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第一章-1

 乾いた大地、降り注ぐ灼熱(しゃくねつ)。息を吸えば肺が焼けるように痛み、喉は常に張り付いたように渇いていた。  食糧を探そうと乾き切った地面を爪で抉り、指が赤に染まったことは一度や二度じゃない。  生きるためならなんでもやった。何度も死んだ方がマシだと思った。  だけどできなかったから、俺は今生きている。  それなのに。 「は、なせ……っ!! んな、やめろよ……!」  どうして、こんなことになる。 「──ぁ、っ……!!」  生きるためならなんでもやった。  盗むことも、(だま)すことも、誰かを傷つけることだって、なんでも。 「ひ、嫌だ、いやだいやだいやだ!! 頼むから……っ」  どれだけ薄汚れてもいいと、そう、思っていたのに。 「いやだ……っ!」  死にたい。  俺は、何年振りかに心の底からそう思った。      *    生まれた環境を嘆いても仕方がない。運が無かったと開き直ってしまえば、人生というのは案外楽に生きていけるものだ。  (ねた)(そね)みじゃ腹は膨れない、むしろどんどん腹が減る。  働かざるもの食うべからず、それは俺が生まれ育った環境ではガキの頃から叩き込まれる常識だ。立って喋れたらそいつはもう労働力、施しを受ける対象からは外れる。  あり得ないって? いやあり得ちゃうんだな、これが。  そんな世界もあるんだって、その綺麗なことしか詰まってないような頭に叩き込んどいてよ。  そして生まれた環境はもちろん、もう一つ厄介なことがある。  性別だ。  人生イージーモードなのがアルファ、ノーマルモードなのがベータ、ハードモードがオメガ。ただしオメガは生まれた環境によって色々モードが変わる。  スラム街出身のオメガなんて目も当てられないよ。マジご愁傷様(しゅうしょうさま)って感じ。体は弱いし筋肉は付きにくいし頭だってあんまり良くない。これで超ド級の美人だっていうのなら話はまた違うんだろうけど、そんなうまくはいかない訳で。  何が言いたいかっていうと、俺がそのスラム出身のすべてにおいてちょっと劣るオメガだってことね。  人生ハードモード過ぎて逆に笑うしかないよねって感じなんだけどさ、こういう性格だからそれなりに楽しく生きてんの。  そりゃあ国を統治している王族とか権力者とか反吐が出るほど嫌いだけど、そんなの俺には関係ないって話。雲の上のヒトの話をしたって、これもまたしょうがない。  ボロ布みたいな服を着て、お偉いさん方にゴマを擦って靴とか磨いてその日を生きる。それである程度金が貯まったらこんな国を出て自由に暮らすって、そんな夢があったんだけどな。  本当、権力者って嫌い。    ジリジリとした暑さが地面を焼いて、吹く風が空気中に含まれている僅かな水分をすべて掠め取っていく。空だけは嫌になる程青くて、雲ひとつもない。  それはまた今日も雨が降らないことを如実(にょじつ)に現していた。 「あっぢぃ……」  容赦無く照りつける太陽を頭に被ったボロ布でどうにかやり過ごそうとするがそれはただの気休めにしかならない。砂塵(さじん)を含んだ風が吹き荒び、目も開けていられないような状況もここでは普通だった。 「……ソロ、」  名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのは痩せ細った、まるで枯れ枝のような狐の獣人。 「……ダメだった?」 「ああ」 「……そっか、仕方がねえな」 「……ああ」  ボロ布で隠れた枯れ枝の老人と同じ薄茶色の耳が垂れ下がる。  こんな別れは、一体何度目だろうか。 「……埋めてやんないとな。どこが良いかな、エルドの丘とか? あいつ花が好きだからさ、あそこなら、ちょっとくらい咲くんじゃねえかな」  水も、食料も無い。  俺がいるこのスラム街では俺たちの命なんて、きっと紙より軽い。何度経験しても慣れはしないが、それでも涙なんてものはとうの昔に枯れ果ててしまった。 「……あっちいから今日中にやらねえと。ジイさん、(くわ)持ってくな」  カラカラに乾いた地面を踏みながら石で作られた家に入る。所々ヒビが入っていて、お世辞にも綺麗な家だなんて言えない。いつもみんなが寝ている所でぐったりとしている小さな子供を抱き抱えて俺は家を出る。  触れる体はまだ温かいのに息はしていない。あと数時間もすれば体も固くなって、この季節だから腐るのも早いだろう。 「マリー、暑かったな。喉も渇いたよなぁ、腹も減ったし、ホント、夏って嫌になるな」  スラム街を抜けて荒れた大地をしばらく進んだ先にある丘を登る。  高台に位置するエルドの丘と呼ばれるこの場所には荒野には珍しく僅かではあるが木や草が生えている。その丘の一番高い場所、スラム街を含めたこの国が見渡せる場所に眠っているようにしか見えない子供を横たわらせる。口元に耳を近づけて、手を胸に押し付けても返ってくるものは何もない。酷く痩せて土埃で肌は茶色く汚れていた。  けれど、穏やかな顔をしていることがせめてもの救いだった。 「……マリー、次生まれて来るときはちゃんと金持ちの家に生まれろよ。うまいもん腹いっぱい食って、勉強もできて、オシャレもできる。そんな家に生まれるんだぞ、良いな。……ソロ兄ちゃんとの約束な」  パサつく髪を撫でて鍬を握る。乾き切った土を掘るのは案外重労働で、子供一人寝かせる穴を掘るだけで汗が滝のように吹き出す。涙は出ないのに汗は出るのかと、自分の薄情さ加減に笑いが漏れる。 「……泣いてやれないでごめんな。おやすみ、マリー」  掘り終えた穴に子供を寝かせて静かに土を被せていく。  乾いた音と俺の息遣いが風の音に掻き消される。どこまでも優しくない世界に、俺は笑うことしかできなかった。  被せた土の上から木で作った十字架を立てる。細い枯れ枝を麻紐で結んだだけのそれがこの土の下で眠るあの子の墓標(ぼひょう)になる。膝をつき両手を合わせて、せめてマリーが安らかに眠れるようにと祈り、膝に手を置いて立ち上がった時轟音が響いた。 「……、雷の音ならどんだけ良かったかな」  睨んだ先にあるのは白亜の城、この国の王や貴族が住む都。  今日はお貴族様が他国の王族を招いてのパーティーをするらしい。それの到着を祝う大砲が何発も上がる。真昼なのに花火すら上がる浮かれように俺は歪に口角が上がるのを感じた。 「……良い御身分だよなぁ」  自分とは比べることも烏滸(おこ)がましい程正反対の世界に口から出るのは憧れではなく、行き場のない怒りだった。でも、それを思ってもしょうがないというのは嫌と言うほどわかっている。  生まれた世界が違うのだ。恨むなら、ここに生まれた自分を恨め。 「……マリー、次はお姫様にでも生まれて来いよ。お前すげえ良い子だったからさ、神様もきっとそれくらいの幸運はくれるだろ。……じゃあな」  来る時とは違う軽い体に言いようのない寂しさを覚えながら俺は家に帰る。帰ったら今日も都に行って靴を磨いて日銭を稼ぐ。そうやって俺は毎日を食い繋いできた。  だから今日もそうなる筈だった。 「……パーティーの給仕係?」  いつもなら柄の悪い奴らの怒号や悲鳴で騒がしいか、何の音もしないかの二択しかないスラム街が妙に色めき立っていた。  理由は声に出した通り、何と今日王宮で行われるパーティーでの給仕係を募集しているらしい。 「そーだよ! 俺絶対立候補する!」 「私も、私もー!」 「バーカお前らさっきの役人の言ってること聞いてたか? 立候補できるのは十六歳以上の最低限の読み書きができる大人しいやつだけ。お前らはまだガキだから無理だっつの!」  パーティー当日に給仕の募集なんて怪しすぎる。しかもスラム街に。  嫌な臭いしかしない募集に俺はその場から離れるように家の中へと入っていく。相変わらずのボロさ加減に溜息が出るが屋根があるだけマシだった。 「ソロ、帰ったか」 「うん」 「……お前は行かないのか?」 「王宮? 行くわけないじゃん。怪し過ぎる。絶対なんか裏があるに決まってる」  枯れ枝のような男、ジイさんは俺の言葉にそうか、としか返さなかった。  俺たちは別に家族というわけではなくて、ただ偶然なんとなく同じ縄張りにいてなんとなく共同生活を送る、そんな関係だった。  俺はスラム街では珍しく文字を書けるし読めもする。それはこのジイさんが教えてくれたからに他ならない。俺が働いて飯を調達する代わりに、ジイさんは俺に勉強を教えてくれていた。  今にも崩れそうな木でできた椅子に腰掛けて、数日前の仕事の際に拾ってきた新聞に目を通す。  そこに映るのはこの国の王族達と、これから開かれるパーティーがこの国にとってどれだけ有益かを語る文章だった。獅子が治めるこの国と虎が治める大国が友好関係を築いてもう数百年は経っただろう。  それが今更パーティーを開いてなんになるというのか。 「……仕事行ってくる」 「ソロ、お前もうすぐあれが来るんじゃないのか」  新聞をテーブルに置いて土埃や垢で汚れた顔をフードで隠す。  いつも通り家を出ようとした時に背中からかけられた声に思わず鼻で笑って、粗末(そまつ)な素材でできた首枷(くびかせ)を欠けた爪で引っ掻いた。 「……言ったろ、俺は不良品なんだって。俺には発情期(ヒート)なんて来ねえよ」  何か言いたげなジイさんに背を向けて俺は歩き出す。 (もし俺がオメガじゃなくて、アルファだったら、マリーは生きてたのかな)  オメガにしては高い身長に、愛嬌(あいきょう)も柔らかさもない顔。ガリガリに痩せた体に、(くす)んだ茶色の髪。狐の獣人特有の豊かな尻尾も俺の体じゃただのみすぼらしい細い尻尾だ。  今年で成人になる俺は、未だに一度も発情期(ヒート)を迎えたことがない。  でもそれで良かった。一生、そんなもの来なくて良いとすら思っている。そんなもの俺には邪魔なだけで、もし俺がこれから行く王都でヒートなんか起こしたらと思うと想像だけで何も入っていない胃から何かが逆流しそうだった。  欠片も楽しくない想像をしていたらいつの間にか門の前に来ていた。都に入るのにはこの門を通る必要がある。  城を中心とするなら一番近い円が貴族の家がある富裕層、次の円が商家や劇場がところ狭しと並ぶ繁華街、それから城下町があって、民家があって、綺麗な水と豊かな緑、うまい飯、そんな綺麗で賑やかな場所を都という。  俺達が生きているスラム街は円の外。都とそう離れていないのに環境の差はえげつない。  けれど、都以外の街は大体スラムと似通っているというのを聞いたことがある。  ただ俺たちの街は一応王様のお膝元だから税率はそこが基準。驚くほど貧乏なのに税金はガッチリ持っていかれる。そのせいで飢えて死のうがなんだろうが、雲の上のヒトたちにはどうでもいいことらしい。  どうでもいいに分類される俺は今日もこっそり門を通り、都の中でも少し治安の悪い場所に腰を下ろしていつものように木の板に『靴磨きます』と書いて壁に置いておく。  靴を乗せるための箱も用意して、後は待つだけとなった途端にとん、と磨かなくても十分に綺麗な靴が乗せられた。 「ねえ君さ、スラムの子?」  頭上から聞こえた明るい声に顔を上げる。  見るからに貴族の男は人懐っこそうな笑みを浮かべて俺のことをじっと見ている。見ない顔だな、素直にそう思った。 「……そうですけど、何か?」 「え、敬語使えんの? うわ、意外かも! ねえねえ、君さ、さっきその文字も書いてたよね?」  明るいオレンジ色の艶やかな髪を背の中程で緩やかに結んだ軽薄そうな男はどうやら俺によくわからない興味を持ったようで、箱に乗せた足を引っ込めて代わりに俺と目線を合わせるようにしゃがんできた。 「!?」 「お、その反応良いね。うんうん、なるほど、君は狐かな? 名前は?」  貴族といえば俺みたいなのをゴミのような目で見てくる奴らばかりで、同じ生物としての扱いなんて絶対にしない。常に見下し、馬鹿にして、そして気に入らなければ殺しもする。そんな奴らしか知らなかった俺には、この男の行動は意味がわからず恐怖しか抱けなかった。 「あ、もしかしてボクすっごい警戒されてる? やだなぁ、取って食ったりしないからそんな怖がんないでよ。ボクはトレイル。今とある理由で王宮で働いてるハイエナの獣人」 「……」  どう名乗られたとしても俺にとってこのトレイルという獣人は怪しいヤツでしかなくて、無言のまま相手の出方を見るしかできない。 「君さ、今王宮で人募集してるの知ってる? あれさぁ、応募殺到してるんだけど中々良い人材がいなくってさ、ボクたちすっごく困ってるんだよねぇ」 「……あのバイトに応募する気はないです。だからここにいる」 「あ、知ってる? じゃあ話は早いや。ボクと一緒に来てくれる? 王宮」 「……は?」  ただでさえ渇いている喉が更に渇いていくのを感じる。次何かを喋ったらきっと咳が出る。血も混じるかもしれない。けれどここで断らないと面倒なことになると俺の勘が告げていた。だから口を開こうとするのに、目の前の貴族は俺の口を片手で覆って喋ることを封じた。 「来てくれるよね? まさかスラムの子供がのお願いを断る訳ないよね。君みたいな賢い子なら尚更」  口角は上がったままなのに目だけが細くなる。声の温度も変わらないのに、何故か触れられた箇所からどんどん体が冷えていくような気さえした。  雑踏(ざっとう)すらも聞こえず、自分のやけに煩い心臓の音だけが頭の中に木霊していつの間にか俺は首を縦に振っていた。そんな俺を見てオレンジの髪の男は満足そうに笑って頷いた。    目が潰れそうなほどの明るい照明に、その光を浴びてキラキラと輝く天井や壁にあしらわれた細工たち。  会場の一画にはこれでもかというほどに豪華な料理が並んでおり鼻腔を擽るいい匂いが腹を刺激する。妖精のように着飾った女性たちがダンスフロアで舞い踊りそれをエスコートする男性も見るからに豪奢(ごうしゃ)で華やかだった。  夢のような世界だと、そう思った。 「……すげえ」  生まれて初めて着る手触りの良い清潔な白い服と土の感覚がわからない程にちゃんと靴底のある靴を履いて、俺は今パーティー会場に来ていた。 (「大丈夫大丈夫! 言われたドリンク渡して敬語でいればなんとかなっちゃうから! じゃ、よろしくーっ」)  靴磨きに来ていた筈が、ハイエナの獣人トレイルにほとんど無理矢理城に連れて来られた俺はあれよあれよと言う間に風呂に入れられ体中を磨き上げられて変な匂いのする香水を振りかけられて、とりあえず身なりを整えさせられた。  給仕係にしては豪華過ぎないかと思ったが周りを見ても俺と同じ服を着た男が何人かいるのを見かけて給仕も豪華なのか、と驚いた。  ほとほと住む世界が違うということを実感しながらトレイルから言われた通りにドリンクや食事の世話をする。意外に思われるかもしれないが、俺はそこら辺はそつなくこなせたりするのだ。  理由はやっぱりジイさんなんだけど、あのヒトは本当に不思議だ。スラム生まれじゃないことは確かだけど、俺たちは過去を知りたがらない。だから俺はあのヒトがスラム街では抜きん出て賢いジイさん、と思うことにしていた。 「そこのあなた、葡萄酒を持ってきて頂戴。赤がいいわ。メインディッシュに合うものよ、わかっているわね?」 「かしこまりました」  そうこうしている内にまた貴族のお嬢様からドリンクを頼まれて俺はドリンカーへと向かう、その途中俺をここに連れて来た張本人とばったり出会って俺は目を丸くした。 「やーっぱりボクの見立ては間違って無かったねぇ。ちゃんと仕事できてるようで何より! あ、そのドリンクってあの子のやつだよね? 持って行ってあげるからさ、ソロ君はちょっと休憩しておいでよ。周りにはうまく言っとくからさ」  ウィンクを華麗に決めたトレイルは俺の手から赤ワインの入ったグラスを奪い取り煌びやかな世界へと消えていった。  また口を挟めなかった。  そう思いながら俺はあいつの言葉に甘えて休憩を取ることにした。

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