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第一章-6
ヒソヒソ、ヒソヒソ、噂話が聞こえる。
「聞いた? ヴァイス様の番、今アルヴァロ様のところにいるらしいわよ?」
「ええ!? 嘘でしょう、いくらなんでもそれはあり得ないわよ!」
「これがあり得るのよ。私見ちゃったもの! アルヴァロ様がヴァイス様の番に口付けをしてその後自ら抱えられたの!」
きゃーっと姦 しいメイド達の話を耳にして足を止める者がいた。
「でも、運命なんでしょう? それならどうして、」
「運命って言ってもまだうなじを噛んでいなかったそうよ。それなら別に良いんじゃないかしら」
「噂によればアルヴァロ様が正式に番にって迫ってるらしいわよ」
「えええええええ!!」
そんな騒がしい朝を迎えたメイドたちが、壁に控えていたメイド長にお説教を食らっているのと同じ時間、別の場所で俺は大きなふかふかのベッドで眠っていた。
「……ソロ、ソロ。起きて、ソロー」
「……嫌だ」
「えー、それは困ったなぁ」
すぐ側でぐるぐると心地の良い音が聞こえて更に覚醒が遠のいていく。
そんな様子を見て笑っていた男は躊躇せず流れるような動きで薄茶色の尖った耳に軽く牙を立てた。
「ぅあっ! ……アル、耳はやめろって言ってんじゃんか」
「ソロが起きないから悪いんだろう?」
「そうだけど……」
のそのそと体を起こして伸びをする。
パキパキと骨が鳴るのを聞いた金色の獣人が面白そうに喉を鳴らした。なんだろう、と目線を向ける前に大きな体に包み込まれて目を瞬かせる。
「……アル?」
「ううん。まさか自分がこんな風にヒトを甘やかす日が来るなんて思わなくておかしくって」
「……」
柔らかく包み込んでくれる両腕はとても温かくて優しい匂いがする。
「ソロ、ご飯食べようか。やっぱりどうしたって君は痩せ過ぎてるからなぁ。もう少し肉付きが良くなった方が抱き心地ももっと良くなる筈」
「これでもすげえ太ったよ」
「ええ? これ以上細いなんて想像できないな。今だって私が力を入れてしまえば直ぐに折れてしまいそうなのに」
するりとアルヴァロの大きな手が俺のうなじを掴む。それに体がびくんと大きく跳ねて急所を捕らえられた恐怖と運命の番以外に触れられたことに拒否反応が出る。呼吸を乱れさせて体を震えさせる俺を見てアルヴァロは心底楽しそうに笑う。
三日月みたいに目を細めて顔を近づけたかと思うと唇が触れ合った。
「……ふふ、可愛いな。こんなに怯えてアイツを求めているのに、それでも私すら拒否できない愛に飢えた子。可哀想で、可愛い」
うなじを指先でなぞられて、それが背中を伝い尾の付け根を擽られる。服の上からすべてを撫でられても俺の体はずっと震えるだけ。
「君が私の番なら、うんと愛してあげたのにね……?」
そう囁かれて首元に小さな痛みが走る。
それがなんなのか理解するよりも前に唇が重なって、泣き叫ぶ心を無視して俺は目を閉じてアルヴァロの背中に腕を回す。
誰でもいいから優しくして欲しかった。
例えそれが歪んでいても、本当は俺のことなんて微塵も思っていなくても、それで良かった。
*
何事にも始まりがあり、それをするに至っての理由がある。そう何度も教わった。だから考えた。何故こうなったのか。何故そうしてしまったのか。
考えれば考えるほど答えは一つにしか結び付かなくて、けれどそれを認めることができるほどの余裕なんて持ち合わせていなかった。欲しいと思ったものは既に違う誰かのもので、その関心を向けられることなんてなかった。
子供のわがままのようだと、何度も思った。
けれどいつしかわがままで何が悪い、と思うようになった。
開き直ればすべてがうまく行き始めた。
これが正しいのだと思った。だけど何故だろうか、満たされない。
何をしても、何を勝ち得ても、内側は渇き切ったままで、とにかく退屈だった。
「兄上」
そう呼ぶ声が疎ましいと思うようになったのはいつだろう。
「殿下」
アイツを温かな声で呼ぶ奴らを煩わしいと思ったのはいつ頃からだっただろう。
すべてにおいて秀でて、すべて与えられている筈なのにいつも敗北感を覚えていたのは何故だろう。
「……ヴァイス」
泣きながら名前を呼ぶ様を羨ましいと思ったのは、いつだろう。
嗚呼本当に、
「面白くないなぁ」
*
ガシャン、とガラスが割れる音が虚しく部屋に響き渡る。側に仕えていたメイドは恐怖に震え上がり体を小刻みに震わせていた。
「……ねえヴァイス」
艶のある長髪を一つに結えたトレイルが丸みを帯びた耳を垂れさせながら声を出した途端に、再びガラスが割れる音が響いた。
「……話しかけるな」
低く端的に告げられた言葉には明らかな疲労が滲むがその目は今直ぐにでも誰彼構わず襲いかかりそうなほどに獰猛な光を宿していて、鋭い爪は彼がいつも腰掛けていたソファを酷い程に抉っていた。
「……殿下がそう望まれたんでしょう」
「……何の用だ、リドリウス」
獣が切り裂いたような傷痕の残る扉から現れた灰色の男にヴァイスの機嫌は悪化の一途を辿る。剥き出しになった爪でソファに新たな傷跡を付けたその数秒後に外から楽しげな笑い声が聞こえた。
ぴくっと耳が動き、吸い寄せられるように窓の外を見たヴァイスは堪えきれないというように雄叫びを上げた。叫びというよりも獣の咆哮に似たそれは、外にも響いたがそれで何かが変わることはない。
「落ち着きなさい、殿下」
「黙れ!! お前に何がわかる、お前に!」
「……番を失う辛さは、この身を持って知っております」
今まで見たことのない主人の姿に恐れ様子を窺う者達とは対照的に、狼の獣人はどこまでも穏やかな声で返す。その言葉にはっと息を呑んだのはヴァイスだった。
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