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第一章-4

「いいかい、運命だからといって必ず幸せになれるものではないんだ」 「……どうして? だって運命は、神様が決めたものなんでしょう? それなら、きっとすごく幸せになれるはずでしょ?」 「……君は、……否、言っても詮無(せんな)いことだ」 「運命を見つけたら幸せになれるよ」  柔らかな日差しと、花や緑の香りを運ぶ風がカーテンの薄布を微かに揺らす穏やかな午後だった。  年嵩(としかさ)の、顔にいくつもの薄い皺が刻まれた聡明そうな狐の獣人と、幼い子供がいた。年嵩の男は黒板を前に何やら分厚い本を持って子供に何かを教えていた。  この世界に存在する、男女とはまた違う第二の性別。  彼はそれについて幼い少年に教える係を受け持っていた。  今日の課題は『運命の番』について。  少年はそれ知ってる、と得意げに胸を張ってまるで褒めてとでもいうように狐の獣人にアピールをする。あまりにも有名な御伽話だ。だが、それが実在することを男はよく知っていた。  御伽話とは全く違うということも、この男はよく理解していた。 「……リド」 「やあ、今日も美しいな私の番殿」 「……やめないか、殿下の前だぞ」 「はは、怒られてしまった。……良いですか、殿下。私と彼が運命の番ということはご存知ですね?」 「うんっ」  ひょいと軽く少年を抱き上げた狐の獣人と同じ歳の頃の狼の獣人はそのふさふさな尻尾を番と呼んだ彼の腕に擦り付ける。マーキングに似た行動にあからさまに顔を顰めた狐の獣人はバシンとそれを払い除けてしまった。 「ですがこの通り、私の運命はとてもつれない。いえそこを含めたすべてが愛おしくてたまらないのもまた事実です」 「冷たくされても好きなの?」 「ええ、とても。それが運命ですから」  やけに広い、豪華な部屋にいる三人の顔はそれぞれ違っていた。  少年を抱き上げてだらしがない程に表情を崩して自分の番について甘く語る者もいれば、それを聞いて僕も運命の番欲しい! と目を輝かせる者もいる。  そして、能面のように無表情で、なんの感情もなくそれを見つめる者も。  運命の番についてはまだまだ謎が多い。互いに愛し合っている場合でも運命でないこともある。運命が子供と老人の場合だってある。  それがどんな繋がりなのかは、未だに解明できていない。  けれど世界に広がる御伽話ではこう書かれているのだ。  運命の番はあなたの半身。  命よりも大事な唯一。  元々一つだったものが二つに分かれたとき、神様はそれを哀れんで来世では離れ離れにならないようにと願いを込めて彼らに運命を植え付ける。  だから彼らが惹き合わさったとき、神は一つの細工を施した。  互いが一眼で己の半身だとわかるように。  引き離されないように、固い絆で結ばれるように。  神は、その者たちにしかわからない細工を施した。  男はパタン、と静かに本を閉じる。  さあっと吹く風はカーテンを柔らかく揺らすことはなく、荒々しく舞い踊らせた。  夕方のオレンジ色の光が差し込む部屋で、男は窓から見える景色をただぼんやりと眺めていた。薄いオレンジは、記憶の彼方に仕舞い込んだ思い出に僅かな光を灯す。 「……しあわせ、か」  声というには小さくて、息と呼ぶには明らかな意味を持ったそれは風に乗って消えていく。  幼い頃は重たいと感じた本も、今となれば片手で事足りる。男は一度その本の表紙を眺め、そして棚に戻した。  運命は、幸せになれない。  男は諦めたように笑って部屋を後にする。頭の中ではその言葉がずっと繰り返されていた。      *    白くて清潔なシーツに、柔らかなベッド。窓から入り込む風に埃なんて混ざってなくて、鼻腔には緑と濡れた土の香りが届いた。少しだけ花の匂いも混ざっていて、花粉でも乗っていたのか吸い込んだ拍子にくしゃみが出て、それが清潔で豪華な部屋に響いた。 「……花……?」  ゆらゆらと揺れる意識を浮上させて目を開け、最初に見えるのは天蓋というやつだった。  寝姿を見られない為だとか装飾だとか色々と言われたが眠れる場所があるなら土の上でも構わない俺にとってはどうでもいいことだった。  のそりと起き上がり、ベッドに腕をついて全身を伸ばす。  外を見ると白と赤と青が混ざり始めたところで、今がまだ明け方だということがわかった。ペタ、と磨かれた床にそっと足を下ろして窓に近づくと、そこから見える景色にまだ慣れないなと独言(ひとりごち)る。 「……国が違うと、こんなに違うのか」  もう何度目かわからない呟きは誰に拾われるわけでもなく部屋の中で消えていく。  今でも鼻に届く花の香りの通り、ここはとても豊かな国だった。  王城が豪華なのは当たり前として、そこから見える城下町やさらに先の土地でさえ緑と生き物の気配に溢れていた。日の光に朝露が反射して輝く様は何度見ても綺麗でいつまでも見ていられた。  コンコン、と部屋の扉がノックされる。その音に体をドアのほうに向けると首に嵌められたベルトの革が皮膚を引っ張って少し傷んだ。 「……はい」 「やっほーソロ君。気分は、どうかな……?」  控えめな音と共に部屋に入って来た人物はどこか気まずそうに俺を見ていた。 「もう平気だって言ってるだろ。あんなんじゃ死なない」 「……あー、そう、なんだけど、さ」  普段はヒトをイラつかせる天才なのかと思うほどに口が回るのに、今は歯切れ悪く言葉を選んで俺の様子を伺ってくる。  理由は簡単で、今気まずそうにしているハイエナの獣人トレイルに俺が荷物よろしくクソ野郎の部屋に投げ込まれたあの日、俺があいつにこれ以上ない程の仕打ちを受けたからだ。事が終わって様子を見に来たコイツがその惨状に責任を感じたらしい。  自分で言うのもなんだが、本当によく生きていると思う。  あれからアイツはうなじ以外の場所に牙を立て続けた。つまり俺は結構な怪我をして、事が終わったあと様子を見に来たトレイルに死ぬ程驚かれたといった所だ。 「もう半月同じこと聞いてんだぞ、アンタ。さすがに心配性過ぎるだろ。俺がもういいって言ってんだからいいんだよ。言われ続ける方がめんどくせえ」 「……いや、だって、さあ」 「いやもだってもねえ。あんたが俺を連れて来てこんな首輪まで嵌めさせたんだろ。責任感じるくらいなら最初っからすんなよ。って、これも前言ったな」  はあ、と溜息を吐いて髪をがしがしと乱した。  自分の髪から石鹸(せっけん)とハーブの香りがして、乾燥でガサガサだった手は今では傷が癒え始めていた。その代わり首や腕、腹部や足に至るまで俺の体には包帯が巻かれている。  俺がこの虎の国にやって来てから半月が経った。  あの日から、俺は定期的にヤツと肌を合わせている。その度に増える傷を見てトレイルが落ち込むのも、まあ仕方がないと思うが、俺はもうどうでもよかった。  諦めたら楽になる。望むから辛いのだ。  耳に届いた絞り出したような謝罪の言葉を、俺は聞こえないふりをした。    *   「あ、あ……っ、ん……、ふ、ぅーっ、!」  肌のぶつかり合う乾いた音と、それと混ざる荒い呼吸と甘ったるい声は明らかにそれが交わっている最中だということを表していた。 「ンンぅ……っ、は、いっ、ぁ……っ!!」  ズチュ、と結合部から淫らな水音が鳴る中で今度は痛みを含んだ声が上がる。  途端に広がる鉄の匂いに服がまた一つダメになったことを悟った。 「も、噛むなってば……っ! ひぐ、ぁ、は……、」 「噛んだら締め付けが増す。てめえは黙って喘いでろ」  目の前には白く波打つシーツがあって、腰を大きな手で掴まれて俺は後ろからクソ野郎に貫かれていた。もう何度目かわからない行為は発情期(ヒート)じゃなくともコイツの気分次第で何度も行われた。ただコイツの匂いだけで体がおかしくなる俺には、そうだろうがそうじゃなかろうが全くもって関係ない。 「ンンっ! っは、ふ……、さっさと、イけよクソ野郎……! あッ!」 「……躾のなってねえ狐だな」 「劣等種な、もんで……っ、残念だったな」  後ろを振り向き中指を立ててやればお貴族、というか王族のくせにその意味を正確に理解して更に激しく責め立てられる。  ベッドの軋む音に、正しく獣のような行為。虚しいなんて思うことは早々に止めた。これはただの暇潰し、そう思えばまだマシだった。    本当、ロクでもねえな。貴族も王族もアルファも。  貧富の差はあれど、やはりどの国でも平民に対する価値観なんて同じだった。  これだけ豊かな国ならば貴族たちもそれなりに優しいんじゃないかと僅かな希望を持ったが、俺という存在が王城内で広がる度に、すれ違う奴らから心ないことを言われる機会が増えた。  そりゃあわからんでもない。と頷いた。  みすぼらしい体に不釣り合いな服、首に嵌められた大袈裟な首輪に極め付けは第三王子の運命の番ときた。けれど番の契約をしていないことは匂いでわかる。  これだけ色々な要素があれば嫌でもヒトは興味を持つし噂もするだろう。本当に、どこも変わらないなと俺は溜息を吐きながら自分の体に薬を塗っていく。ジクジクと痛む傷に眉を寄せるが、正直これくらいの痛みなら慣れっこだ。  うなじを噛まれるよりは余程良い。  俺に与えられた部屋で自分の怪我を処置して、新しい服に着替える。  ここにあるものはすべてトレイルが用意してくれたものだ。部屋自体は元々客人用で、今は俺専用の部屋。どれだけ見ても俺には豪華すぎるが逃げることもできない俺はただここで飼い殺されるしかなかった。 「……やっぱジイさんの言う通りちゃんと勉強しときゃよかったかなぁ。てかジイさん元気かな、飯食ってんのかな。あのヒトめちゃくちゃ頭いいくせに力仕事とか全くできないからな……」 「君がヴァイス殿下の番殿かな?」 「うわぁああ!」  突然目の前に現れた偉丈夫に俺の口からは情けない叫びが上がった。それを見た狼の獣人は愉快そうに大笑いしていた。 「驚かせてしまったね。いや、君に興味があって会いに来たんだ。何もしないと誓うから、少し私とお話しよう。きっと君の為になる」  深い皺が刻まれた一見すればとてつもなくいかつい強面だが、目がどこまでも優しくてそれがジイさんと少し似ていて、俺は気が付くと首を縦に振っていた。  狼の獣人はリド、というらしい。  着ているものや所作からして貴族であることは間違いないが、それ以外の情報は俺にはわからなかった。ただ、俺の耳や尻尾を時々酷く優しくて悲しい顔で見ているのがすごく印象的だった。 「……嗚呼、すまないね。私にも運命の番がいてね、君、ソロ君と同じ狐の獣人だ」 「え、マジ? ……あー、本当ですか?」 「はは、無理をして敬語を使わなくてもいい。私は気にしないからね。ただ、他の者達には気をつけなさい。些細な言葉や行動が逆鱗に触れる。……全くもって悪き風習というか、視野が狭いというか、貴族の一端である私からも君に対する数々の非礼を詫びなければならない」 「や、別にいいです。慣れてるんで」 「……慣れ、か」  本当に頭を下げようとしたリドさんに慌てて手を振って必要ないことを示せば、ぐっと眉を寄せて辛そうな顔をした。それがなぜかわからなくて思わず首を傾げてしまう。 「それを慣れさせてしまったことに、私たちは責任を感じなくてはならないのにね。……はあ、本当に根深い問題だ」 「……上がいれば下もいる。何事にもバランスがあって、時折それが崩れることもあるが時が来れば自然と淘汰される。生き物の流れとはそういう風にできてるって、俺は教わったんですよ。で、受け入れて生きる道を探せとも教わった。そりゃ俺は貴族も王族も大っ嫌いだけど、時々アンタみたいなヒトもいる。恨んでばっかじゃ疲れる」  豪華な部屋にあるソファに深く座り直して天井を見上げる。  天井にまで細やかな細工を施していることにそこでようやく気がついて、平民の俺からしたら金の無駄遣いだとか細工の存在ごと無駄だとか思うけど、きっとお偉いさん方にはお偉いさん方なりの苦悩があったりする。この天井の無駄に豪華な模様にも意味があるのだろう。 「受け入れることと諦めることは違うとも教わったけど、俺は未だにそれの区別がつきません。だから、俺は今のこの状況を諦めてる」 「……楽だから、かい?」 「そうしないと俺の心が壊れる。どう取られようが俺は俺を守らなくちゃいけない。正直今まで死にたいって思ったことなんて腐る程あるけど、今ほどそれを強く思ってる日はないです」  背中にできた真新しい傷が痛む。僅かに滲む血の香りはきっと届いていることだろう。 「……で、リドさんは俺にどんな話があったんですか?」 「あ、ああ……」  目線を天井から狼の偉丈夫に戻すと、なぜか彼はとんでもなく辛そうな顔をしていた。そのことに目を瞬かせていればそれに気づいたのかごほん、と一つ咳払いをして膝に肘を乗せ僅かに上体を乗り出すようにして俺に顔を寄せてきた。 「学んでみるつもりはないかい? この国について、君と殿下について。君は賢い、否、聡いというべきか。知識があれば、それは君の武器にもなるはずだ。どうだろうか、悪い話ではないと思うが」  射抜くような強い目で告げられた言葉に嘘の匂いは感じられない、けれどそれを俺にしてくることがただただ謎だった。 「……それ、アンタになんかメリットあんの?」  学ぶことは嫌いではない。むしろ憧れてすらいる。それを見透かしているみたいにリドさんは柔らかく笑い、ともすれば泣きそうな顔でくしゃりと口角を上げた。 「……君たちに、幸せになって欲しいんだ」  しあわせ、それは俺にとってあまりにも縁遠い言葉で異国の言葉のようにも聞こえた。けれどリドさんの言葉があまりにも辛そうで、気づくと俺は首を縦に振っていた。   「──国の歴史なんて学んで何になるんだって思ってたけど、案外面白いっすね」 「そうだろう? 何事も始まりを知ると知らないとではその物事に対する構え方が違ってくる。知識はあればあるほど自分を守る武器になるからね」  本を守る為だろうか、強い光が差し込まない、けれど湿気も感じられない本にとってはいい環境の書斎に俺とリドさんはいた。  あの日、幸せになって欲しいと言った彼の言葉は理解できなかった。  けれどあんな複雑そうな顔で、あんな悲しそうな匂いを出すヒトの言葉を俺は断ることなんてできなかった。だからあの日から俺はリドさんとこうして書斎に来ては本を読んで色々と教えてもらっている。  文字の読み書きであったり言葉使いであったり、それこそ身の振り方だったりはジイさんに教わっていたが国の歴史なんてものは全く教わってこなかった。だから今は獅子の国と虎の国と別れている国が元は一つの国だったと書いてあったのには心底驚いた。 「そこで運命の番の御伽話に繋がるんだよ」 「は?」 「はは、君は本当に運命の番という言葉が嫌いなんだなぁ。眉間の皺がすごいことになっているよ」  もう殆ど条件反射といっていいほどのスピードで嫌悪感を表す俺にリドさんは豪快に笑って、俺の眉間にできた皺を人差し指でグリグリと解してくれた。 「一つが二つに引き裂かれ、それを哀れんだ神が別れたものを引き合わせる為に細工を施した。そこは知っているね?」 「…………まあ」 「だから運命の番は互いに反対の国にいる、と言われているんだ」 「……え、はぁ?」 「不思議だよねぇ。運命の番は見つかったという報告例が少ないから一概にそれが正しい、とは言えないんだけどその数少ないうちの一人が私だからね。私の番も獅子の国で見つけたんだよ」  柔らかな光が差し込む午後の穏やかな時間、リドさんは黒板がある方を見て思いを馳せるように目を細める。まるでそこに誰かがいるような、そんな温かい目をして口を開いた。 「彼はとても聡明で、警戒心が強くてね。狐というよりも子猫のようだった。全身の毛を逆立てて私が近づくだけで全力で逃げるものだから、最初は驚いたな」 「……でも、運命だったんじゃ」 「そう、運命だったよ。私は一目で彼が自分の半身だと分かった。きっと彼も同じだった。……だけど全力で私から逃げていた。口説き落とすのに三年もかかったからねえ」  過去を思い出して愛おしそうに番について語るリドさんからは優しい匂いがして、思わず俺の尻尾がふわふわと揺れる。こんなアルファと番えるなら、そのオメガは幸せ者だなとすら思った。  学ぶのは歴史や計算だけかと思っていたが、何故だか立ち居振る舞いの勉強までプラスされて俺は辟易していた。実際のところこれが一番暇で苦痛でしょうがない。  どうして食器を一つ持つだけでこんなにも疲れないといけないのか、俺には理解不能だった。だがこれもリドさん曰く武器になるらしい。普段ならそんなもの腹の足しにもならないと突き返すところだが、王城での生活は俺にとってはとてつもなく暇だった。 「……家事もなんもしなくていいし、働きに行かなくてもいい、贅沢なんだけど。すっげえ暇……」  クソ野郎に呼び出しをくらうかリドさんから授業を受けるかぐらいしか今の俺には暇潰しになるものはなかった。だから今そのどちらもない俺はとてつもなく暇だった。暇なのはだめだ、余計なことを考えてしまうし何より時間が勿体無い。  そう思った俺はベッドから起き上がり動き易い服に着替えた。  向かうのはドアではなく、窓。一応第三王子の番ということもありそれなりの警護がついているらしい。だから真正面から俺は一人で部屋を出ることはできなかった。 「でもまあ、俺にはそんなルール通用しませんよってね」  質素な服に着替えてしまうだけで俺はそこら辺にいる平民と何も変わらない。唯一ネックだとすれば首に巻かれたやけにしっかりした作りの首輪だが、これは布でも巻けばなんとでもなってしまった。  窓を開けて周りに誰もいないことを確認し、窓枠に足をかけて俺はなんの躊躇もなく飛び降りた。着地の瞬間勢いを殺すために転がってしまえば服が汚れるくらいで体へのダメージなんて無に等しい。  それでもアイツの噛み跡が痛むが、そんなものどうでも良いとばかりに立ち上がって服についた土を払う。水分が含まれた良い土だった。 「……驚いたな、空から降ってきたのかい?」 「!?」  背後から聞こえた声にびくうっと大袈裟な程に体を跳ねさせて距離を取り振り返ると、そこにはアイツによく似た男がいた。 「……?」 「え、まさか本当に空から降ってきたの? ああでもあり得るな、白くて小さくて細くて軽そうで、天使みたいだ」  ゾワゾワゾワッと背筋に鳥肌が立つのがわかった。ニコニコとアイツと似た顔で笑うこいつは確実にアイツの血縁なのだろう。だとすれば王族で、まさかの事態にブワッと冷や汗が流れた。 「……でも、君からはアイツの匂いがするなぁ……」 「、え」  瞬きの間にそいつは俺の目の前に立っていた。  夕焼けみたいな色の目に、明るい金の中に時折黒が覗く特徴的な髪色、白い肌。何もかもがアイツとは正反対で纏う空気すら太陽のような明るさを感じるのに、恐怖で奥歯がガチッと鳴った。 「兄上」  バシッ、と何かが掴まれた音と聴き慣れた声が耳に届くのはほぼ同時だった。 「……やあ、ヴァイス。割り振った仕事はどうした?」 「終わらせました」 「……そう、流石私の弟だね。優秀な弟がいて鼻が高いよ」 「……手を、下ろして下さい」 「ああ、ごめん。忘れてた」  なんでもないことのように笑って手を下げた男の爪には赤が見えていた。 「母上がお呼びでしたので、戻られた方がよろしいかと」 「ふふ、そっか。それは戻らないとなぁ。……ねえ、ヴァイス、」  男がアイツに何かを耳打ちして、その場を去っていく。その気配が完全に消えるまで俺はまともに動くことも、息をすることもできなかった。  指先から抜けていた温度が徐々に戻ってきた時、俺の前に立っていた男が動く気配がして思わずその服を掴んでいた。 「……なんだ」 「……手、見せろ」 「俺に命令すんじゃねえよ劣等種が。良いからその薄汚え手を離せ」 「いやだ」  眉間にこれ以上ない程に皺を寄せて俺を睨む男を、何故か今は面倒だとも怖いとも思わなかった。未だに震えが止まらない体を深呼吸でどうにか落ち着けながら、こいつがさっきから頑なに見せようとしない左手を握る。 「っ、」  途端に身動(みじろ)いだのを感じると、問答無用でその手を引き寄せて、そこにあった傷にひゅっと息を呑んだ。 「……お前、これ、」 「うるせえ、お前には関係ない。さっさと部屋に戻ってろ」 「関係ある。これは俺を庇ってできた傷だろ。だから、これは俺のせいだ」  どんな力で爪を立てればこんなにも深い傷を残せるのだろう。  ぼたぼたと流れる赤が地面に落ちて緑のそこを赤く染めていく。 「、ごめん。俺が部屋から出なきゃ、こんな……。あ、そうだ、とりあえずこれ巻けばちょっとはマシになる。ああくそ、こんな時どうすりゃ良いんだ。なあ、トレイルは!? いっつもお前のそばにいんだろ! あいつどこだよ!」 「……」  首に巻いていた布を外して端を噛み、そのまま力づくで布を裂くとそれを傷口に巻いていく。それでもすぐに赤に染まっていくのを見て、焦って近くにトレイルはいないかと探す。だけどどこにもいなくて、俺は苛立って頭をがしがしと掻いた。 「こういう時どうすりゃ良いんだよ。病院? てか城に医者いんじゃねえの。そうだよ医者だ。なあ、城の中に医者いるんじゃねえの。早くそいつのとこ行こ。バイ菌とか入ったらやべえってジイさんが」 「おい」 「なんだよ!」  俺みたいなスラム育ちはどんな傷でも大体放っておけば治る。まず医者にかかる金がないからだ。だから、自分が怪我をしたならこんなにも焦ったりしない。  だけど今怪我をしているのは、俺じゃない。誰かに庇われるなんて初めてで、内側から来る不安は決してこいつが運命の番だからじゃない。そのはずだ。 「こんなんで死ぬ程ヤワじゃねえ。喚くな、鬱陶しい」 「わかんねえだろうが! ヒトは簡単に死ぬんだ、さっきまで笑ってたのに死ぬのなんて当たり前なんだよ! だから、頼むから医者に診てもらえよ。お前、王子なんだからすぐ診てもらえるだろうが……」  最後の方は声が掠れており、声になったかもわからない。  俯いて唇を噛む俺を見たソイツが深い溜息を吐くのを聞いて、目線を上げる。 「……医者には診せる。だから泣くな、見苦しいんだよ」 「泣いてねえ!」 「うるせえ。俺の番殿は泣き虫だな」 「黙れ。早く行けクソ野郎。そんで二度と俺の前に姿を見せるんじゃねえ」  口の減らないやつだ、と今度こそ歩き出したアイツの姿が城の影に消えかけた時、俺は衝動的に声を上げていた。 「……助けてくれて、ありがとう」  その言葉を聞いたアイツは驚いたように立ち止まりこちらを振り返る。 「……兄上には近づくな」  風に乗って届いた真剣な声音に、俺は反射的に頷くほかなかった。

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