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第一章-5

 トントン、と部屋のドアを叩く音がする。  太陽が真上に昇るよりも少し前、昼飯時に俺の部屋を訪ねるヤツなんて二人しかいない。だけど今日来ているヒトがどっちかはもうわかっていた。 「やあソロ君、食事でもどうかな?」  扉が開いてひょっこりと顔を覗かせたのは狼の獣人で、俺の教育者でもあるリドさんだ。  偉丈夫が扉から顔だけを覗かせる様子がなんだかおかしくて俺は思わず吹き出すように笑いながらソファから立ち上がる。 「行く」 「ふふ、じゃあ行こうか」  デレッと表情を崩す様子は何度見てもどうして俺に、と不思議で堪らないがどうやらリドさんには俺が自分の子供か孫のように思えてならないらしい。  こうやってリドさんやトレイルと一緒なら俺は部屋から正面切って出ることを許されている。だが部屋の前に佇む二人の兵士に毎回ちょっと構えてしまうのは仕方がないことだった。スラム街で生きてきた俺の性だ。  白を基調とした中に歩く場所だけ赤い絨毯が敷かれている廊下を、これ横に何人並べるんだろうと思いながら歩く。 「なんだか今日は機嫌が良いというか、何時もよりキリッとしているね。何かあったのかい?」  すると隣を歩くリドさんに話しかけられてギクッと肩が揺れてしまった。そんなにわかりやすいだろうかと自分の顔を触り、気付かれたならしょうがないと深呼吸して立ち止まる。  それに合わせて止まってくれた背の高いリドさんを見上げて数秒躊躇(ちゅうちょ)してから口を開く。 「……アイツについて教えて欲しい」 「……あいつ、とはヴァイス殿下のことかな?」  その問いに言葉ではなく首肯で返す。 「……理由を聞いても?」  意外だった。  てっきりリドさんは両手を上げて喜ぶのだとばかり思っていたから、まさかこちらを見透かそうとするような目で見てくることに驚いてしまう。 「あ、いや、否定している訳じゃない。もちろん喜ばしいことだ。……けれど、純粋に疑問なんだよ。……君は、あの子からひどい扱いを受けているだろう……?」  慎重に言葉を選んでくれたのだろうか、大きな狼が狐のことを窺うように首を傾げる様はとても面白くて、そしてなんだか愛らしくて俺はまた笑う。 「どんなことにも始まりがある。それと、それに至った理由も。そう教えてくれたのはリドさんでしょ?」  今でもめちゃくちゃに嫌いだし本気で顔も見たくないけど、俺を助けてくれたアイツに嘘は感じられなかった。 「嫌いになるにも理由がいるって思った。アイツがただのクソ野郎じゃないかもって、ほんのちょっとでも思っちまったから」 「……君は、なんというか……」 「ん?」  リドさんがいいや、という風に首を振る。嬉しいような悲しいようなそんな複雑な顔をしたリドさんを見て、俺は首を傾げる。  それに小さく笑った彼は今度は大きく息を吐いた。 「君はいつも予想の斜め上を行くなと思っていただけだよ。……わかった、教えよう」 「……ありがと。あ、アイツにもトレイルにも絶対言うなよ。絶対だからな!」 「ああ、約束するよ。指切りでもするかい?」 「指切りとかガキじゃねえんだからやらねえよ」  体躯に見合った大きな小指を見せられてうへえ、と眉を下げるがなんだか懐かしくて俺は渋々という体を装って自分の小指を絡ませたのだった。   「君も知っていると思うが、殿下は悪魔だ死神だと言われていてね」  カチャ、と白磁の茶器を優雅にソーサーに置きながらリドさんは語り出す。  リドさんの書斎だという広くて本がところ狭しと並べられた部屋。その中央に設置されている対面式のソファに腰掛けて、俺はじっとその話を聞いていた。 「……実際のところ、根も葉もない噂だ。確かに殿下がお生まれの年は干ばつも洪水も起きた。だがそれはこの国にとっては別段珍しいことでも何でもない。時折起こる天災だったんだ」  きっとアイツが生まれた時のことを思い出しているのだろう、どこか遠い目をしてゆっくりと語られる言葉が何故だか耳に心地よかった。 「……なのに白虎というだけで殿下は忌子(いみこ)とされてしまった。……陛下も王妃様も、城にいるほとんどの者が異質を受け入れられなかった」  すう、と目を細め息が混じり、掠れた声で続ける彼の表情が微かに険しくなったのを感じ、そしてその声の中に潜む怒りに胸が締め付けられる思いがした。 「……幼い頃受けるべき愛を受けられなかった子供はどうなる? 歪んでしまうに決まっているじゃないか。……だから、私とソルフィであの子を守っていた。君を疎む世界が間違っているのだと、そう、教えたかった」 「……」  ああ、とその時俺は泣きそうになった。  その理由は自分でも瞬時に理解できた。けれどそれを口に出すのは寸でのところで堪えることができた。心のなかに冷たいものが広がっていくようで、でも、内側からそれとは違う感情が生まれていくのも微かに感じていた。 「けれど、そんな簡単なものではなかった。一度植え付けられた感情は消えない。限りなく薄まるだけで、そのヒトの中に留まり続ける。それは受けた側は勿論、それを受けさせた側にも共通して言えることだったのだ。……言葉にし続ければそれはいずれ誰も疑うことのない真実となり、覆すことはできなくなる。私はあの時初めてヒトが心底怖いと思ったよ」  部屋を出るまでは晴れていた空が暗く淀んでいく。  濃い灰色の雲が空を覆い、微かに開いた窓から吹き込む風に雨の匂いが混ざり出す。それに気がついたリドさんはゆったりとした動作で椅子から立ち上がり窓を閉めた。  トントン、と次第に雨粒が窓を叩きそれは瞬く間に土砂降りへと変わり、暗雲の中を閃光が(ほとばし)る。一気に薄暗くなった室内を雷光が浮かび上がらせ、窓の外を泣きそうな顔で見ているリドさんを映し出した。 「……私たちが、否、私が良かれと思ってしたことがすべて裏目に出た。あの子は更なる迫害を受け、ソルフィは私の前から消えた。……あの子が私に言ったんだ。俺に関わると大事なものが消えていく、と」 「……」  今にも叫び出しそうな背中をただ見ていることしかできず息を呑んだ。  胸の奥が締め付けられるように痛むのは、彼らに同情したからだろうか。そうじゃないのなら、この痛みはなんなのだろう。経験したことのない訳のわからない胸の痛みに、俺は胸元の服を爪を立てるようにして握り込んだ。 「……私から話せるのはここまでだ。これ以上は殿下の心に触れてしまう」  目を固く閉じて上を向くリドさんが堪えるような声で告げた言葉に俺はただ唇を噛み締める。 「ただ、これだけは言わせて欲しい。……ヴァイス様は優しい方だ。優しすぎるが故に、彼もまたすべてを諦めている」  似ているんだ、君たちは。  外では雷が泣き叫んでいるかのように響き続けていた。      *   「……いいか、小さな子。憎しみはヒトを強くすることもあれば、弱くすることもある。簡単にヒトを嫌いになるな」  ジイさんと出会ったのは俺がまだまだガキで、争いの絶えない常に飢えと渇きに喘ぐスラム街の路地裏で死にそうになっていた時だった。  その日やっと手に入れた食料を街にうろつくゴロツキに奪われて口から血が出るほど殴られて、蹴られて、やっと死ねるのかな、なんて思いながら仰向けになって空を見ていたんだ。 「生きているか、小さい子」  スラムではまず聞かない落ち着いた理性のある声だったのを覚えている。伸ばされた腕は白くて、細くて、貴族みたいだと思ったけど顔に触れた指先があまりに荒れていて、このヒトは同類なのだと思った。 「……放っておいてよ、おれ、ようやく死ねる」 「……お前は死にたいのか」 「……うん」  カビと埃と何かが腐った臭いのする場所が死に場所だなんてお似合いだって俺は思ったんだ。それにジイさんが抑揚のない真っ直ぐな声でそうか、と呟いたのを俺は良く覚えている。  だけど衝撃的だったのはその後で、ジイさんは生憎だがそんな傷では死ねないぞと言って俺が何故死ねないかを懇々と説明しだしたのだ。  思えばそこからだった、俺とジイさんが一緒にいるようになったのは。  毎日一緒で、俺が金を稼いでジイさんは俺に勉強を教える。ジイさんは笑えるくらい腕っ節が弱くて、体もひょろひょろで、スラム街では枯れ木って呼ばれてた。  なんで俺が今こんなことを思い出してるかって言うと、ただ単にそんな気分だったから。  俺にとってのジイさんが、アイツにとってのリドさんだったのかもしれない。 「……元気かなぁ、ジイさん」  ひょろひょろの癖に意外と逞しいジイさんだから、きっと元気にしている筈だ。  頭の中でジイさんが勝手に殺すなと言っている姿を想像して僅かに笑う。こんな状況でも笑える自分にやっぱ図太いなあと思いながら俺は目の前にあるやけに豪華で重厚な作りをしている扉を開けた。  部屋の左手、窓側に置かれている部屋に見合ったシンプルだが高級感溢れるソファに腰掛けてぞんざいに足を組み本を読んでいたソイツはノックもせずに入ってきたヤツを見るために目線を上げ、その先にいるのが俺だとわかった途端に目を険しく眇めた。 「消えろ、劣等種」  驚くでもなく、ただ不愉快そうに吐き捨てる姿にどこか安心してしまった自分がいてそれがおかしくて思わず笑ってしまった。  そんな俺に気味が悪そうに眉を顰めるクソ野郎は得体の知れないものを見るような目で俺を見ている。俺も同じように見て、左手に包帯が巻かれているのを確認し息を吐いた。 「ちゃんと医者に診てもらったんだな。偉いじゃん」 「……は?」 「なあ殿、話そう? 俺アンタのことすっげえ嫌いだけどさ、でも理由なく嫌えないんだわ」 「……頭でも沸いたのか」 「いや? 今までで一番冷静。だから部屋来ても発情してねえじゃん」  開けっ放しも何だなと扉を閉めてアイツの方へと一歩近づくと、その途端匂いとは違う圧迫感が体を襲う。何度当てられてもアルファの怒気は恐ろしくて足が竦む、けれど冷や汗を流しながら俺は一歩足を踏み出した。  吐きそうなほどの威圧を与えられて呼吸が上がり手足が震える。  獣としての格の違いを感じながら、まさしく虫の息といった様子でクソ野郎の前に立つと、体中を縛っていた威圧感がふっと消えた。その代わりに胸元の服を握られてそのままソファに押し付けられる。  淀んだように濁っていても、それでも綺麗な紫色と目が合う。 「……気色悪い。一体何を企んでやがる」 「何にも。普通に話したいだけ」 「……俺は、お前と話すことなんて何もない。消えろ」  乱暴な手つきで服から手を離されて俺の体からアイツの重みが消える。 「じゃあなんで助けたんだよ」  ソファの背もたれを握り上半身を起こして俺から離れていく背中に問いかけた。 「あれ、確実に俺を狙ってた。あのままお前が来なきゃ俺は今頃首と体が別々になってた。でもそれってお前からしても願ったり叶ったりだったんじゃねえの。俺は劣等種で、お前が望むようなオメガじゃない。番の契約が成立してない状態なら俺が死んだところでお前にはダメージなんてなかっただろ。……むしろプラスか」  言葉を続ける中でアイツは大きな溜息を吐いてベッドに腰掛ける。  とてつもなく不愉快そうに歪められた顔を見ると、どうやら話は聞いていたらしい。そう納得してアイツからの言葉を待つことにした。 「……兄上の手をお前ごときの血で汚すわけにはいかねえからな」  ふん、と鼻を鳴らして見下すような目で見てくるアイツにまた内側から嫌な気持ちが迫り上がるがなんとか耐えようと唇に歯を当てた。 「助けられたとでも思ったのか。随分と都合の良い頭をしているなぁ? お前みたいなスラム育ちのガキをこの俺が気にかけるとでも?」  クツクツと喉を鳴らして笑う白くて綺麗な男は(おもむろ)にベッドのシーツをまくって見せた。 「流石飢えたヤツは違うな。勝手に勘違いして、王族である俺と対等であろうとする。とんだ笑い種だ。そうだろう」  胸の奥で、何かが軋む音がする。 「──トレイル……?」  そこにいたのは服を纏っていないオレンジの髪の獣人だった。 「……ほーんとヴァイスって趣味悪いよね」 「は、知るかよ」  俺のことなんて見えていないように、トレイルはアイツの背中に抱きついて聞いたことがない甘い声でアイツに囁く。その腕を嫌がる素振りなんて一切見せずに、笑みすら浮かべてその存在を受け入れたソイツを見てどんどん体が冷えていくのを感じた。 「劣等種はただガキを産ませるためだけの道具だ。……番がお前ならよかったのにな、トレイル」 「ヴァイス……」  二人の顔が近づいていくのを見た途端、俺はアイツの部屋から飛び出していた。  心が割れる音がする。砕けて、散っていく音がする。  ああ、もういやだ。   無我夢中で走って、走って、外に飛び出した。  周りが止める声なんて聞かずにさっき見た光景を消すように走る。  こんなの違う、おかしいと心が悲鳴を上げて目の前が涙で霞んだ時、嗅いだことのある香りが俺の前に現れた。 「……本当に馬鹿だなぁ、ヴァイスは」  目的もなくただアイツの気配がする場所から逃げたくて走っていたら何かにぶつかった。耳に届いた声に聞き覚えはあるがそんなことに構っている暇なんてなかった。 「ごめん」  ぼろぼろと訳もわからず流れる涙を拭うこともできずに、情けないくらい小さな声で呟けば、俺がぶつかった人物は意外そうに目を瞬かせた。それから口角を綺麗に上げて俺の顔を両手で触って上を向かせる。 「……嗚呼、ショックで壊れかけているのか。ふふ、輪をかけて愚かとしか言いようがないよね。こんなに強くマーキングしているくせにうなじも噛んでないじゃないか」  すんすんと鼻を鳴らして首の匂いを嗅いで、ベルトで隠されている未だに無傷なそこを見て男は愉快そうに笑った。きゅう、と瞳孔を細めてベルトに鋭く爪を立てればそれは簡単に引き裂かれて地面に落ちていく。  それを俺はどこか遠くに感じながら何も考えられないままぼうっと突っ立って、されるがまま、その男の腕の中に収まっていた。 「そうだ、このまま君を私の番にしたらアイツはどんな顔をするかなぁ……?」  呼吸もままならずに体を震わせるのを見てか、腕の中でその男は俺が落ち着くようにと背を撫でて、強く抱きしめてくれた。とても温かくて良い匂いなのに誰かが俺の中で違うと叫ぶ。  どうして、こいつの方がきっと優しくしてくれる。そう思うのに、本能がそれを許さない。 「……噛まないで」 「……へえ、そんな状態でも運命を選ぶのかぁ。面白くない」 「番なんて、いらない。もう帰る。俺をスラムに帰してよ」  心に穴が空いたように痛む。泣いても泣いても止まる気配のしない涙が嫌で、乱暴に手の甲で拭っていればその手を太陽の匂いがする男に取られた。  ぼんやりとする視界の中で見えるのは金色。夕焼けみたいな目の色が面白そうに俺を見て顔が近づいてくる。 「……、っ、ンンッ、ゃ、んぅーーっ!」 「……キスも、運命以外じゃ無理……?」  後頭部を大きな手で押さえられ逃げないように固定されて柔らかいものと唇が触れ合う。それがその男のものだと理解するや否や全身から拒否反応が出る。  とにかく嫌でしょうがなくてまた涙が際限なく溢れ出す。違う、違うと心が叫ぶけれど脳裏に浮かぶのは寄り添い合う二人の姿で、それを思い出した瞬間体から力が抜けるのを感じた。  ガクン、と膝から崩れ落ちそうになった俺を抱えるようにして抱き上げた男は心の底から楽しそうに微笑んだ。 「……ソロ、だったよね。君は面白いから暫く側に置くことにするよ。あー、あの時殺さなくてよかったぁ。これからよろしくね」  ちゅ、と唇が触れ合っても、もうそれを拒否する気力なんて俺にはなかった。  どうしてこんなにも辛いのか、全くわからない。ただ酷く体がだるくて、俺はそのまま意識を失った。

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