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番外編 初めての委員長会議

 放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。窓から差し込む春の西日が、机の上に配られた議題プリントを橙色に染めている。  新学年が始まって、まだ数日。クラスの空気も顔ぶれも、まだ完全には馴染んでいない。  そんな中で俺は委員長会議用の資料を机に広げながら、向かいの席に座る男を見た。  西野陽太――今年の二年B組の委員長。背筋を伸ばして座っているのはこっちのはずなのに、なぜか教室の空気ごと自分のものにしているような存在感がある。  自然と人の視線が集まるタイプだ。声を出さなくても、そういう人間だとわかる。 「よろしくな、佐伯」  先に声をかけてきたのは、西野の方だった。人懐こい口調に、ほんの少しだけ視線を上げる。 「……ああ。よろしく」  必要な返答だけを返す。別に、愛想がないつもりはない。ただ、最初から距離を詰める意味を感じないだけ。  だが西野は、そんな俺の反応を気にした様子もなく、むしろ少し楽しそうに笑った。 「そんなに、かしこまらなくてもいいって。委員会っていっても、最初は文化祭の係決めとか、クラス目標とか、そのへんだろ?」  曖昧だ。あまりに曖昧で、思わず言葉が先に出た。 「そういう曖昧な進め方は好きじゃない」 「え?」  西野が目を丸くする。俺は机上のプリントを指先で押さえた。 「最初に、役割分担を明確にした方が効率がいい。西野、おまえは人前で話すのが得意そうだ」  少し間を置いて続ける。 「俺は裏方をやる」  クラスを動かすには、前に立つ人間と支える人間が必要だ。西野陽太は、間違いなく前者に違いない。  声が通って表情が明るい。人を安心させる空気を持っている。だからこそ、俺が前に出る必要はない。 「じゃあ俺が前で、佐伯が支えてくれる感じ?」 「その方が合理的だろ」  そう返すと西野は一瞬黙って、それからふっと笑った。 「悪くないな」  少しだけ意外だった。普通なら、初対面でここまで言われれば反発するか、少なくとも探るはずだ。なのにコイツは、まるで最初からそう決まっていたみたいに受け入れる。 (……面倒がない)  そう思ったときだった。 「おーい、佐伯ー!」  窓の外、隣のクラスの廊下から聞き慣れた声が飛んできた。反射的に顔を上げる。榎本虎太郎が、窓越しに大きく手を振っていた。  あいつは、本当に遠慮というものを知らない。だが、その姿を見た瞬間、張っていた思考の糸が少しだけ緩むのを自覚した。  すると向かいから、くすっと笑う気配がした。 「……今の顔の方がいいな」 「……何がだ」 「佐伯って、ちゃんと笑えるんだなって」  思わず言葉に詰まる。笑ったつもりはなかった。けれど、西野にはそう見えたらしい。  窓の向こうで相変わらず手を振っている榎本と、目の前で面白そうにこちらを見る西野。  新しいクラス、新しい役目。正直、面倒だと思っていた。だが――。 (コイツとなら、案外悪くないかもしれない)  そんな予感が、春の西日に溶けるように胸の奥へ落ちていった。  委員長会議が終わる頃には、教室の西日が机の角を長く照らしていた。配布資料を揃えていると、廊下側の扉から軽い声が飛び込んでくる。 「佐伯」  顔を上げると、隣のクラスの扉にもたれるようにして榎本が立っていた。どこか人の懐へ入り込むのが、うまい笑い方をしている。 「終わった?」 「ああ」 「じゃ、いつもの場所で待ってるから」  それだけ言って、榎本はひらりと手を振る。返事を待たずに背を向けるその足取りは、相変わらず自由だ。  けれど、不思議と不快ではない。いつもの場所――中庭脇のベンチだろう。最近、放課後になるとあいつはよくそこにいる。  視線でその背中を追っていると、隣からふっと声がした。 「榎本と、仲いいんだな」  西野陽太だった。委員長として残っていた資料を抱えながら、こちらを見ている。 「……同じ委員会で関わることが多いだけだ」  そう答えると、西野は小さく笑った。 「そうか? なんか、空気が違う気がした」  妙に人をよく見ている男だ。  答えに困っていると、西野がふと思い出したように言った。 「そういえば去年の文化祭、すごかったよな」  一瞬、手が止まる。 「……文化祭?」 「ロミオとジュリエット」  その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。  去年の舞台。スポットライトの熱。客席の暗がり。そして、ロミオとして真っ直ぐこちらへ手を差し伸べた榎本の姿……あれが、すべての始まりだった。 「おまえ、ジュリエットだったよな」  西野の声は、からかいではなかった。 「……そうだ」 「意外だった」  率直すぎる感想に、思わず眉を寄せる。 「悪い意味じゃなくてさ」  西野は慌てたように続けた。 「もっとこう……佐伯って堅いイメージあったから」 「否定はしない」 「でも舞台の上では、全然違った」  その言葉に、思わず西野を見る。 「榎本がロミオで、おまえがジュリエットって配役、最初は驚いたけど」  西野は少しだけ目を細めた。 「すごく、しっくりきてた」  胸の奥が、静かに揺れる。  しっくりきていた――。  あのときの榎本は、舞台の上でまっすぐこちらを見ていた。告げられているのは決められたセリフで、演技だとわかっているのに、まるで本当に自分だけに向けられているようで。  だからこそ、あの瞬間から何かが変わった。 「……あれがきっかけだったのかもな」  気づけば、そんな言葉が口をついていた。 「ん?」 「いや……なんでもない」  言いかけて、飲み込む。あの舞台がなければ、今の自分と榎本の距離はなかったかもしれない。そんなことを、西野に説明する必要はない。  けれど、こいつなら何か察してしまいそうだった。案の定、西野はにやりと笑う。 「ふーん?」 「その顔をやめろ」 「榎本、待たせてるんだろ」  図星を突かれて、思わず息をつく。 「……行ってくる」  資料を抱えて教室を出る。  廊下の向こう、中庭へ続く階段の先に、あいつがいる。ただそれだけのことなのに、足が自然と少し速くなる。去年の文化祭で差し出された手を思い出しながら、校庭のベンチに向かったのだった。 ***  中庭脇のベンチは、放課後になるとちょうど西日が差し込む。春の風はまだ少し冷たいけれど、校舎の壁に守られているせいか、この場所は妙に落ち着いた。  俺は、ベンチの背にもたれながら空を見上げる。 「……遅いなあ、ジュリエット」  わざと小さく呟いてみる。  去年の文化祭。あの舞台以来、佐伯をからかうときは、ついこの呼び方が口をついてしまう。最初は本気で嫌そうな顔をしていたくせに、最近はため息ひとつで流すようになった。それが少しだけ嬉しい。  足音が近づいてきて、自然と顔を上げる。予想通り、校舎の影から佐伯が現れた。  真っ直ぐで、無駄のない歩き方。委員長会議帰りらしく、プリントの束を抱えている。 「おそーい」  言うと、佐伯は呆れたように眉を寄せた。 「待たせたのは悪かった」 「え、ちゃんと謝るの? 珍し」 「おまえが呼んだんだろう」  隣に腰を下ろす仕草も、どこかきっちりしている。ほんと、変わらない。でも去年のあの日から、確実に何かは変わった。 「委員長会議どうだった?」 「西野が思ったより話しやすい」 「へえ」  ちょっと意外で、思わず目を丸くする。 「もっと堅物同士で、空気が凍るかと思ってた」 「おまえ、俺をなんだと思ってる」 「ジュリエット」  即答すると、佐伯が深々とため息をついた。 「……まだ言うのか」 「だって、似合ってたし」  その瞬間、佐伯の視線がほんの少し揺れる。その反応が面白くて、つい笑ってしまう。 「去年さ、ほんとびっくりしたんだよ」 「何がだ」 「まさか、佐伯がジュリエットやるなんて」  文化祭の配役発表のときの空気を思い出す。  誰かの推薦で佐伯がジュリエットになることが決まり、1年全員がざわついた。それなのに本人は信じられないほど無表情で、でも俺は妙に納得してしまった。  たぶん、あのときからだ。コイツの“きれいさ”に気づいていたのは。 「……おまえのロミオも、大概だったぞ」  ぼそっと返ってきた言葉に、今度はこちらが目を瞬く。 「え?」 「舞台の上で、妙に真に迫っていた」  少しだけ低い声。西日が佐伯の横顔を赤く染めている。 「そりゃあ、相手がジュリエットだったから」  冗談半分で言ったのに、佐伯が一瞬黙った。そして、珍しく視線を逸らした。 (……ああ、そういうところだ)  こういう小さな沈黙が、舞台のあとから増えた。前よりずっと、互いを意識している。 「なあ、佐伯」 「なんだ」 「去年の文化祭、楽しかった?」  少しの間に、風が木の葉を揺らす音だけが流れる。 「……ああ」  短い返事。でも、それだけで十分だった。 「俺も」  ベンチの端で、肩が少しだけ触れる。どちらも避けない。去年までは、こんな距離にならなかった。 「また今年も、なんか一緒にやりたいな」  そう言うと、佐伯は呆れたように息を吐く。 「面倒事に巻き込む気か」 「巻き込まれてくれるだろ?」  問いかけると、佐伯は少しだけ笑った。本当に、ほんの少しだけ。 「……おまえ次第だ」  その言葉に、胸の奥があたたかくなる。  ロミオとジュリエット。あえて逆転した役が、俺たちの距離を変えた。あの舞台の続きを、きっと今も歩いている。

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