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Scene 01-1
地の底を覗き込むような心持ちで、椿生 は四角く切り取られた闇を見つめていた。暗がりの奥へ目を凝らせば、淡い橙色の灯りと少なくない数の人々の気配がある。秘密めいたざわめきの先によもや人生を左右するほどの出会いがあろうとは、このときいったい誰が想像しただろう。
鉄製の螺旋階段はしなやかな曲線を描いて下降し、深い闇へと吸い込まれてゆく。ゆうに二フロア分ほどの高さはあるだろうか。
外観こそ何の変哲もない雑居ビルの内部は、想像を裏切る様相だった。天井で唸る大型エアコンに外の雨音は遮られ、上着すら要らぬほどの室温だが、コンクリートむき出しの壁に囲まれた空間は殺風景で見るからに寒々しい。こういったビルにありがちな集合ポストも、管理人室も、各フロアのテナントを示す案内板もなければ上階へのエレベーターも見当たらない。煤けたリノリウムの床に四角い穴がただひとつ、ぽかりと口を開けているだけ。
どういうわけかこのビルの空間は上階ではなく、地下へと広がっているようだった。安っぽいバーや、金貸しや、寂れた占い館。見た端から忘れてしまいそうなありふれたネオン看板たちは、いかにも奇妙な空間を街に溶け込ませるための舞台装置だったらしい。
「行こう」
信乃 は髪についた細かな雨粒を軽く払うと、慣れた足取りで階段を降りてゆく。エナメルのストレートチップがリズミカルな足音を奏でる。一本きりの階段ではぐれる心配はないにせよ、未知の場に赴く心細さは否めない。椿生は膝に力を入れ、タキシードの背中から目を離さないよう注意深く階段を降りた。
途中で二度、ボディチェックがあった。あらかじめ聞いていたから慌てはしなかったが、黒スーツの大男から無遠慮な仕草でジャケットを脱がされ、ウェストコートの上から体をまさぐられるのは気持ちの良いものではなかった。隣の信乃をちらと見ると彼は慣れた様子で涼しい顔をしている。椿生の表情から正しく心情を読み取った親友は、黒スーツの目を盗んでおどけたようにウインクをしてみせた。その顔を見たとたん、緊張していることが急にばからしく思えた。
今日ここに来ることが決まったのはほんの二日前、面白い場所があると信乃から誘われただけに過ぎない。ブラックタイで、とドレスコードを指示された以外はどこで何をするのかも聞かされていないわけだから、この場で追い返されたとて何も困りはしないのだ。それに、家柄、学歴、収入、容姿、どれをとっても最上級のアルファである椿生が追い出されるというのならどうせろくな場所ではあるまい。らしくもなく雰囲気に呑まれていたらしい。残りの階段は、いっそ開き直った心持ちで降りた。
「着いたぞ。ここだ」
ホールの入口に立つ黒スーツは階段の踊り場にいた男たちよりさらに屈強そうだったが、物腰はいくらか丁寧だった。信乃の差し出したインビテーションカードを受け取ると、慇懃な所作で扉を押し開いた。
ホール内部はいっそう奇妙な空間だった。蝋燭とオイルランタンに照らされた薄暗いフロアには、数十名の男女が集っていた。いずれもタキシードやドレスで煌びやかに着飾っている。中には仮面で顔を隠している者もおり、中世ヨーロッパの舞踏会にでも迷い込んだかと思うほど。椿生や信乃のような若者は少なく、中年以上か、老人に近い年齢の者がほとんどのようだった。
煉瓦造りの壁には何点もの絵画が掛けられ、テーブルには彫刻や工芸品、ジュエリーなどが所狭しと並べられている。床に積まれた小さな檻には、鳥や猿、爬虫類が閉じ込められており、それらには一点ずつナンバーが振られていた。
「これは……オークションか? しかしあのオウムは輸入が禁止されているはず……」
「へえ、よくわかるな。さすが椿生」
「禁輸品目くらい把握していないと仕事にならないからな。信乃、これは一体なんなんだ?」
「まあ見てろ。すぐにわかる」
信乃は微笑み、ホールの中央に視線を向けた。
薄暗い会場の中、そこだけが強いスポットライトで照らされている。円形ステージはそう広くはないがかなりの高さがあり、離れた場所からでも様子がよく見えた。黒い燕尾服を着た男がピンと背筋を伸ばし、脚を揃えて立っている。
傍らにはドーム型の鳥籠がひとつ。アンティーク調の装飾が施されたそれはかつて白い塗装が施されていたようだが、今やそこかしこが剥げ落ち、むきだしの真鍮が鈍い金色に光っている。燕尾服の男と同じくらいの高さがあることから、小鳥を飼うためのものでないのは明らかだ。その証左に、籠の片隅に白い布のかたまりがある。時おりもぞりと身じろぎするそれは、まぎれもなく人間だった。眩しすぎる照明から逃れるように体を丸め、うずくまっている。
ステージを見上げる人々は言葉少なながら一種の興奮状態にあった。異様な熱気がホールに満ちてゆくのがわかる。ひとりの客が吸い寄せられるようにふらふらと歩みを進めたかと思うと、ステージに手を掛けよじ登ろうとした。不自然なほど高く設えられたステージの意味を、椿生はそこで理解した。無礼な客はステージの縁にぶら下がってじたばたと藻掻いていたが、すぐに黒服の男たちに捕らえられてどこかに連れ去られてしまった。
これはいよいよただのオークションではない。いったい何が始まるというのか。椿生は目を凝らしてステージを見守った。
檻の中の人物は膝を抱えて俯いており、布切れ一枚の粗末な衣服から出る四肢は折れそうに細い。金色の長い髪で隠れているため顔貌は判然としないが、革製の枷のようなものが口元に嵌められているのが垣間見えた。喋ることを禁じられているのか、あるいは何かしらの不都合を隠されてでもいるのだろうか。白い手足が小刻みに震えているのが遠目にもわかって、椿生は同情した。きっとまだ子供なのだろう、こんなやり方で衆目に晒されて、恐ろしくないはずがない。
ほどなくして、燕尾服の男が一歩前に出た。にわかに静まり返る会場内に、高らかな声が響き渡る。
「さて、それでは本日最後の出品となります。こちら、とある奴隷市場から買い付けた極上品! 口はきけませんが、心身ともに健康そのもののオスでございます! 三千万円から参りましょう!」
奴隷だって!? 椿生は思わず信乃を見た。隣に立つ友人はステージへ目を向けたまま、何食わぬ顔で言った。
「今日の子はなかなか良い出物のようだね。男ってのも珍しい。いくらになるのかな」
「いくら、って……」
「五千万!」
当惑する椿生の声は、突如上がったコールにかき消された。それを皮切りに次々と声が上がり、七千万、一億とみるみる金額が跳ねあがってゆく。
もはや疑問を差し挟む余地はなかった。檻の中の子供が、売られようとしている。
額はいよいよ億を超え、さすがにだんだんとコールの声も減り始める。競り合う者が残り三名ほどになり、さて落札者は誰かと皆が固唾を呑んだ、そのときだった。
「十億」
「なっ!?」
どよめく会場。その中でも最も大きく驚愕の声を上げたのは信乃だった。
「じゅ、十億円が出ました……。他、ございませんか?」
競っていた三名は一様に苦い顔をしたが、それ以上は出なかった。競売人がハンマーを振り上げ、力を込めて打ち付ける。タァン! 重い音が空気を震わせた。
「落札! 十億で落札でございます!」
「おい! 正気か!?」
信乃が椿生の肩を掴み、揺さぶった。「もちろん」と椿生は答えた。ほんの数分の間に十億円の買い物を決めた親友を、信乃は唖然と見つめた。
「正気じゃないのはこの会場だ。見ただろう、あの老人たちを。いかにも欲に溺れた業突張りどもだ。あんなやつらのもとに年端もいかない子供を行かせるわけにいくものか。きっとろくな目に遭わないに決まっている」
椿生は強い憤りを感じていた。人身売買は法で禁じられているが、そうでなくとも人間を金でやりとりするなどとうてい許されることではない。こんな商売に加担したくはなかったが、みすみす不幸になるとわかっているものを見過ごせはしなかった。
「待て、オメガだぞ? 子供であるはずがない。幼く見えるのは痩せてるせいだろう」
「……オメガだって?」
「ああ、そうだ」
つい今しがたまでの怒りも忘れ、椿生は瞬いた。
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