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Scene 01-2
かつて自由と平等を理想とした世界は、この百年ほどの間に厳格な階級社会へと変貌を遂げた。アルファ、ベータ、オメガという三種類の性別、いわゆる第二性の存在が立証されたためである。診断方法が確立されるや否や人類はたちまち三つに分断され、今や何をするにも男女性より第二性が重視される。それほどに、三つの性の間にははっきりとした特徴と、埋めようのない能力差があった。
人口の大多数を占めるのは一般層であるベータ、次いで、俗に強者の遺伝子と呼ばれるアルファがおり、椿生と信乃もそれに属する。
そして最も希少とされるのが、オメガと呼ばれる人種だった。彼ら、彼女らは人間離れした美しい容姿と、男女問わず妊娠が可能という身体的特徴を備えていた。そして、ヒートと呼ばれる発情期に放たれる強いフェロモンはアルファを誘い、惑わせ、狂わせる。ちょうど十二~十四歳ごろの思春期に顕在化する特性であるため、教育現場では生徒たちに対し定期検査が行われるのが通常である。第二性が明らかになった時点で少なくともオメガは、それまでの級友たちと机を並べることは叶わない。
オメガの身体的特徴は性的搾取の対象としてあまりにも都合が良かった。支配階級であるアルファは言わずもがな、ベータまでもがオメガを玩具や性奴隷のように扱い、彼らが自由に生きる権利は事実上剝奪されているに等しい。違法とはいえこのような売買市場が成り立っているという事実がその証明であり、世界の歪みそのものであった。
「……本当に僕はオメガを買ったのか?」
「まさか、知らないで落札したのか?」
「だって、そんな説明は一言もなかった」
「暗黙のルールというやつだよ。参ったな」
信乃は癖のある髪をくしゃくしゃと掻き乱した。そして事前に詳しく話さなかったことを詫びてから、ようやくこの奇妙なオークションの正体と、そこに椿生を誘った理由を説明した。
「俺の会社が美術品を取り扱っているのは知っているだろう?」
「もちろんだ。お前に売りつけられた絵画がうちに何点あると思ってる」
「失礼だな。君に売ったのはどれも本物。正真正銘の一級品だよ」
「当たり前だろう。偽物なんて買わされてたまるか」
信乃の肩を軽く小突くと、彼はにまりと笑って椿生の耳元に顔を寄せた。
「それだよ」
「?」
「ここで出品される絵画や彫刻はほとんどが贋作だが、稀にとんでもないお宝が紛れてる。客の中に目利きのできる者なんてそういないから、破格で手に入れることができるんだ」
椿生は会場にずらり並んだ美術品を見回した。偽物だなんて、言われなければ疑うこともしなかっただろう。
「どうしてお前がこんな怪しげなオークションに出入りしているのか疑問だったが、ようやく合点がいったよ。しかし、なぜ僕をここに?」
「宗方 のじいさまに頼まれたのさ」
「祖父に?」
「椿生、君は大変優秀だし、とても真面目で誠実な、俺の自慢の友人だ。しかし少々堅物すぎるというか、見識が狭いことは否めない」
「あ、ああ……」
信乃の指摘はもっともであった。旧財閥系の名家、宗方家の跡取りとして生まれた椿生は、幼少期から後継者となるべく厳しい英才教育を受けてきた。事故で早逝した父の名代という重い責務に生来の真面目な性格も手伝って、同年代の若者が当たり前に経験するような夜遊びもろくに知らない。そんな生い立ちを恥じてはいないし後悔もないが、世間知らずの自覚なら充分にある。椿生は曖昧に頷いた。
「宗方翁はそれを気にかけていてね。この先仕事を任せるにあたっては、世の中の汚い面や薄暗い場所からも目を逸らさず見ておく必要があると。俺はそれに賛成した。純粋さは君の美点だが、そのままではいつか手痛い目に遭うかもしれない」
「それで、こんなところに誘ったのか」
「そういうこと。ここは近辺で最大級の地下オークションだが、そうはいってもオメガが出品されることなんてめったにない。誓って言うが、ただの社会見学のつもりだったんだよ」
計算外だった、と信乃は肩をすくめた。
「君はきっと怒るだろうと思ったが、オメガ売買の現場に居合わせるなんて経験、望んだってできるものではないからね。いい議論の材料になると判断した。しかし、まさか落札してしまうとはな」
信乃はくつくつと肩を揺らした。落札直後こそ顔を青くしていた親友だが、今やこの状況をすっかり楽しんでいるようだった。
「安心したまえ。あれは悪くないオメガだよ。あのジジイどもが血眼になっていたのも頷ける」
信乃が軽く目くばせをした。見れば、競り合っていた老人たちがこちらを睨みつけ、何やら耳打ちし合っている。内容は椿生にもおおかた想像がついたが、程度の低い妬み嫉みなど飽きるほど浴びてきている。信乃は肩をすくめ、ウエイターの運ぶトレイからシャンパングラスを取り上げた。
「十億ぽっちも出せないところを見ると、たいしたアルファじゃなさそうだ」
「そうなのか? まあ、僕も差し当たって自由にできる小遣いはそれくらいだが」
「ははっ、それを連中に言ってやれよ。きっと憤死するぞ」
いかにも可笑しそうに声を上げる信乃の背後から、先ほどステージにいた競売人が近づいてくるのが見えた。軽く目礼すると、競売人は腰を落として背を丸め、揉み手せんばかりの様子で椿生の元へやってきた。
「これはこれは、ずいぶんお若く立派な紳士でいらっしゃる。この度は当オークションへのご参加、恐悦至極にございます」
「……どうも。いつもこのようなオークションを?」
「ええ。お陰様で毎回ご好評をいただいております。今後ともどうぞ御贔屓に。──早速ですがお客様、落札された商品の引き渡しを致しますので、どうぞこちらへ」
競売人は慇懃な所作で椿生たちをホールの奥へと案内した。たっぷりとしたベルベットのカーテンをくぐった先、扉ひとつ隔てた部屋は薄暗いオークション会場とはまったくの別世界だった。
白いLED照明に合皮張りの応接セット、衝立で区切られた向こうにはデスクとパソコンがあり、ワイシャツ姿の男がつまらなそうにキーボードを叩いている。まったくもって珍しくもないオフィスの光景ではあるのだが、今までいた会場とのギャップに一瞬思考が止まった。
競売人は椿生の反応を意に介する様子もなく、ソファの上座を勧めながら自らも腰を下ろした。
「ただいま商品の準備をしておりますので、しばしお待ちを。その間に、こちらにお名前を頂戴できればと……」
競売人は顧客カードを差し出し、サインを求めてきた。聞けばオークションの日時は不定期、会場は毎回異なり、直前に発送される招待状にしか記載されないという。上得意を逃してなるものかと躍起になっているようだったが、椿生は取り合わなかった。美術品が欲しいならこれまでどおり信乃に頼めばよいのだし、そもそもこんな怪しげなオークションの顧客として名を連ねるのは椿生の信条に反する。やれ希少な美術品を優先的に案内するだの、特別価格を設定するだのと言い募る競売人の声を遮るように、ノックの音が響いた。
「ああ、来たようです」
扉が開き、黒スーツの男が現れた。
「おい、顔を見せなさい」
男の背後に隠れるように佇んでいたオメガは、軽く躊躇する様子を見せたあと、そっと顔を覗かせた。その姿に椿生は思わず息を呑んだ。
生粋のアルファ家系に生まれ、学校はアルファ専用の私立校といういわば純粋培養めいた環境で育った椿生が、ただでさえ希少なオメガをまともに目にするのは初めてだった。確かにこれは、噂に違わぬ美しさだ。
子供に見えたが、信乃が言ったとおり身長も顔立ちも大人のそれだ。布切れのような粗末な衣装に代わって、白いドレスシャツと黒のトラウザーズを着せられている。うずくまっていたせいで先ほどはよく見えなかった顔が、はっきりとわかった。
淡い色の睫毛に縁取られた瞳は髪と同じ金色で、つい先ほどまで檻の中で震えていたとは思えぬ強い光を湛えている。だが、顔の下半分はやはり口枷で覆われたままで、ふっくりとした赤い唇も隙間からわずかに覗くばかり。小さく繊細な顔立ちに無骨な枷はいっそグロテスクなほどである。
口がきけないと説明があったが、このような動物じみた扱いをする必要はないはずだ。すぐにでも外してやりたいと椿生は思った。気の毒に思ったのは確かだが、それだけではない。経験したことのない、正体のわからない焦燥だ。なるほど、オメガがアルファを魅了するというのはこういうことなのだろうと、椿生は理解した。
「さあ、こちらへ。一緒に帰ろう」
「あぁ、お客様、お待ちを。まだ商品の説明が──」
「不要だ。人間を商品呼ばわりするような人物とこれ以上話す気はない」
椿生は懐から小切手帳を取り出すと、金額とサインを書き付けて競売人に差し出した。
「これで彼は私のものだ。何か問題は?」
「い、いえっ! どうぞお連れくださいませ!」
金さえ受け取れば用はないとばかり、競売人は小切手を大急ぎで懐へしまい込み深々と頭を下げた。
「では失礼する。信乃、悪いが車を──」
「もう呼んであるとも。そろそろ着くころだよ」
「さすがだな。──君、歩けるか?」
こくりと頷く青年の背に、椿生は軽く手を添えた。手のひらに骨の感触があり、やはりひどく痩せているのがわかる。売買されるような身の上であるから決して良い生活はしていなかったに違いない。心身ともに健康というのも、本当かどうか。
「どうするつもりだ?」
地上へと螺旋階段を辿る道中、信乃がこそりと耳打ちした。ちょうどそのことを考えていた、と椿生は応じた。
「まず食事を摂らせてゆっくり休ませる。疲れているだろうからな。落ち着いたら医者に診せて……」
「いや、そういうことではなく……本当に飼う気か?」
「ああ。飼うというのが適切とは思えないが、ともかくうちで面倒を見るつもりだ」
「……そうか。君がそれでいいなら、何も言うまい」
いきさつはどうあれ、己で決めたことである。後悔はなかった。椿生は傍らの青年にちらと目をやる。信乃との会話は聞こえていたはずだが特に気にする様子はない。視線に気づいた青年は軽く首を傾げ、にこりと微笑んでみせた。
ずいぶんおとなしく、また素直そうな青年だと椿生は感じた。こちらの言っていることは理解しているようだし、口はきけずともコミュニケーションに困ることはないだろう。大人ばかりに囲まれて育った椿生は騒々しい人物がいささか苦手であったから、むしろこれでよかったかもしれない。
必ずしも面倒を見てやる義理はないと、信乃は言外に滲ませていた。だが着の身着のままで所持品のひとつもなくおそらく身寄りもない、そんな青年をこのまま放り出すような真似は、椿生にはとうていできなかった。またすぐに路頭に迷い、ろくな目に遭わないに決まっている。それならば彼の気が済むまで好きなように屋敷で過ごさせればいい。いずれやりたい仕事なり行きたい場所なりが見つかるだろうから、そのときはできる限りの手助けをしてやろうと、そう椿生は考えていた。
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