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第五章:壊したい未来、守りたい人7

 次の日の朝。教室に入ると同時に、いつものように教科書を机に並べた。榎本と番になって、本音を漏らした夜から、まだ数日しか経っていない。  父への謝罪、そして新しい関係の始まり――考えることが多すぎて、寝不足が続いていた。胸の奥が、ずっとざわついている。 「おーっす、佐伯! 昨日はよく眠れたか?」  その声が、やけに明るく響く。教室の空気が一瞬で榎本のものになる。それは、いつもの日常のはじまりだった。 「榎本、声がでかい。クラス全員に聞かせてどうする」  できるだけ冷静に返したが、心臓はうるさいほどに鳴っていた。眉をひそめながらも、視線を逸らせない。 「おいおい、そこは『おはよう』だろ? カレシに向かってよ」  にやりと笑い、顔を覗き込む榎本。隣の席のベータが「え、今、カレシって……?」と囁くのが聞こえた。空気が一瞬、ざわめく。 (――やめろ、その言葉を人前で使うな) 「榎本!」  思わず強めに声を出す。榎本は「悪ぃ悪ぃ」と肩を竦め、まるで悪びれもせずに笑った。 「まだ慣れてなくてさ!」  ――それは俺も同じだった。今まで“問題児”としてしか見ていなかった相手が、突然“恋人”になった。どう振る舞えばいいのか、正解がまったくわからない。 (俺は……ちゃんと恋人として、榎本に向き合えているのか?)  昼休みになった途端に、B組に現れた榎本に強引に腕を引かれ、購買へ行くことになった。いつものように彼はパンを二つ買って、一つを当然のように俺へ差し出す。 「ほら、半分こな」 「俺は弁当が――」 「いーから食えって。カレシの分だろ」  さらっと「カレシ」と言う榎本に、周囲の視線がまた集まる。胸の奥がざわめき、どうにか無表情を保ちながらパンを受け取った。ほんの少しだけ、指が触れる。そこから僅かな熱が伝わってきて、喉が詰まった。  渋い表情を決め込んで一口かじると、榎本が期待通りの反応を求めるようにニヤつく。 「どうだ?」 「……悪くはない」  短く返すと、榎本は満足げに笑い「だよな!」と声をあげる。そんな彼の屈託のなさに、俺は少しだけ唇を噛んだ。 (……こんなにも気持ちが揺さぶられるのに、俺はまだ“恋人らしいこと”ができていない)  榎本の笑顔を見ながら、ふと気づく。その明るい表情の奥に、ほんの少しだけ不安が隠れている。自分がどう思われているのか、彼もまた探っているのだろう。  胸の奥がきゅっと締めつけられる。  言葉にできないまま、俺はパンをもう一口かじった。甘い香りが喉を通り抜ける。 (……俺が自分の気持ちを、ちゃんと伝えなきゃいけないんだな)  その思いが、静かに胸の底に沈んでいった。まだぎこちない関係だけど――この手で、確かに育てていかなければならない。

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