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第一章-3
あの日から数日経った。
運命の番というのは離れ離れになったら死ぬなんて逸話もあるから構えていたけれど、そういやうなじ噛まれてないわと思い出してそんな思考も放棄した。
だから俺は今日も都に靴を磨きに来ている。
ジイさんからは猛反対されたが働かざるもの食うべからずで、本当に働かないと飯が食えないので断固拒否させてもらった。その代わり場所を変えろと耳にタコができるほどに言い聞かせられ今日は仕方がなく何時もとは違う場所で客を待つ。
着慣れたボロ布のフードを目深に被ってできるだけ客の目を見ず、顔も見せないようにしながら磨いていく。
「昨日のパレード凄かったなぁ。さすが友好国のお帰りって感じだった」
「今回来てたのって王子だろ? 噂じゃ悪魔も来てたとか」
「馬鹿、噂だ噂。その証拠に何時もと変わんねえ平和な日々過ごしてるじゃねえか」
磨きながら聞こえてきた会話に心臓が嫌な音を立てる。
あいつがもういない、そう考えただけで脈が早くなって勝手に息が上がる。感情が黒く塗りつぶされそうな感覚に呑まれまいと息を吐いて思い切り唇を噛んだ。
獣人特有の鋭い牙によって唇は簡単に裂けて鋭い痛みと共に嫌な温度と鉄の匂いが口の中に充満して、そこまでしてやっと正気を保つことができる。
「なあガキ、お前はパレード見たか? スラムからでも花火の音くらいは聞こえるし、見える場所だってあるだろ?」
「……見てないです」
「マジかよ。あんな豪華なパレード多分この先一生お目に掛かれねえぜ。損したなぁ」
程よく酒が回っているらしい身なりの整った男は可哀想だからと多めに金をくれた。普段なら良客だと喜べるのに、俺の尻尾はだらりと垂れたまま。
紙幣もただの紙切れにしか見えなくてまだ痛みの残る唇に再度牙を突き立てた。
「……期待でもしてたのかよ、バカだろ。本当、冗談じゃねえや」
頭ではあの男と二度と会うことはないとわかっていたし、それが当たり前だとも思っていた。あり得ない出会いだったんだ。俺とあの男は本来会うべきじゃなかった。
頭ではそう理解しているのに、心の奥底で泣き叫んでいる自分がいる。
それがどうしようもない程に気持ち悪くて、苛立たしくて、苦しい。
「……帰ろ。今日はいいもん食えるかも」
ぶんぶんと頭を振って何度か深呼吸を繰り返し、フードをとって空を見上げた。
空だけはスラムで見るものと同じで、今日も綺麗なオレンジ色に染まった雲を見ていると少し気が楽になった。稼いだ金をポケットにねじ込み帰りに市場に寄ろうと踵 を返した途端誰かにぶつかりマズい、とすぐに距離を取ろうとしたがそれよりも早く腕を掴まれて俺は目を丸くした。
「み、見つけた……っ!!」
艶やかなオレンジ色の髪が同じ色合いの夕陽に照らされてやけに綺麗で一瞬目を奪われる。でも俺にとってこいつは死刑執行人に等しかった。
「、なん、で、」
もう二度と会うことはないと思っていたあの男とのきっかけに、俺は全身から血の気が引いていくのを感じた。逃げようともがくのに腕を掴む力は緩むことなく歩き出す。
「離せ! おい、離せってば……!!」
「無理無理ぜーったいに無理。この手離したらソロくん逃げるでしょ? ホントあの時めーっちゃびっくりしたんだからね? ボクでも無理だよあそこから飛ぶの。ヴァイスも流石に焦ってたなぁ」
オレンジ色の髪のハイエナの獣人、トレイルに腕を引かれ俺は知らない道を歩かされていた。どれだけ抵抗しても腕が離れることはなく、どこかなよなよとした印象のあるトレイルが実は鍛えられているというのもこの時にわかった。
けれどそんなことを気にしている場合ではなく、俺はただこいつから逃げようと必死だった。だってこいつの体からは微かにアイツの匂いがする。また嫌な音を立てて早鐘を打ち出す心臓に舌打ちをしたと同時にトレイルの口から出た名前に肩が大きく跳ねた。
「……この前はごめん。ちゃんと謝りたかったんだ。……君の話も聞かずに無理矢理王宮に来させた挙句、あんな目に合わせて本当に悪かったと思ってる。ヴァイス、……ボクの主人に代わって謝るよ。ごめん」
腕は離さないままにこちらを振り向いた男の言動に混乱しないように呼吸を繰り返しながらなんとか理解しなければと言葉を頭に叩き込む。
「……あんたに謝られたってしょうがない。主人ってなんだ。あんたは俺に、王宮で働いてるって言ったよな。それなのになんでアイツが主人になる。……あんたら、なんなんだよ。俺になんの用があるんだ。謝りたいだけなら、んなもんいらねえ。二度と俺の前に現れんな」
本能がアイツの残り香で歓喜の悲鳴を上げる。体が中から二つに割かれていくような感覚がして、眉間に深く皺を刻んだ。感情の読めない目で、ただ申し訳なさそうな顔を作っているトレイルをじっと見る。
踏み込んではいけないとわかっていながらも口からは言葉が止まらず、危機感からか内側の不快感からか、知らずに息を上げて汗を流しながら腕を振り解こうとするがやはりそれはできなかった。
「ごめん、どうしたって離せないんだ。君の疑問も怒りも正しい。理解できないよね」
「……いいから離せよ。謝罪だっていらない、あんたらのことを言い触らす真似もしない。あんた達がどこの誰とか、どうでもいいから! だから、離せ。頼むから、」
「……本当に離していいの?」
それまでぴくりともしなかった腕を掴む力がふと弱まり、思わずトレイルを見上げる。
そこにいたのは初めて会ったときと同じ胡散臭 い笑みを浮かべているソイツだった。
「ソロくん、体辛いんじゃない? 内側から嫌なものがずっと迫り上がって来てるんじゃないかな? 日を追うごとにそれって辛くなるでしょ? ──今だって、ボクの服についた匂いで狂いそうなんじゃない?」
どこか確信を持って告げられた言葉にカッと頭に血が上ってそいつを強く睨む。
「っ!」
「あは、そんな怖い顔しないでよ。でも図星でしょー? うまく誤魔化してるみたいだけど、長くは保たないよ。そういうものらしいからね」
「……あんた、一体」
「ボクはね、虎の国第三王子ヴァイスの友達兼付人のトレイル」
にんまりと、三日月みたいに口角を上げながらトレイルは俺を見る。
「どんな事情であれ、例えそれが事故だって王族と交わったやつを野放しにはできないんだよ。だから、ごめんね?」
次の瞬間、俺の意識は暗闇に落ちていた。
がたん、がたん、と不規則に揺れる振動で目を覚ました。目を開けたはずなのに視界には何も映らず、起き上がろうとしたがそれもできなかった。
「あ、ソロ君起きたね。騒がれたら面倒だからちょーっと縛らせてもらったよ」
何が起きているかもわからないままただ自分の置かれている状況が理解できず身動 いでいると比較的近い場所から聞こえた声に意識を向ける。
「ぐ、……、」
「お、意外に暴れないね。やっぱりソロ君って案外賢いよね。普通喚き散らすとか暴れるとかするのに」
続けられた言葉に喉の奥から唸り声が漏れる。それを面白そうに俺をこうした張本人のトレイルが見ている気配がした。
「こんな扱いしちゃってるけど、別に売り飛ばしたり奴隷にしたりする訳じゃないから。結論から先に言うと君は今から虎の国に行く。それでボクたちで保護させてもらう」
「……!?」
「理由は言ったと思うけど、君がヴァイスとそういうことしちゃったから」
俺が、虎の国に行く? 保護? 全く予想していなかった言葉の羅列に思考が止まりそうになるが、ここで止めたらダメだと辛うじて動く頭を床に打ち付ける。
ごん、と鈍い音が不規則に揺れる空間に響いた。
「ちょ!? ほんと酷い目に合わせたりしないから早まんないでくれるかな!? ……あ、痛みで冷静になろうとしてるのか。なるほどぉ。でもさー、ソロ君縛った時思ったけど君って冷静になろうとしてる時自傷する癖あるでしょー? もう腕とか唇とかボロボロ。ダメだよああいうのー」
痛みが有効だっていうのはわかるけどー、と間延びした口調で告げるトレイルに苛つきがどんどん溜まっていく。体の自由を奪い、視界を奪い、声も出せないようにしているくせに。そう思うとまた俺の喉から獣みたいな呻き声が漏れた。
「……とても今から運命の番に会えるってオメガの反応じゃないんだよなぁ。普通オメガならさ、意思とは関係なく喜んじゃったりするものじゃないの? あ、でもそんなこと言ったらヴァイスもそっか。君達ってほんとに運命の番なのかな?」
俺がもう自分を痛めつけないようトレイルの手が上から俺の頭を押さえる。床に押し付けられた状態で話される内容は俺からすれば死刑宣告だった。
気がつくと俺は渾身 の力で咬まされていた布を噛み切っていた。
「あいつに会いたくない……!」
「わお、びっくり。噛み切るなんてさすがスラム育ちは違うね」
「頼む、あいつに会いたくないんだ!」
「無理無理。ヴァイスもおんなじこと言ってたけどそれ本当不可能だから。なんでそんな嫌がるわけ? 運命のつが」
「運命運命ってうるせえんだよ!! あんたも、ジイさんも! 好きであんなヤツとヤったんじゃねえ! こんなの呪いだ……!」
血を吐く思いで叫んだ言葉にトレイルが息を呑むのがわかった。
けれどそれで俺の拘束が解けることはない。
「……君がどれだけ嫌でも会ってもらうよ。ヴァイスの為にね」
それまで少し高いトーンで話していたトレイルの声が少し下がった。それから俺がどれだけ抵抗しても叫んでも解放されることはなく数時間振りに視界が開けた時、外は真っ暗だった。鼻に届く慣れない匂いの中に遠い昔に嗅いだことのある豊かな草のものがあり、それと肌に感じる温度で今が夜なのだということがわかった。
さく、と草を踏み締める音が聞こえる。
スラムではあり得ない音に自分の耳が勝手に動くのを感じながら、俺はトレイルに俵担ぎにされて運ばれていた。
「こうでもしないとソロ君絶対逃げるでしょー? まあ歩く手間が省けたって感じで気楽にしててよ」
「こんな状態で気楽にできるヤツいんなら見てみたいわ」
腹部にめり込むトレイルの肩が地味に痛い。けれどそんなことを言ったところでしょうがない、と俺はもう諦めていた。
あの馬車の中でどれだけ帰せ戻せと訴えても答えはノーの一点張り。こいつは何があっても絶対に俺をあの白い奴のところに連れて行くらしい。
「……アイツも俺に会いたがってないんだろ? なのになんで連れて行くんだよ。逃せねえって言うなら地下牢にでも繋いどけっての」
「ソロ君ってさ、ちょっとびっくりすること言うよね。そんなに嫌なのー? まあ嫌って言っても連れて行くし、ヴァイスにも会ってもらうけど、さ!」
「っ、」
急に腹部に対する圧が増したと思ったらトレイルが俺を担いだまま跳躍し、城の壁に掴まっていた。
「はぁあ!?」
「わ、わ、しーっ! しーっだよソロ君! これ結構ヤバいんだからね!?」
「んなもん見たら分かるわっ! なんで普通に入らねえんだよ!」
「えー、普通に考えて無理じゃなーい? 俺だけならまだしもソロ君一緒とかリスキーだもん。憲兵に捕まったら即アウトっていうかー」
「……おい待て。お前らが俺を拉致したんじゃねえの?」
「どこの世界に会いたくないやつ拉致して来いって言う奴がいるの?」
顔は見えないが、気配でわかる。
トレイルがとんでもなく笑っているということが。
「俺の独断ですっ」
「っざけんじゃねえぞクソハイエナ野郎!!」
俺が渾身の叫びで訴えた僅か数分後、俺の耳に届くのは複数の足音と数人の声。そしてその中でも一際存在感のある声が鼓膜を震わせた。ああ、一体全体どうしてこうなった。
「ヴァイス様!? ご無事ですか!」
「窓が割れた。修理は明日でいい、出て行け」
「で、ですがもし賊が入って来たら」
「出て行けと言ったのが聞こえなかったのか。それともお前は俺が賊に遅れを取るとでも?」
「いえ、そのようなことは! 決して……!」
「なら出て行け。目障りだ」
確かに窓は割れた。割ったのは俺だ。正確に言うと割らされたのだ。
(「はいここがヴァイスの部屋ね。ベッドでこんもりしてんのがそうだからさ。挨拶しておいでよ」「は?」「あ、しっかり口閉じてて、ね!」「は、──っ!!」)
そうして力の限りに投げられた俺は、それは見事にアイツの部屋に入り込んだ。それはそれは盛大な破壊音と共に。
音で飛び起きたアイツの顔はきっと一生忘れないと思う。俺も相当な顔してたと思うけど。
まあそれでなんでか知らないけど俺は今アイツのベッドの中にいる訳で。隠れられる所がここしかなかったわけじゃない。
無駄に広過ぎる部屋には隠れるところなんて山程あった。なんなら外に逃げてもよかった。
それなのにできなかったのは、こいつが俺をベッドに引き込んだからだ。バタン、と扉が閉まる音がして兵士であろうヒトの気配が消えたところで俺はベッドから慌てて顔を出した。
「っは、はぁっ、……っ、しぬかと、おもった」
「今すぐ殺してやろうか?」
「うっせえクソ野郎。文句があるならトレイルに言え」
鼻を両手で押さえてどうにかコイツの匂いを嗅がないようにしつつベッドの上で俺たちは睨み合った。
「ッハ、随分と口が悪いな。さすが劣等種」
「なんとでもどうぞ。ったく、訳もわからず連れてこられた被害者は俺だっつの」
初めて見たときの感動は今はもう微塵 もない。
ただ見た目が驚く程整っている虎の獣人。もう一つ付け加えるのであればただのクソ野郎。それ以上でも以下でもない印象しか抱いていないソイツの前から一秒でも早く逃げたくて鼻を押さえたままベッドから抜け出すと俺は窓枠に足をかけた。
「……おい」
「アンタも俺には会いたくないんだろ? トレイルが言ってた。だから出ていくんだよ」
外は暗く、そしてここは高い。飛び降りれば骨の何本かは折れるだろうが、それでも構わなかった。
匂いを嗅がないようにしていても気配を感じるだけで内側がぐちゃぐちゃに掻き乱される。不自然に上がった息を悟られないよう俺は必死だった。
「無理無理。そんな易々と逃す訳ないじゃーん」
「!?」
「……トレイル、なんの真似だ」
窓枠の上部に足を掛けてまるでコウモリみたいに現れたすべての元凶を目の前にして驚き過ぎて尻餅をつく。そこに明らかな苛立ちを含んだ声でアイツが声をかけるとトレイルはただ口元に弧を描いた。
「んー? ヴァイスへのプレゼント。神妙に受け取ってよ」
「ふざけるのも大概にしろ。俺はこんな劣等種に興味はないと、お前に、何度も、言ったよな」
強調するように告げられる言葉に意思とは関係なく心が悲鳴を上げるのがわかる。
やめて、そんなこと言わないで、と内側から誰かが叫んでいるみたいでそれが嫌で嫌で、どうしようもなく嫌で俺は自分の首に爪を立てた。
「ソロ君!?」
血の匂いを感じて俺を見たトレイルが驚いて駆け寄ってくる。爪を立てる腕を力づくで奪われると俺はただ叫んでいた。
「殺せよ!! もう、頭ん中でずっと嫌な音がする! 俺の意思とは関係無く体がアイツの気配でおかしくなる! こんなの俺じゃない……っ! なあ、アンタも俺が嫌なら殺せよ! あのときみたいに首の骨折って、俺を殺せ!」
いつの間にか鼻を覆っていた手が外れ、アイツの匂いで満たされた部屋で俺は呼吸をしていた。瞬間、ドクンと心臓が大きな音を立てる。
「……っ、いやだ、いやだ……っ!」
あの時のように、体の熱が一気に上がる。
発情期 は終わった筈なのに、その時よりも酷く甘い熱が体中を駆け巡る。嫌悪感で吐きそうなのに、そんなのお構いなしに体が作り替えられていく。
「トレイル、離れろ」
「でも、こんな状態で離したら」
「発情期 だ。近過ぎるとベータのお前でも食らうぞ」
腕を掴んでいた手が離されて、俺は一目散に窓へと走ろうと足に力を入れたがそれはできなかった。
「部屋に誰も近付けるな。殺しはしねえ」
「……わかった」
急に強くなった匂いと威圧感に俺の足は竦んでしまった。トレイルが部屋を出る音と、アイツがベッドから降りる音はほぼ同時。
近づいて来る気配が俺には恐怖でしかなかった。
「……こいつが俺の番だと……?」
低く唸る声に体の奥から熱が溢れる。
「脆弱でなにも持たない、こんなスラム街のガキが、俺の番だと……?」
首に手をかけられて勝手に体が跳ねる。
それは恐怖からではなく、そいつに触れられた瞬間走った快感によるものだった。
「……どこまでも馬鹿にしてくれる……!」
苛立ちをぶつけるようにあいつは牙を立てた。俺のうなじではなく、肩に。
それはそいつがどんなことがあっても俺を番としては認めない、そう語っているように思えてまた心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
肩に食い込んだ牙は肉を裂いて骨すらも砕こうとする。あまりの痛みに俺は全力でコイツを押し退けようとするがびくともしない。
「──っ!! は、なせ……!!」
「悲鳴を上げねえことは褒めてやる。さすがはスラム育ちだな、弱者の生き方が染み付いてる」
鼻で笑い肩から口を離したヤツの口元は俺の血で真っ赤に染まり、口に入った赤を不愉快そうに床に吐き捨てていた。
ぶつん、と何かが切れたのを頭の中で聞くと気が付いた時には俺の足はアイツの腹にめり込んでいた。
「!?」
「てめえみたいな貴族が一番嫌いなんだよ、俺は! 一人じゃなにもできねえくせにいつも俺たちを見下しやがって、お前らがそんなんだから……っ!」
脳裏に浮かんだ幼い顔に目に薄く膜が張る。
今になって涙が出るなんてどんな皮肉だ、と内心自分を嘲りながら俺はコイツの前だけではどうしたって泣きたくないと歯を食い縛って堪える。
「この、クソが……!!」
ぐるる、と獰猛な音が耳に届いた頃には俺は喉を掴まれ床に押さえつけられていた。
「がはっ、」
「……情けで殺してやろうと思ったが、やめだ。お前が一番嫌がることをしてやるよ」
殺気立って牙を剥き出しにしていた男は、呼吸ができず苦しむ俺の姿を見て何かを思いついたように口角を上げた。途端に広がる、やはりあの時よりも濃い香りに体は熱を持つのに俺の顔からは血の気が引いていく。
「メスにしてやる」
首を押さえ付ける力はそのままに耳元で囁かれた甘さと怒りと、そして狂気すら混じった言葉に視界が真っ暗になった気がした。
ぶわっと大輪の花が開くように一気に香りが広がる。
それは前回の比ではなく、コイツが自分の意思でそれを出していることに俺は絶望を覚えた。
「っは、ぁ……っ、いや、いやだ……っ」
「そうは言ってもお前の顔はもうしっかり発情したメスの顔だなぁ。お似合いだ」
拒絶したいのにできない。
抗えない絶対的な何かが俺のすべてを塗り替えようとしてくる。
俺はなす術もなくそれに流されていった。
「やだ、さわんな、いやだ……っ」
少し触れられるだけで体に甘い痺れが走って口から泣き声とも取れる細い声が漏れる。
鋭い爪で簡単に服を引き裂かれて、貧相な体が晒される。
案の定鼻で笑われるがそれと同時に触れられることがあまりに気持ち良くて、でも嫌で、俺は訳もわからず涙を流していた。
あの日の記憶はほとんど無いに等しい。
ただ気持ち良くて、でも怖くて、どうにかなりそうな感覚の中ただこの男と交わっていたことは薄ぼんやりと覚えている。だけど、今は違う。
「ああほら、乳首が勃ってきた。敏感だなぁ、番殿?」
「ゃ、いや……っ、んんぅっ! ぁ、く……っ」
猫科特有のざらついた舌で胸の飾りを舐められて自分の口から信じられないほどの甘い声が漏れる。
それにコイツは心の底から楽しそうに笑って、ワザと耳元で俺の痴態を話す。
「ぁ、ふ……っ、ゃ、いやだっ、触るな……!」
うまく力の入らない腕でソイツの体を押すが噛まれた自分の肩が痛むだけで自分に覆い被さる男が離れることはない。喉奥を愉快そうに鳴らしながらゆっくりと、甘い手つきと声で快感を刻み込んでいく。
傍 から見れば、これは愛のある行為だと思うのだろう。
だけど俺には、これ以上ないほどの苦痛だった。
「口でどれだけ嫌がっていても体は正直だな番殿。お前の孔はこんなに濡れて、今すぐにでも俺に挿れて欲しそうだ」
「──っ! っ、は、ぅ……っ! ちがう、ちが……っ!」
「違わないだろう」
「ぁ、んんんっ!」
耳を塞ぎたくなる音が俺の体から聞こえる。すんなりとアイツの指を飲み込んで、嬉しそうに締め付けていた。
中を拡げようとする指もあまりに優しくて、一々俺の反応を窺って次へと進めていくコイツがただただ憎かった。
「またイったな。さすがはオメガ、その浅ましさはどいつもこいつも似たようなものだな」
間違いなく憎いとそう思うのに、体は悦んでいるんだ。
コイツに触れてもらえるのが嬉しいと、もっと欲しいと、俺の浅ましい本能が叫んでいる。
生きているだけで幸せだと思っていた。
それだけで儲け物なのだと、生きていればなんとかなるのだと、そう信じていた。そう信じないと、前を向けなかった。
だけど、
「……も、いやだ……っ! いやだ、いやだいやだぁああ……っ!」
足を開かされて、あの男の熱杭が俺を貫いた。
痛みもなく、強烈な匂いで俺は感覚のすべてが快感で染められる。意識を飛ばせたらいいのに、それをコイツは許さなかった。
「……ッ、いい、ザマだなぁ、番殿。これだけ拒絶しているのに、お前は、俺を受け入れるしかできない。……無様だな」
ぱん、ぱん、と肌がぶつかる乾いた音が豪奢な部屋に響いた。強制的に発情させられた体は与えられる快感を簡単に受け入れて、口からは女のような喘ぎ声が引っ切り無しに零れでる。
どうして、俺だけ狂うんだ。
どうして、なんで、どうして。
腹の奥に熱い感覚が広がるのと、俺の意識が落ちるのはほぼ同時だったと思う。
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