夕陽が街を茜に染めていた。隣にいる佐伯がふと呟いた。 「父さん、俺のことを話したのか?」 「ああ。お前の本当の親のことも」 「……そうか」  佐伯は少しの間、沈黙したあと優しく笑った。 「でも俺の家族は今はもう……榎本だから」  その言葉に、息が止まる。夕陽の光がふたりの間を照らす中、そっと手が触れ合った。それだけで、胸の奥があたたかく満たされていく。  ――この手を、もう二度と離すことはない。そう心に誓いながら、俺は夕暮れの道を並んで歩き出した。

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